◎水嵩まさる
(家康とは、また、何と信長を怖れている男なのであろうか)
……その意味では光秀は、どこかで家康よりも信長に甘えていた。
「なに、馬鎧三百に金三千両」
何を思ったか信長はふいに険しい顔になり、それから大きくのどぼとけまで見せて笑った。
「光秀!」
「はッ」
「家康の心構えが分ったか」
「と、仰せられますると」
「柱に彫りものしたり、茶道の遊びに千金投じたりする。わらわへの皮肉もあろう。が、いかにも東の護りはぬかりませぬと言いたげな土産じゃ。して、何かこのほかに口上はなかったか」
「はい……」
「なにッ!」
「さすがは家康、ぬかりはない。おれがいいだす前に先に言うたわ。そう言われると、無理は言えぬが……そうか猿がもとまで戦況を見に行ったか。こんどの戦では猿が大将。その下でも不服は言わぬ心構え、こころ憎いやつだ家康は……」
「……ただし、徳川どのは、これより京に入れられて、いろいろと費(つい)えかさむことゆえ、黄金の儀は二千両だけ受納、あとの千両はその費えにあてられたい。……」
もし家康が、それを素直に受け取ってくれなければ、切腹するよりほかはない。
(むごいものだ。奉公というものは……)
「……われら一統が、つねに粗衣粗食、費(ついえ)を節して暮らすは、万一のときのお役に立とうがためでござる。右府さま今日の中国出兵は、日の本の統一なるや否やの大切な戦、万民ひとしく渇望いたす平和の礎、これによって決するところと愚考いたす。そのような千載一隅のときに、微力をいたすは家康がよろこび、労られてはかえって不本意にござれば、まげてご受納下さるよう重ねて言上たのみ入る」
「ほほう、厳命でござるか」
「厳命とあれば、これは日向守どのの立場も考えずばなるまいかのう」
……接待役を免ずるゆえ、ただちに備中におもむいて、……
(来るものがついに来た)
いったん好悪の感情を抱くと、どこどこまでも執拗に相手にからみ、それを陥れずにはおかない信長……
(やはり、わしの眼は狂っていなかった……)
……やむなく光秀に接待させ、ひそかに次の機会を狙っていたのだ……
(それに対して、自分はいったいどう応えてゆくべきであろうか……?)
一族郎党のため、いかなる屈辱もしのぶべきだと決心しているはずなのに、全身の血がコトコトと音を立てて逆流しだしてゆくのがわかる。
(何のために……?)
「なに、料理の残りをみな堀に!?」
(そうか、そのようなことをしてくれたのか)
(光秀の運命が、このようなところから崩れ去っていこうとは……)
両国拝領はありがたいことだったが、そのあとで旧領の丹波、近江を召し上げる肚と、光秀はすでに以前から自分流の計算をし尽くしてしまっている。
(謀叛……)それしかないと考えて、もう一度光秀は、そっとあたりを見廻した。