御伽衆(おとぎしゅう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて大名家に存在した職掌である。
主君に召し出されて側近として仕え、政治や軍事の相談役となり、また武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務めた。御咄衆、御迦衆、相伴衆、談判衆など、数多くの別称がある。
戦国時代は参謀としての側面が強く、僧侶や隠居して第一線から退いた重臣、没落した大名、武将が僧形となり務めることが多かった。戦乱の世が治まってからは、主君の無聊を慰める役割も重視され、豊臣秀吉の頃には勃興した新勢力である町人らも召し出され新たな文化の担い手となった。江戸時代以降も将軍や諸大名は御伽衆を召し抱えたが、政治の実権が重臣に移るにつれ、次第に勢力は衰えた。
彼らの講釈話が庶民に広がり、江戸時代以降の講談や落語の源流となったとも言われる。
豊臣秀吉と御伽衆編集
豊臣秀吉は読み書きが不得手であり、それを補うべく耳学問として御伽衆を多く揃えた。一説には800人とも言われる。また秀吉の御伽衆には、元将軍や旧守護家出身など出自が高い者や、元々は主筋(織田家一門)や目上の武将だった者も多かった。それは、出自が低い自分が今では位人臣を極め、由緒ある血筋や家柄の者すら従うということを誇示する意図を込めていたと言われる。
秀吉の御伽衆として、武家では足利義昭、織田信雄、織田信包、織田有楽斎、六角義賢、六角義治、佐々成政、山名堯熙、山名豊国、斯波義銀、赤松則房、宮部継潤、細川昭元、滝川雄利、古田織部、金森長近ら、町人では千利休、今井宗薫、曽呂利新左衛門、大村由己らが挙げられる。
彼らは、秀吉の治世を内政面から支えるとともに桃山文化を生み出し、一方で簡素さを追求したわび茶を完成させるなど、のちの日本文化の一面を形づくった。