◎甲斐の風
「小田原はご当家にとっては奥方さまご実家。信じられぬことにござりまするが、どうやら家康と手を握り、家康が高天神城へ出兵すれば、小田原からも駿府へ兵を出す密約、確かになったと、この者は申しまする」
「なに、小田原がわれらの背後を突く密約を」
勝頼は思わず低く呻いた。
「ーー家康が駿府へ出兵すれば、氏政も兵を出して勝頼に当たるゆえ、駿府を徳川、北条の両家で分けようではないか」
(この姫の兄が敵へまわる……そんなことが、あってもよいものか)
「しかし、いまはその父御は世にはおわさぬ。万一そうなったらなんとするぞ……勝頼はふっとそれが心にかかって来たのだが……」
年齢の差だけではない。御前の若さを支えている、無邪気な気品が勝頼ほどの荒武者に全身で春の風をあててくるのだ。
眸も、鼻も、耳も、手も、足も、これほど愛らしく揃えられるものであろうか。
「小田原どのに、うまうまと一杯喰いました」
……今では昔に劣らぬ自信を取り戻しているつもりなのに、それが北条氏政の眼には、まだまだ家康に劣ると映じたのであろうか……?
戦国の女の悲劇に、三河と甲斐の別はなかった。
徳姫と信康を襲った不幸は、いままた小田原御前と勝頼の間にむざんな鉾を向けつつあった。
勝頼は、家康と氏政を結ばせた大切な原因が、自分にあることを見落としていた。
ここにおいて北条氏政は、もはや、勝頼は力にならぬと見きりをつけて、家康と結んでしまったのだ。
(この女の前に、自分は再び戻って来られないのではなかろうか?)
氏政の返事で、落ちぶれた今川氏真が、家康の浜松城へ身を寄せていることがわかった。
(どこまでも用心深い家康め……)
「御前の兄君、氏政どのが、徳川家へ寝返った。そのため互角の力に大きな開きができてしもうたと、女房どもまでが取り沙汰している。中にはそれを御前のせいのように……御前も身辺にお気をつけられまするよう」
「え、小田原の兄君が……」
「えッ!? それはまことでござりまするか太郎さま」