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◎エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの7月王政時代、1836年に完成した。
パリはもとよりフランス全土の象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことも多く、世界有数の観光名所となっている。シャンゼリゼ通りの地下入口から地下道を通って近づける。料金を払い、らせん階段を上まで登ることもできる。エレベーターもあり、基本的に体の不自由な人のために使われているが、中二階の美術館やお土産ブティックの階までしか登れず、屋上のテラスまでのエレベーターは無い。
◎日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、英: Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。
江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印なされ、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで同批准書が交換された[2][1]。欧語ではアメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
◎アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、日本側に不利であり、一般に不平等条約といわれる。しかし同条約の付則第七則で定められた関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった[3][注釈 1]。
幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)。但し、日米修好通商条約の第二条は「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、これは日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲介することを宣言したもので、他の四カ国との条約にはこの文言はなかった[3]。
◎成歓の戦い(せいかんのたたかい、ソンファン-)は、日清戦争の最初の主要な陸戦である。成歓・牙山の戦いとも呼ばれる。
7月28日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃するため出発[注釈 1]。7月29日午前3時20分、佳龍里おいて清国兵の攻撃により歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者)、他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)[3]。午前8時30分に日本混成第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する[3]。
大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし、7月29日午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後3時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた[4]。
この作戦の日本側の死傷者は88名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
なお、安城の渡しの戦いで歩兵第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。
◎イヴァン・コンスタンチノヴィチ・アイヴァゾフスキー(ロシア語: Иван Константинович Айвазовский, 1817年7月29日 - 1900年5月5日)は、ウクライナ生まれの帝政ロシアの画家。
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0186〜0237 開目抄 0199:03〜0199:11 第23章 華厳・真言の謬解を挙ぐ
本文
無垢・摩沓が利根なりし権実・二教を弁えず
現代語訳
無垢や摩沓のごとき利根の人でさえ、権教と実教の区別に迷って謗法罪をつくり地獄へ堕ちている。
語釈
無垢・摩沓
無垢は無垢論師。迦湿弥羅国の人で、小乗において出家し、五天竺の中を遊学した。三蔵教を学び、後に大乗を誹謗し、世親菩薩に反対した。そのため心に狂乱を起こし、舌は五つに裂け、血を噴き出して死んだといわれる。摩沓は摩沓婆。数論派の学者で、広学多聞であったが、徳慧菩薩によって破折され、六日目に血を吐いて死んだ、と西域記にある。
利根
かしこい性質。鈍根の逆。