◎お湯殿問答
「お春には良人と決まった許嫁者(いいなずけ)がござりまする」
「だれじゃ。どこの家中じゃ。申してみよ」
「はい……この……岩松八弥……わしでござりまする」
◎想夫憐(そうふれん)
波太郎「姫の考えでは、岡崎と遠くなるのがおそろしい。万一にも和子と敵味方に相なってはと……それが迷いの種でござろう」
於大はハッと首を垂れた。
「肉親として女性としてはご無理もないこと。波太郎もご心中お察し申しまする。が、……その迷いにおぼれて、行く手の波を見あやまってはなりませぬ」
◎桜ぶろ
「垢かきに出て、殿さまをたぶらかす、女子の器量は腕にあるぞえ」
「桜はな、いちどに咲いていちどに散る、いさぎよい花じゃ」
「二夫にまみえるほど未練な花ではないわ」
「早く来ぬか。花じゃ。花じゃ。どこもかしこも花でいっぱいじゃ。何をしておるぞ!」
◎春雷の宴
「予はまた雷めが、後妻(うわなり)打ちに参ったかと思うていたが……」
それを聞くと侍女たちは思わずそでを口にあてて笑いをこぼした。……新しい後妻をたたきに来る風習が残っていたからだった。
(おもしろい殿)
☆あとがき
私は徳川家康という一人の人間を掘り下げてゆくことよりも、いったい彼と、彼を取り巻く周囲の流れの中の、何が、応仁の乱以来の終止符をうたしめたかを大衆とともに考え、ともに探ってみたかった。
当時の新興勢力織田氏をソ連になぞらえ、京文化に憧れを持つ今川氏をアメリカになぞらえ、作者は、弱小三河を日本として書いているのではないか。
ーー人間の世界に、果たして、万人の求めてやまない平和があり得るや否や。……
戦いのない世界を作るためにはまず文明が改められなくてはならず、文明が改められるには、その背骨となるべき哲学の誕生がなければならない。新しい哲学によって人間革命がなしとげられ、その革命された人間によって社会や政治や経済が、改められたときにはじめて原子科学は「平和」な次代の人類の文化財に変わってゆくーーそう夢想する作者が「徳川家康」に仮托して、人間革命の可能の限界を描こうとして気負っているというのがこの小説の裏の打ち明け話である。
……いわば私の「戦争と平和」であり、今日の私の影であって、……
(昭和二八・九・二四) 山岡荘八