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2020.7.28-4

2020年07月27日 (月) 12:27
2020.7.28-

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【核心】75回目の夏が来た 論説フェロー 芹川洋一

 75年前の夏、NHKでアナウンサーをしていた武井照子さん(95)の話を聞いた。「あの日を刻むマイク ラジオと歩んだ九十年」という本で武井さんを知った。

●武井照子著「あの日を刻むマイク」

 昭和19年(1944年)9月、実践女子専門学校を半年繰り上げで卒業し、日本放送協会の放送員試験に合格して女性ばかりの16期アナウンサーとして働きはじめた。
 録音技術が発達していない当時、内地向けの中波放送がおわったあと、真夜中に東亜(東アジア)向け、戦地向けの短波放送もした。

 そして、そのときが来る。8月13日の夜、宿直勤務で夜間の短波放送を終え、少し休んで14日の朝になりアナウンス室に行った。

 浅沼博アナウンス室長が「女子アナウンサーだけ集まるように」という。居あわせた何人かで部屋に向かった。すると浅沼室長はみんなを見回しながらぼそりといった。

 「日本は負けたよ」――。

 「そのためのご詔勅が明日くだる。こうした時には必ず反乱軍が起こる。反乱軍が放送局に来て、ピストルを突きつけて、彼らの書いた原稿を読めといったら、どうする?考えておきなさい」
武井さんは「ショックでことばがなくて、何も考えられなかった」と振りかえる。ただ(日清戦争のとき)死んでも口からラッパを離さなかった木口小平(きぐち・こへい)のように、読んではいけないのかと思った。
 
浅沼室長は続けて「いいかい読みなさい。自分の身を守ることだよ」と説いた。武井さんは「自分を守っていいんだ」と目からウロコだった。

◇◇

 戦争体験の継承はメディアにとっても忘れてはならない。新聞が戦争に加担したのは広く知られるところだ。

 朝日新聞取材班「新聞と戦争」によると、軍部の強硬姿勢に批判的だった同紙は31年の満州事変のぼっ発をきっかけに、軍部の行動を追認する方向に社論を転換する。

 32年の上海事変での「爆弾・肉弾三勇士」をはじめ新聞社による公募歌が戦意の高揚に一役買ったのもその例だ。

 内閣情報部と、拡大改組された情報局によって言論統制が徹底され、41年の国家総動員法にもとづく新聞事業令で息の根をとめられた。

 日本経済新聞の前身である中外商業新報も、もちろんその例にもれない。編集局長だった小汀利得(おばま・としえ)が軍の意にそわない記事が掲載されるたび憲兵隊に呼び出され不愉快な思いをしたと書き残しているが、大本営発表を報じるしかなくなる。

 夏になると戦争に関する記事があふれるとやゆされた「8月ジャーナリズム」も下火になってきた。今や、戦争を知らない孫たちの時代だ。戦争は昔話になりかかっている。それだけにむしろ報じる必要性が増しているだろう。

 とくに今年はこれまでにないコロナ禍の8月である。

 戦禍と対比するとき、武井照子さんは「戦争中はみんなが助け合って、いたわりあって暮らしていた。今は人間関係が希薄で、そんな感じはしない」と語る。

 宮内義彦氏は「先の大戦もこんども政治が生殺与奪の権をにぎっている。それだけに政治はしっかりしてもらわないと困る」と語気を強める。

 それぞれの立場でコロナだけでなく戦争についても考えてみたい――。そんな2020年の夏である。



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