読書100 Volume

私の読書歴/蘇生の源泉

H22年〈30冊〉

世界の良書…心に残る一句

1.ファウスト第1部/ゲーテ

ゲーテ

 

お、月が登った満月だ

「この世をもっとも奥の奥で動かしているものは何か、それが知りたい。すべて生あるものを動かしているいる力は何か、そのもとは何か、そいつをこの目で見さえすれば、あれこれいいつのることもないのだ。
お、月が登った。満月だ。」
 

2.ファウスト第2部/ゲーテ

自分の影を跳びこした

自分の影を跳びこしたい

つまり、わたしとあなたがそうなのだ。過去は不要、原初の世界は、とびきりの神の子であるあなたのもの。城はあなたを閉じ込めてはならない!永遠の若さのなかで、至福の時を恵むため、スパルタの隣にはアルカディアが用意されている。逃れ出たのは、この楽園に住むためだった。運命の命じるところ、玉座の木陰の小亭となり、幸せのアルカディアが待ち受けている!

ゲーテの自問自答
「何がいちばんしたいか?」
「自分の影を跳びこしたい」



 
3. ゲーテ詩集
耳ある者は聞くべし

耳ある者は聞くべし、
金ある者は使うべし。

世の中のものは何でも我慢できる。
幸福な日の連続だけは我慢できない。

「他の五つのこと」
時を短くするは何ぞ?
活動!
時を堪え難く長くするは何ぞ?
遊惰!
負債におとしいるるは何ぞ?
手をこまぬいて待つこと!
利益を得しむるは何ぞ?
長く思案せぬこと!
名誉に導くは何ぞ?
おのれを守ること!

4. ゲーテ格言集
真剣さなくしては

家庭の支配ということより高い地位がありますか。男は外的の事情に悩まされ、財産を作り、これを守らねばなりません。…私に言わせれば、男は支配しているつもりで何も支配せず、理性的であろうと欲して、常にひたすら政略的にならざるを得ず、公明であろうとして、隠し立てをし、正直であろうとして、うそをつかざるを得ないのです。達せられない目的のために、自己との調和という最も美しい目的を常に放棄しなければならないのです。これに反し、分別のある主婦は内部において実際に支配し、家庭全体にあらゆる活動と満足とを可能にします。
(「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」から)


生活の目的は生活そのものです。……この意味で私も心の備えをしています。われわれが内に向かってなすべきことをしたら、外に向かってなすべきことはおのずとなされるでしょう。
(J・H・マイヤーへ)

生活のすべて次の二つから成立っている。
したいけど、できない。
できるけど、したくない。
(「格言と反省」から)

真剣さなくしては、この世で何事もしとげることができない。教養のある人と呼ばれる人たちの間に、真剣さはほとんど見いだされない実情である。
(「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」から)

「処世のおきて」
気持よい生活を作ろうと思ったら、
済んだことをくよくよせぬこと、
滅多なことに腹を立てぬこと、
いつも現在を楽しむこと、
とりわけ、人を憎まぬこと、
未来を神にまかせること。
(「警句的」から)

5.レ・ミゼラブル全5巻/ユゴー

レ・ミゼラブル

 

第一巻 ミリエル司教

1815年10月のある日、76歳のディーニュのミリエル司教の司教館を、 46歳のひとりの男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年 も服役。行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与 えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、2本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は 司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少 年プティ・ジェルヴェの持っていた銀貨40スー を結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、正直な人間として生きていくことを誓う。

第二巻 コゼット
「なんていう名前?」
「コゼット」
「嬢ちゃん! うちはどこ?」
「モンフェルメイユよ、おじさん知ってる?」

「いったい誰が、こんな時間に、森の中まで、君を水くみにやるんだね?」
「テナルディエのおかみさん」

「わたしのご主人よ、宿屋をやってるの」
「宿屋?、じゃ、おじさんは、今夜そこで泊ろう。連れてってくれるね」
「行きましょう」

第三巻 マリユス
パリには、ある子供がおり、森にはある小鳥がいる。小鳥は雀と呼ばれ、子供は浮浪児と呼ばれる。

第四巻 プリュメ通りの牧歌と
サン・ドニ通りの叙事詩
一八三一年と一八三二年という、七月革命に直結する二年間は、歴史上最も特異な、最もきわだった時期の一つである。

第五巻 ジャン・ヴァルジャン
ジャベールとジャン・ヴァルジャン、法に仕える人間と法に裁かれる人間、どちらも法の下にいる二人の人間が、二人なら法を超えるところまで来てしまったとは、恐ろしいことではないか?

彼は眠る、奇しき運命だったが、
彼は生きた、彼は死んだ、
天使を失ったときに。
すべては自然にひとりでに起った、
昼が去ると 夜が来るように。


 

愛するとは行動するこ

正義の言論は銃剣よりも強し

――大文豪ユゴーの戦う魂 ――

――民衆を見下す邪悪を責めよ!――

――詩人ユゴーの絶筆「愛するとは行動することだ」――

「ユゴーを読め!」 あの懐かしい戸田先生の声が、今も、私の耳朶から離れない。 ヴィクトル・ユゴーは、わが青春時代の、戦い生き抜く力となった大切な書である。 十代から幾たびも読み返し、今でも胸の奥深く刻まれている『レ・ミゼラブル』。 戸田先生の厳命で同志と回し読みした、人間と時代の深遠なる動向を書き上げた、あの『九十三年』――。 今でも、私の書棚に光っている。ある時は天を仰ぎ、そしてある時は手を合わせながら、わが心を生き生 きと躍動させゆく名作には、人間が立ち返るべき、何か深い魂の鼓動が感じとれる。 ユゴーが生きた十九世紀のフランスは、動乱の打ち続いた時代でもあった。 何を信じたらいいのか、多くの人びとが迷っていた。 力になるものがない、慚愧の涙が流れる時代であった。 正しき政治とは、いったい何か。真実の英雄とは、いったい誰のことを言うのか。 輝かしき、あの歴史的なフランス大革命の理想と精神は、いずこへ消えてしまったのか。 このまま、未来永劫に人間は嘆き悲しんでいかねばならないのか。 彼は、苦悩に疲れ果て
た人びとの天空に、ペンの力で、北極星の如く動かぬ指標を示したかったのだ。 “すべてを、民衆を通してながめよ!そのなかにこそ真理を認めることができるであろう”――彼は、人民から逃げなかった。彼は、宿命から逃げなかった。彼は、革命から逃げなかった。 そうだ! 彼は一生涯、民衆の魂のなかにこそ、正義があることを知悉していた。そして常に、苦悩と試練を受ける 庶民の味方で生き抜くことを決意していた。 よく知られているように、『レ・ミゼラブル』の題意は「惨めな人びと」ということである。 惨めな思いを余儀なくされる人間の側に立つことだ! 人びとを惨めにさせる敵とは断固、戦うことだ! ここに、ユゴーが叫び抜いた正義があった。信念があった。 この勇敢なる大文豪の叫びは、民衆の平和と幸福を決定させゆく、仏法者の魂と一致している。 戦後の荒れ果てた社会を奔走していた、創価の若き我らの宗教革命の魂を、必ずや彼は賞讃したにちがい ない。 社会は暗かった。生活も辛かった。 目標も全く光りがなかった。その混迷の時代に、広宣流布のため
奮闘した若き私たちの魂に、彼は深い共 鳴をしたにちがいない。 真剣に、そして正しき社会を建設しようと決意しながら、心の底には、信仰という無限の力を、我らは 持っていた。 その深き思いに重ね合わせていくような思いで、あの忘れ得ぬ『レ・ミゼラブル』を読んだものだ。 ◇ 十月末から、東京宮士美術館で「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」が開幕する。 展示品の中に、フランスの国宝に指定されたユゴーの直筆稿があるとも伺っている。 書かれたのは一八八五年五月十九日」――死の三日前の絶筆である。 偉大な詩人であり、作家であったユゴーが、自らの思想を文字で表現した、最後の記録といわれているよ うだ。 「愛するとは、行動することである」 わずか一行に凝縮された、大文豪ユゴーのこの言葉は、私も大好きであった。 彼は、行動の人である。人間の王者であった。 彼には、勲章など真っ平であったにちがいない。名誉なども、塵の如く思っていたことであろう。 胸から湧き出ずる、あふれんばかりの民衆愛、人間愛を、ペンに注ぐだけでなく、そ
のまま行動に移して いった英雄である。 政界への進出があった。死刑廃止運動の激烈なる戦いがあった。ルイ・ナポレオンへの歴史的な抵抗が あった。 亡命後の言語に絶する言論闘争があった。 その愛から発した行動は、いわゆる甘いメロドラマでは絶対になかった。 血がほとばしる、斬るか斬られるかの、厳しい攻防戦であった。 彼の心底の決意は、深かった。彼の胸中は、気高い闘争心に燃えていた。 そして彼は、自らの前途が輝く春ではなくして、気高き廃墟になることも覚悟していた。その決定した心 には、清例な滝が流れていた。 民衆を思うゆえに、彼は、民衆を裏切った者は断じて許さなかった。 それまで支持していたルイ・ナポレオンが独裁者の素顔をのぞかせると、攻撃の急先鋒となったのであ る。 当然、敵も多かった。僧まれもした。 “大事業を成した人間、新しい思想を打ち立てた人間ならば、誰でも敵はいるものです”とは、有名なユ ゴーの言葉である。 「光り輝くもののまわりには必ず、雑音を放つ黒雲が群がるものです」 彼が友人
を励ました、この言葉は、自らの体験に基づく大確信であった。 ◇ 仏法の魂も、ただ実践の二字である。 青年たちが調べてくれたが、御書の中には、「法華経の行者」という表現が、実に三百三十カ所を超え て、使われている。 いわゆる「信者」でも、「学者」でもない。この「行者」とい、二字に、日蓮仏法の炎の魂があることを 断じて忘れまい。 法華経は、行じる経典である。実践の法門である。 「行」の中に「信」と「学」の昇華があるからだ。日蓮仏法は、いわゆる観念観法では断じてない。行動 しないことは、反仏法なのだ。真実の信仰ではない。 御義口伝には、「妙法蓮華経」の五字を人間の体に即して説かれている。「経」とは「足」にあたる。い わば広布のために行動してこそ、真の妙法の実践となるのだ。 学会活動は、動けば動くほど、身も軽くなる。心も晴れやかになる。 功徳もある。仏になれる。 ともあれ、永遠の大勝利者となりゆくのだ。 足を使い、五体を使って、生き生きと行動するなかに、わ が身を妙法蓮華経の当体と輝かせていけるの
だ。これが御聖訓である。 ◇ 私は今でも、大好きなユゴーを読むと、偉大なる恩師である戸田先生のことが思い返されてならない。 革命の文豪ユゴーのペンは鋭かった。あらゆる銃剣よりも強かった。 いつどこにあっても、彼は民衆を愛した。民衆を鼓舞した。民衆の力のみを信じた。 その青年の魂を高らかに歌い上げていく反面、この世の偽善や不正を容赦なく暴き立てた。 戸田先生の心も、常に邪悪に対しては、厳格なる怒りを持っていた。 しかし、庶民には限りなく温かく、命を削って励まされた。皆、その真心がいかに尊いかを感ずるので あった。 青年に対する鍛錬は、限りなく優しく、そして厳しかった。 青年を我が子以上に愛しながら、未来の大指導者に育てゆかんとする、至高至純の信念が胸に満ちあふれ ていた。 広布の闘争は「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである」と常に教えられた。 ゆえに民衆を欺く者には、烈火の如く厳しかった。 私たち青年に「ユゴーを読め!」と言われた真意も、ユゴー文学の魂こそ、革命児の魂であるからだ。 ことに先生は、
広宣流布を阻む「一凶」とは、いったい何か、その実体とは何かを、ユゴーを通して、激 しく教えてこられた。 その答えは、一言にして言えば、「民衆を蔑視し抜くという権力の魔性」であった。 何ものにも民衆を睥睨させるな! 侮辱させるな! もし、それを許してしまえば、真の平和はない。真の幸福はない。そしてまた、真の広宣流布はできな い。 「民衆万歳」――『レ・ミゼラブル』の作中、革命に蜂起した市民が壁に彫り付けたのは、この文字であっ た。 彼らは、民衆のために一番、大切な命を惜しまなかった。 特に、この場面の文章は、私の脳裏から、今でも離れることはない。 砦を敵に囲まれてしまい、厳しき死を覚悟していった絶体絶命の場面で、若きリーダーである一青年は、 崇高なる無名の声を聞いた。 「諸君、死屍となっても抵抗しようではないか」“断じて戦い抜こうではないか! たとえ人民が我々を見 捨てたとしても、我々は人民を見捨てないことを示してやろうではないか!”と。 私は、この一節を、今でも感動しながら覚えている。
広宣流布とは、全民衆の幸福を実現する尊き大闘争である。 人間は皆、平等だ。いったい誰に、庶民を恫喝する権利があるというのか! 庶民を見下すような、宗教屋も、政治屋も、マスコミも、絶対にのさばらせてはならない。 戸田先生は、学会を侮辱し、同志を軽んずる輩には、それはそれは厳しかった。まるで天井が落ちてくる かと思うような雷であった。臆病な弟子は震え上がった。 真実、学会を愛するのならば、卑劣な敵を怒り、猛然猛灘と戦いを起こすことだ。それができないのは、 狡賢き保身であり、臆病な奴なのだ。 ◇ 徹底的に「偽善」を嫌ったユゴーだが、その最たる例は聖職者であった。 自らの死後についての遺言も、痛烈だ。 「私の葬式には、どんな司祭にも立ち会ってもらいたくない」 尊き貧しい庶民の味方であった彼は、大切な、大好きな民衆と共に、この世を去りたかったのである。 「私の遺体は、貧者の柩車で、墓地に運んでもらいたい」「私は教会での祈りをいっさい拒絶する」 『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、臨終を前に、“墓石に名
を刻むなかれ”と遺言し、無 名の貧しい一人の人間として死んでいった。 ユゴー自身の臨終の覚悟と重なり合う場面である。 ユゴー文学に造詣の深いフランス文学者から、私は伝言を頂戴したことがある。 ――いかなる教団も、社会的要素を無視した場合、その宗教は独善になる。ユゴーが権威主義の聖職者を責 めた理曲も、ここにあると。 鋭い、また正しき洞察であった。 社会に背を向け、自ら布教もせず、信徒を食い物にしてきた教団が、世間の笑い物になり、凋落の一途を たどってきたことは、皆様もご承知の通りだ。 罪人だったジャン・バルジャンを改心させたミリエル師は、粗末な僧衣をまとい、生活費も切りつめて人 びとに奉仕する、高徳の人であった。 これこそ、ユゴーの理想とした聖職者であった。 その正反対に、贅を凝らした衣で飾り立て、信徒の供養で豪遊する坊主など、ユゴーの精神に照らせば、 最も唾棄すべき、最も軽蔑すべき存在だったのだ。 民衆を軽んじ、民衆を利用し、そして民衆を欺く偽善と戦い抜け! 民衆を見下す、傲慢な奴らを責め抜
け! そして断じて倒せ! 断じて倒すのだ! これが、広宣流布の急所である。戸田先生が教えてくださった学会の魂の結論である。 そこに、迫害が 襲いかかるのは必定であろう。 古今東西を問わず、偉人を妬みゆく黒い心、卑劣にして憎しみの悪口は枚挙にいとまがない。 正義の人が中傷され、憎まれ、叩かれ、死刑にまでされゆく、恐ろしき嫉妬の人間と残酷な権力の歴史 は、消えることがなかった。 祖国を追われた亡命先のブリユッセルで、ユゴーは叫んだ。 「(わたしは)逆境を好ましく思う。自由のため、祖国のため、正義のために、自分がなめる辛酸という辛酸 を好ましく思う。わたしの良心は喜々としている」 ユゴーは勝った。 ユゴーは人間として最高の勝利者となった。 “自由と正義を守る戦いのなかでこそ、人間の魂は誇り高く輝くのである!” と叫んだユゴーよ! 人生は、どこまでも闘争である。 恩師は、静かに厳しく言われた。 「大作、君はユゴーたれ!」

二〇〇四年十月十四日 東京牧口記念会館にて

6.モンテ・クリスト伯全7巻/アレクサンドル・デュマ
 
シャトーディフあなたの友なる
エドモン・ダンテス
モンテ・クリスト伯爵

「伯爵さまは? エデさんは?」
「あそこでございます」
…水平線のかなた、空と地中海とを分かっている…

「いつまたお会いできることやら?」と、涙を拭きながらマキシミリヤンが言った。

「あなた、」と、ヴァランティーヌが言った。「伯爵さまがおっしゃいましたわ。人間の智慧は、ただこの二つの言葉にふくまれている、と。

待て、しかして希望せよ!
 
7九十三年(2)/ユゴー

93年女性が家庭の女王に!

上:暴虐に対する人間愛の勝利
下:革命と良心の葛藤劇



一七九三年五月の末のころ、サンテール将軍の指揮下にブルターニュへ攻めこんだパリ軍の一大隊が、…

ゴーヴァンは話しつづけた。
「女性についてはいかがですか?女性をどう扱われるおつもりですか?」
シムールダンが答えた。
「いまと同じさ。男性の奉仕者だよ」
「そうです。ただしひとつの条件づきで」
「どんな条件だ?」
「男性が女性の奉仕者になるという条件です」
「本気でそう思うのか?」と、シムールダンが叫んだ。「男が奉仕者だと! とんでもない。男は主人だ。わしが認める王政はただひとつ、家庭という王政だけだ。男は家庭では王なのだ」
「そうです。ただひとつの条件づきで」
「どんな条件だ?」
「女性が家庭の女王になるという条件です」


あれはいったいなんだろう。

「九十三年」は古い世界に向かってこう言ったのだ。「さあ、やってきたぞ」
断頭台は城塔に向かって、こう言う権利をもっていた。「わたしはおまえの娘なのだ」
と同時に、城塔の方も、こうした死とのつながりのあるものは暗い生き方をしているから、自分はこの娘に殺される、と感じていた。

そして、この二つの魂、悲劇を分け合う姉妹とも言うべき二つの魂は、ともに連れだって、飛び去っていった。ひとつは闇、ひとつは光と化して、たがいにもつれあいながら。

 
8永遠の都(3)/ホール・ケイン
永遠の都

創始者は常に殉教者だ


上:人間共和の旗を掲げて
中:壮大な革命劇とロマンス
下:鋼鉄よりも固き同志愛

序曲
「ああ、子供たちの泣き叫ぶ声、子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえる!…悲しいかな、国家や政府、王家の人たちは気にもとめない。いや、耳さえ傾けようとしないのだ!」

第一章 神聖ローマ帝国
一八九九年の最後の月の最後の日であった。法王は新しい世紀を“特別聖年”と布告し、その大勅書(ブル)のなかで、自分に忠実な善男善女をローマに招いていた。

第二章 人間共和
「政府が…画策した…パン課税に対して…法王に…本来の義務に立ち返らせるべく…もはや自力で立ち上がらざるを得ない…市民を外出させないように…一ローフ以上のパンは買わせないことにしよう。子供たちにあたえる以外は…円形競技場(コロセウム)に集まろう。…パンと水を確保するために事後の対策を決定しよう」

第三章 ドンナ・ローマ
「キリストがそうでしたよ」とロッシィは答えた。「祖国や信仰のために殉じた者で、全体のために個人を犠牲にしなかった者はひとりもいません。男がいったん使命に生きる以上、血縁の者は甘んじてその犠牲にならなければなりません」

第四章 デイビッド・ロッシィ
「人間性の立場からです」
「そうじゃ、ありませんか」
「人間的な感情こそ、この世でいちばん気高く、いちばん神聖なものです。人間的な感情こそ、神という存在の唯一の証であり、また不滅なもの、善と悪という存在の唯一の証なのです」

第五章 総理大臣
「教会の精神と、教会の体制は別個のものである。教会の精神は民衆と共にあります。それは神聖なものであり、永久にほろびることはないでしょう。もし教会の体制が民衆の意志に反していれば、旋風にみまわれて一掃されるでしょう」

第六章 ローマのローマ人

きょうというこの日まで、人間性が神性になり得るものとはついぞ知りませんでした。それは、ほんとうに神聖なものですわ。

それは勝利の声──欺瞞に打ち勝った勝利、誘惑に打ち勝った勝利、嫉妬に打ち勝った勝利、なかでも自分に打ち勝った勝利の声だったのですわ。

「お前たちはおいらをぶちのめした。しかし、そんなことはいっこうに平気さ。おいらはロッシィを信ずる。最後までロッシィを支持する」と、ブルーノは言いたかったのです。

第七章 ローマ法王
「あの人物は法王ご自身の血族だと教えられたとしたら……」
法王の掌中でふるえていた十字架思わずこぼれ落ちた。法王は椅子から腰を浮かせた。「その場合……その場合とても……ただ……神のみ心が行われるだけであろう」、そういったきり、法王は絶句してしまった。

「さようなら、敬愛する兄弟よ」

「…汝、滅びる人間にすぎざりしことを忘れるなかれ!」

第八章 国王
「兄弟たちよ」、ロッシィはいった。「われわれは君主制の敵であって、国王個人の敵ではありません。法王制の敵であって、法王個人の敵ではありません」

第九章 民衆
今日まで、傲慢にもローマを自分のものだと主張してきた人びとはことごとく滅んでいます。──皇帝も法王も国王も。賭博師のように彼らはローマを手にいれましたが、また賭博師のようにローマを失ってしまいました。ローマはただ、真の主権者──民衆が──全世界の民衆が主権者として登場するのを待っていたにすぎません。

終曲 ─遠い先の後日譚─
創始者はつねに殉教者だ。

「だれの彫像かね?」
「おや、ご存じないんですかい、旦那。デイビッド・ロッシィの像でさあ。この建物に住んでいたひとですぜ。像は地下室で発見されたんでさあ」
老紳士は立ちあがって静かに立ち去ってゆく。だれも視線をやる者はいない。若い学生たちの楽しそうな笑い声だけが、街に出た老紳士のあとを追いかけてゆく。コロンナ広場に押しかけようとする大きな人波に、老紳士はあやうく押しつぶされそうになった。 おわり

解説
今日ではこの書中にほのめかされている事物も、多くは事実となっていて、それよりもはるかに痛烈なことが往々主張されている…



 

虚栄の人間がなんだ


虚栄の人間がなんだ
一、1951年(昭和26年)の2月8日、戸田先生のもとに、私が選んだ青年の精鋭が集った。 たったの14人。当時はまだ、本当に信頼できる同志 は少なかった。 そして先生のもとで、訓練が開始された。 最初の教材は、革命小説『永遠の都』 (ホール・ ケイン著)。 我らの「永遠の都」をつくるのだ! そうした師の心が込められていた。 『永遠の都』を読め。君の一番信頼している人間にも読ませなさい──こう戸田先生は、事前に私に言われていたのである。 23歳の私は、日記に記した。 「宗教革命の若人十四名、勇躍、師の下に集まる」 「今夜の歴史的会合、実に三時間以上に及ぶ。皆、真剣なり」 「吾人等(ごじんら=我ら)の断行せんとする革命 は、それら(=政治革命や経済革命)より本源的な、 宗教革命なり」 「即ち、真実の平和革命であり、無血革命なり」 厳粛であった。 躍動があった。

人間讃歌を高らかに!

一、 『永遠の都』の主な舞台は、西暦1900年の ローマである。 若き革命家たちが、民衆が、時の暴政に立ち上が る。宗教の権威や政治の権力と、敢然と戦う。 その先頭に立つ一人がロッシイ。学会でいえば、青年部のリーダーである。 革命児たちは、人間共和の理想を掲げる。 本来、人間に、上も下もない。皆、平等だ。我らの 「人間主義」の信条とも共鳴する。 「永遠の都」を目指す若人は、絶対の同志愛で、厳冬のごとき幾多の試練を乗り越え、歓喜が躍動する“勝 利の春”を勝ち開く。そういう物語である。 この本を通して、戸田先生は、学会の真髄の精神を 教えてくださった。本当に偉大な先生であられた。 広宣流布とは、平和と文化と教育の「永遠の都」を つくる大事業である。 正義と幸福の「永遠の都」。 民衆勝利の「永遠の都」。 人間讃歌の「永遠の都」。 生命尊厳の「永遠の都」。 常楽我浄の「永遠の都」。 これらの大建設は、人類が何千年来、求めてきた夢 である。目標である。この偉業を根底から実
現してい るのは、わが創価学会しかない(大拍手)。

“我らは前進! 勝利の日まで”

一、ここで、『永遠の都』から、いくつかの言葉を 紹介したい。〈以下、引用はすべて、新庄哲夫訳『永 遠の都』潮文庫から〉 まず、主人公の革命児ロッシイの言葉である。

「いまほど、未来への強い確信をいだいたことはない。どこへいっても、時代の流れはぼくたちに味方している」
我々の時代を開こう!──これが革命児だ。青年部 の心意気である。 作品に綴られている。

「国家には興亡があるけれど、人間は不滅の存在 だ」
一番大事なのは人間である。国家ではない。ゆえ に、「人間革命」が重要なのである。

ロッシイは言った。 「人間性こそ、この世でもっとも神聖なものです」
この最も神聖な「人間性」を、仏法を持(たも)っ た人は、最高に輝かせていくことができるのだ。

さらに、ロッシイの言葉である。
「道徳に立脚した革命のほかはいかなる革命も永続 しない」
「宗教の名において行なわれた革命は後退すること があっても、勝利をおさめる日がくるまでは絶対に死に絶えない」
一つの真髄ともいえる言葉である。 我らが進める「人間革命」の大運動も、まさにこの 言葉通り、永遠性をもっている。すごいことである。 これ以外に、人間の真の勝利はない。

同志とともに!

一、ロッシイの同志であるブルーノ。彼は、謀略を はねのけ、最後の最後まで友を信じ抜き、
「ロッシイ 万歳!」
と叫び、死んでいった。 心から離れない重要な場面である。 同志を裏切らない。同志を守り抜いて、生涯を全う する。 今の世には、これと反対の人間が多い。自分はいい 子になって、同志を売る──なんと卑劣な姿か。 戸田先生は、本当に深い考えをもって、この本を読 ませてくださった。 私は、戸田先生のご期待通りに行動し、生きてきた つもりである。 このブルーノの最期について、美しき女性ローマは 綴っている。
「欺瞞(ぎまん)に打ち勝った勝利、誘惑に打ち 勝った勝利、嫉妬に打ち勝った勝利、なかでも自分に 打ち勝った勝利の声だったのですわ」
ヒロインであるローマは、こうも語っている。 「わたしにとって、幸せとは苦しみの中にしか見つ からないものですわ」
その通りである。 苦労があるから成長できる。生命の濁りも、信心で 浄化される。
「煩悩即菩提」である。

一、再び、ロッシイの信念を紹介したい。男子青年部の諸君のために。
「こんごどんな事態が発生しようと、そんなことは 少しも意に介さないで、民衆のために一身をささげよう。 自分と、人の世のために尽くすという仕事とのあい だには──たとえどんなことであれ割り込んでくる余 地はないのだ」
そして、ロッシイはこうも綴っている。
「わが身に課した使命をつらぬくにあたって、いつ ふりかかってくるやもしれぬ艱難(かんなん)を受け 止める覚悟ができていなくてはなりません」
また、ある登場人物は語っている。
「山は動かない。しかし、人間は動くようになって いる」
印象深い言葉である。

師弟で築け 永遠の都を
〔23歳の決意〕
「我らの革命は真実の平和革命だ」
〔主人公ロッシィ〕
正義の怒りは困難の壁を打ち破る

「何を読んだ?」
「どんな内容だ」

一、戸田先生は、以前から『永遠の都』を読んでおられた。先生にとって、大事な一書であった。 そして、私を見つけ、「よし、大作、読みなさい」 と薦めてくださったのである。 訓練は、一対一。私は当時、幹部でもなかった。しかし、戸田先生のもとで薫陶を受けさせていただい た。 先生に初めてお会いしたのは19歳。大田区の座談会 でのことであった。 先生との日々は、美しい光景となって、今も私の心 に焼き付いている。 戸田先生はよく、世界の名著に触れて、「大作、い い言葉だな」とおっしゃっておられた。 先生も一緒に読まれた。「どこまで読んだ?」と、 よく聞かれたものである。 会えば、「今、何を読んでいるんだ?」「それは、 どういう内容だ?」と聞かれる。先生の訓練は厳し かった。 ごまかそうにも、嘘は長続きしない(笑い)。1年 365日、油断できない(爆笑)。私の妻も、よく知って いる。 本当に徹底して薫陶していただいた。

一、『永遠の都』には綴られている。 「民衆の敬愛という広い基盤に立った王座は強く、 正しい」 一番大事なのは、民衆である。民衆の上に、大道は 開かれる。民衆よりも大事なものはない。 また、このような一節もあった。
「創始者はつねに殉教者だ」
先頭に立って戦う創始者! 牧口先生も、戸田先生 も、そして私もそうである。 享楽(きょうらく)になど見向きもせず、自分をなげうって戦う。それなのに、悪口を言われる。それ が、殉教者である。 私は、戸田先生の遺志を、寸分も違えることなく、 実現してきた。この一点を断言しておきたい。 歴史を見ても、正義の人がヤキモチを焼かれ、中傷されてきた。 それを見ながら、何もせず、真実を叫ばなければ、 その罪は大きい。 ロッシイは、強い信念をもっていた。
「殉教にはなんという力があるのだろう! 古代 ローマの皇帝たち、貴婦人、宮廷人はいまいずこ? ただのほこりと灰にすぎないではないか。ところが、 殉教者はいまの世にも生きつづけているのだ!」
虚栄の人間がなんだ。殉教者こそ、最も尊いではな いか──と。 ロッシイの言葉には、こうある。
「正義の精神にのっとった大きな憤りは、人種や国家間のあらゆる障害をうちこわしたのだ」 壁を壊せ。新しいものをつくれ! 真実の正義の精神、正義の人間性でいけ! この心で進もう。ロッシイのごとき、革命児となっ て! 〈会場から「ハイ!」と力強い返事が〉

若者に栄(さかえ)あれ

9神曲(全3巻)/ダンテ

神曲一切の望みを捨てよ








一切の望みを捨てよ

地獄篇

人生の道の半ばで
正道(せいどう)を踏みはずした私が
目をさました時は暗い森の中にいた。

ベアトリーチェとウェリギリウス
「あなたに使いをお願いするわたしはベアトリーチェでございます」

地獄の門
「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」

「先生、この耳を聾(ろう)する騒音は
何ですか?
苦悩に打ちひしがれている
この人々は何者なのですか?」
「このみじめなさまは
誉れもなく謗(そし)りもなく
生涯を送った連中の
哀れな亡霊のすがただ。
神に仕えるでもなく、そむくでもなく、
ただ自分たちのためだけに存在した
邪悪な天使の群とまじりあっている。
天はこうした奴が来ると
天国が汚れるから奴らを
追い払うが、
深い地獄の方でも奴らを
受け入れてはくれぬ。
こんな奴らを入れれば
悪党がかえって威張りだすからだ」



 

悪魔大王

世界の良書 心に残る一句

ダンテ/神曲
地獄篇「第三十四歌」

第九の圏谷(たに)の第四の円は、地獄の底に当たり、ユダの国ジュデッカと呼ばれ、恩人を裏切った者が全身を氷漬けにされている。
キリストを裏切ったユダ、カエサルを殺したブルトゥスとカシウスである。

「地獄の帝王の幟(のぼり)が外に現れた。
こちらへ来るぞ、正面をよく見ろ」
「奴の姿が見えるはずだ」

「見ろ」「これが悪魔大王だ。
この場所ではいいか、
しっかりと肝っ玉をすえるのだぞ」

奴は世界に穴を穿(うが)っている。



 

人の力の栄えは空しい

世界の良書 心に残る一句
神曲/ダンテ

「煉獄篇」
人の力の栄えは空しい
ドメニーコ・ディ・ミケリーノ
『ダンテと『神曲』』
画面左は地獄、奥は煉獄山、上は天国。
右はフィレンチェの町で、ここに見える花のサンタ・マリヤの寺の中に現在この作品は飾られている。
1465年、ダンテ生誕二百年を記念して描かれた。

より良い海を馳せゆくために
私の詩才の小舟はいま帆を掲げて、
あの残酷な海を後にして進む。
私は歌おう、人間の魂が清められて
天に昇るにふさわしくなる
この第二の世界を。
詩(うた)よ、
死の世界からいまここへ蘇(よみがえ)れ
おお私のつかえる聖(きよ)らかな
詩の女神たちよ、

魂たちの舟
舟頭の、姿がはっきりと見えはじめた。すると先生が叫んだ、「さ、さ、ひざまずけ、
神のお使いが見えた、合掌するがよい」

「イスラエルの民エジプトをいで」

三位一体の神が司る無限の道を
人間の理性で行き尽くせると
期待するのは狂気の沙汰だ。
人間には分限(ぶんげん)がある
『何か』という以上は問わぬことだ。
もしおまえらにすべてが
わかるというのなら、
マリヤが〔キリスト〕をお生みになる
必要はなかった。

それが満たされぬままに
永劫の憂き目を遭うている人々、
名前をあげれば
アリストテレスやプラトン

山の麓(ふもと)
すると左手から魂の一群が現われて、
私たちの方をさして足を動かしてくる、
来るとも思えぬほどゆっくりと近づいてくる。

「おお福(さいわい)の中(うち)に生を了(お)えた人よ、はや選ばれた魂よ」
とウェリギリウスが口をきった、

時はその値を知れば知るほど潰すのが辛い

世の噂が違っているなら、真相を伝えてくれ。

ここでは現世の人々の祈りで進みがずっと早くなるのだ。

人には魂の上にもう一つの魂があり、

岩場を登る
私たちは砕けた岩間をよじ登った、
両側から岩壁がせばまって
下の足場へ両手両足をつかねばならなかった。

一歩も退(さが)ってはならんぞ
誰かよく道を知った連れが現われるまで
常に山の上を目指して私の後からついて来い

腰をおろした、
来(こ)し方を振り返れば人は元気がつくものだ。

次から次へと考えが湧く男は、
とかく目標を踏みはずす。
湧きあがる力が互いに力をそぎあうからだ

ただひとり邪道を排し、進んでいる

他人の噂などよりももっと太い釘で
そうした有難い評判が
君の頭の心(しん)に
深く打ちこまれているはずだ

おお、
惨めに疲れはてた高慢なキリスト者よ、
おまえらは心の眼を病んでいるから、
後ろ向きの道を正道と信じているのだ

ああ、人の力の栄えは空しいものだ!

浮世の名聞はいわば風の一吹き、
ある時はこちらへ、ある時はあちらへと吹く。
風向きが変われば名も変わる。

千年の後に君の名声に
変わりがあるとでも思うのか?
その千年の歳月も
永遠に比べれば短いものだ。
天をゆったりとめぐる
軌道に比べればたかがまばたき一つだ。

当時のフィレンツェは
およそ気位が高かった。
今はおよそ婬蕩(いんとう)な都だが。
君たちの名声は、
草や葉の色のように、外に出た
とみるまにまた消える。
葉が大地からのびるのは
太陽のおかげだが、
その太陽に照らされて色もあせる

「君は本当のことをいうから、
僕の心に謙遜の念が湧き、
思い上がりも消え失せる。
だがいま君が話にふれた人は誰のことだ?」

「目を下の方へ向けて
おまえの足が踏みしめる大地を見るがいい、
足取りがずっと楽になるだろう」

ああ慢心するなら慢心するがいい
…頭を下げるな。
もしさげれはおまえらの
極悪非道が目に映ってしまうぞ!

おお人間よ、
上に舞いあがるために生まれながら、
なぜほんのわずかの風にも墜ちてしまうのか?

「心の貧しき者は幸なるかな」

「汝らを虐げる者を愛せ」

だから彼らの沈黙は
私たちが正しい道を
進んでいるという証だった。

世の中からは
徳がいっさい姿を消し、
悪意がその中に巣くい、
また外にものさばっている。

これからは肝に銘じてくれ。
ローマ教会は
〔世俗と宗教の〕二権力を
掌中に握ろうとしたから、
泥沼に落ち、自分も汚し、
積荷も汚してしまったのだ。

世の中には自分の隣人を踏み台にして
優越を狙う者がいる。
そしてただこのためにひたすら
相手が立派な地位から
転落することを願っている

また他人が出世すれば、
権力や寵愛や栄誉や名声を
自分が失いはすまいかと
惧(おそ)れる者がいる。
それが心配で他人の不幸を愛するようになる。

また不正を蒙って怒り狂い
復讐の血に餓える者がいる。
こうした者は他人の不幸を
見なければ気がすまぬ。



 

我が望みは汝のうちに

世界の良書 心に残る一句
神曲/ダンテ

「煉獄篇」 続き
我が望みは汝のうちに
「おお神に選ばれた君たち、
正義の呵責を受けている
君たちには希望がある、
苦悩も和らぐだろう
次の石段へ私たちを導いてくれないか」

天が私らを腹這いにさせた理由は
…私がピエトロの後継者だったということだ、

泥を塗るまいと気にかけると、
〔法王の〕法衣がいかに
重いものであるか私は一か月余り
身にしみて感じた。

だがそれでもローマ法王に選ばれた時
嘘偽りの人生の正体を私は見破った。
一旦その地位につくと
心に落ち着きが得られず、
現世ではこれ以上は上へ
進めないことが自覚された。
すると私の心中で永生への
愛が燃え上がった。
その時までの私は、
神と縁のない、およそ惨めな、
貪欲の魂のような魂だった。

「幸なるかな義を求め義に渇く者は」

「心の清き者は、幸なり」
「この火に咬(か)まれぬうちは、
先へいくことはならぬ。
聖(きよ)き魂たちよ、この中に入れ。
彼方から響きわたる歌声に耳を傾けよ」

息子よ、
これは苦痛であるかもしれぬ。
しかし死にはせぬ。

さあ心配はよせ、いっさいの危惧の念は捨てろ、
こちらを向き、安心して先へ進め

「いいか、息子よ、
これがベアトリーチェとお前の
壁だの壁なのだぞ」

優しい父は、私を力づけるために
しきりとベアトリーチェのことを話ながら進んだ、
「もう彼女の眼が見えてくるような気がする」

「来たれ、わが父に恵まるる者よ」

若い美しい女が
私の夢裡(むり)に現われて
花を摘み、歌いつつ語りつつ
野辺を行くのが、
目(ま)のあたりに見えるような気がした
「レアでございます」

「世の中の人々が苦労して
方々の枝に探し求めた
あの甘い樹(こ)の果(み)、
それが今日こそ
お前の飢えをいやしてくれるだろう」

「永遠の劫火(ごうか)と一時の劫火を、
息子よ、お前は見た。
そしておまえが着いた
この地はもはや私の力では
分別のつかぬ処だ。
私はここまでおまえを智と才でもって
連れてきたが、これから先は
おまえの喜びを先達とするがよい。
峻厳な、狭愛(きょうあい)な道の外へ
おまえはすでに出たのだ。
正面に輝くかなたの太陽を見ろ、
草花や樹々(きぎ)を見ろ、
ここではすべてが
大地からおのずと生えている。
涙を流しておまえを連れて来るように
私に命ぜられた
美しい喜ばしい目をした方が見えるまでは、
……

マタリダ夫人
「なぜおまえは輝きの
外面にだけ気を取られて、
後に続くものに目を向けないのですか?」

「汝は幸なり、
汝の美はとこしへに幸なり」

「主よ、我が望みは汝のうちにあり」

レテ川に浸る
美しい夫人は両の手をひろげ
私の頭を抱くと、私を水の中に浸した。
私は思わず水を飲んだ。
飲まずにはいられなかった。

第三十三歌

「おお光よ、おお人類の栄えよ、
これは何の水でしょうか?
こちらへ一つの泉から
溢れだして、
たがいに右左へ別れて行きますが?」

私は新緑の木の葉を新しくつけた
若木のような清新な姿となって、
聖(きよ)く尊い波の間から戻って来、
星々をさして昇ろうとしていた。

私の読書歴/蘇生の源泉II

君の心はどこに焦点?


世界の良書 心に残る一句

9神曲/ダンテ「天国篇」
君の心はどこに焦点?
第一天 月光天(第一〜五歌)
万物を動かす者の栄光は
宇宙を貫いて光り輝く。
一(いつ)には強く他には弱く輝きわたる。
その光の満ちあふれた天上に
私はいた。そこで見たものは、そこから
降りた人には再び語る術(すべ)もない。
己の望みに近づくにつれ
人の知力は深く沈み、
記憶はもはやその跡を
辿(たど)れないのだ。

第二天 水星天(第五〜七歌)
千余の光明が私たちの方に向かって
集まってくるのが見えた。
「見よ我らの愛を増すべき人を」

第三天 金星天(第八〜九歌)
カルロ・マルテルロ
ローヌ川がソルグ川と合流した以南の
ローヌ川の左岸が洗う地方もら……将来
私が主君となることを
予定されていた土地だった。

第四天 太陽天(第十〜十四歌)
太陽天の祝福された魂
その二条(ふたすじ)の虹さながらに、
この永遠にしぼむことのない薔薇の花の
二条の花紘(はなづな)が
私たちのまわりをまわった。
その外の輪は内の輪に
相和(あいわ)し相応(あいおう)じた。

第五天 火星天(第十四〜十八歌)
ただならぬ赤みを帯びた星の
火のように燃えたつ笑いが、
私が上へ登ったことを
はっきりと自覚させた。

十字架
ここで私の記憶は私の詩才の手に余った。
その十文字の光が
キリストの姿を描いたのだが、
それを表現するだけの
言葉が見当たらなかったのだ。

カッチャグイダ
「貴君(あなた)は私の父上です。
貴君が私に話す勇気を与えてくれました。
貴君が私を、ありのままの私以上に、
高めてくれました」

第六天 木星天(第十八〜二十歌)
光芒(こうぼう)に包まれた
聖(きよ)らかな魂の群は、
あちらこちらへ飛びつつ、
歌いつ………

ああ天上の勇士たちよ、
私は君たちを見つめている。
お願いだ、悪例にならって
道を踏みはずした
地上の人々みなのために
祈ってくれ。


幸にあふれ喜びにみちた魂の群が、
翼をひろげ、美しい姿を相(あい)結んで、
私の目の前へ現われてきた。


生きとし生ける光明の群が、
みな一きわ明るく
光芒(こうぼう)を放ちつつ、
合唱をはじめたからだが、
それは記憶にもとどめがたい
妙なる声音(こわね)であった。

第七天 土星天(第二十一〜二十二歌)
ベアトリーチェ
はや私の眼は夫人の顔に
ふたたび向けられ
眼も心もその表情に注がれていた……
すると夫人が

「あらゆる邪悪がその
治世の下では死に絶えた」

光まばゆい黄金色の梯(はしご)が
私の眼の及ばぬはるか上手(かみて)へ
のびているのが目に映った。

「おまえの熱い願いを
解いてしまいなさい」

ああこの腐敗堕落をこらえ給う
〔神の〕忍耐よ!

◎ヤコブの梯(はしご) (第二十二歌)
およそ教会が保有する
財宝はみなすべて
神の御旨(みむね)により
物を乞う〔貧しい〕人々の物で、
聖職者の親戚とかその他の
猥雑な連中の物ではない。

ピエトロは金も銀もなしに
〔伝道を〕始め、
私は説教と断食により、
フランチェスコは身を低くし
平民と交わることにより、
業を始めた。

第八天 恒星天(第二十二〜二十七歌)
まず聞くが、
君の心はどこに焦点を
あわせているのか。
君の眼は乱れはしたが
つぶれたのではない。
だから安心するがよい。

「父に、子に、聖霊に、栄光あれ」
と天国があまねく和して
歌いはじめたが、
うるわしい歌声に私は
酔いしれたような心地だった。
私の目に映じた眺めは
さながら全宇宙の
ほほえみのように思われ、
聞くにつけ見るにつけ
酔い心地をおぼえるのだった。
ああ歓喜よ、
ああ筆舌につきしがたい喜悦よ、
愛と平和より完(まった)き生よ!
ああ、もはやこれ以上は望み得ぬ、
ゆるぎないこの財(たから)よ!

第九天 原動天(第二十七〜三十歌)
煮えたぎる鉄が火花を飛ばすように、
火輪が次々に火花を飛ばした。

第十天 至高天(第三十〜三十三歌)
こうして聖(きよ)らかな軍隊が
真白(ましろ)の薔薇の形をして
私の前に現われてきた。

天の女王
「一番遠くの段までこの段を
次々に見上げるがよい。
そうすれば玉座におわします
女王さまが見えるだろう。
この国のその下に服し、
その下に仕えているのだ」

私の空想の力も
この高みには達しかねた。
だが愛ははや私の願いや
私の意(こころ)を、
均しく回る車のように、
動かしていた。
太陽やもろもろの星を
動かす愛であった。


苦難との戦い

堕落は傲慢から始まる

一、わが愛する、イタリアの大詩人ダンテ。 皆様も、よくご存じであろう。 イタリア・ルネサンス文学の先駆とも言われ、作品には、詩 文集の『新生』、哲学書の『饗宴(きょうえん)』自らの政治 理念を記した『帝政論』などがある。 そして、最晩年まで書き続けて、完成させたのが、世界文学 最高峰の傑作『神曲』であった。 先日、学生部の友が『神曲』を届けてくれた。ちょうど、私 が読み返したいと思う本をもってきてくれた(笑い)。 『神曲』は「師弟の旅」として始まる。 師匠は、ローマの大詩人ウェルギリウス。 弟子は、青年詩人ダンテ――。 大詩人の師匠が、苦悩する若き弟子を厳しく、温かく励ま し、人生の正しい道へと導く。 「怖れるな、わたしが君を導くかぎり」と語りかけている (寿岳文章訳『神曲?煉獄篇』集英社)。 人生の究極を見つめた大哲人ダンテ。『神曲』に謳われるよ うに、すべてを貫くのは師弟である。親子よりも深い、永遠性 をもっている。 さらに『神曲』では、邪悪を厳しく裁き、断罪してい
る。 “堕落の原因は傲慢である”と。 〈「堕落の原因はすでにおん身が見たごとく、宇宙の一切の 重みによって圧せられている者の呪うべき傲慢であったのであ る」(野上素一訳、筑摩書房)〉

苦難との戦い

一、じつは、ダンテの生涯は、最愛の人と死に別れ、愛する 故郷を不当に追放されるという、苦難の連続であった。 正義の人は皆、苦難と戦っている。何もかも順調などという ことは、ありえないものだ。 ともあれ、ダンテを語らずして、詩を語ることはできない。 ダンテは難解だと言われる。たしかに、そうかもしれない。 しかし、仏法の眼(まなこ)から見るとき、一重(いちじゅ う)、深く理解することができると私は思う。 私は1981年(昭和56年)の6月、青年たちと、フィレンツェ にある「ダンテの家」を訪れ、さまざま語り合った。懐かしい 思い出である。 光栄なことに、ダンテが生まれたフィレンツェ市から、最高 栄誉の「平和の印章」と、世界の代位急の文化人に贈られる 「フィオリーノ金貨」をお受けした。 ダンテが学んだ世界最古の総合大学・ボローニャ大学からは 名誉博士号を受章し、記念講演を行った。 〈名誉会長は、同大学のほか、フランス学士院や米・ハー バード大学など、世界18カ国・地域の大学・学
術機関から招か れ、これまで32回の記念講演を行っている〉 将来のために、世界に「平和の種」をまいていきたつもりで ある。

まず自分がやる

一、ここで、大詩人の言葉に耳を傾けたい。 ダンテは言う。 「世界は、そのうちに正義が最も有力であるときに、最も善 く傾向づけられてある」(中山昌樹訳「帝政論・書翰集」、 『ダンテ全集第8巻』所収、日本図書センター) だからこそ、正義は力がなければならない。正義が勝たなけ れば、大変なことになる。 ダンテは、こうも述べる。 「他のものらを最も善く傾向づけようとするものは、かれ自 らを最も善く傾向づけねばならぬ」(同) 皆をリードしようとするならば、まず自分がやる。手本を見 せるのだ。それが仏法者の生き方である。 そして『神曲』には、こうある。 「上に立つ人の行ないの悪さこそが/世界が陰険邪悪となっ たことの原因なのだ」(平川祐弘訳、河出書房新社) その通りである。 私は、牧口先生、戸田先生の清浄なる精神を厳護し、受け継 いだ。 その精神を守り、同志を守り抜く――これこそリーダーの責務 である。

9罪と罰(3)/ドストエフスキー
10カラマーゾフの兄弟(3)/ドストエフスキー
罪と罰





H23年〈19冊〉
1悪霊(2)/ドストエフスキー
2貧しき人びと/ドストエフスキー
3虐げられた人びと/ドストエフスキー
4方法序説/デカルト
5アンナ・カレーニナ(3)/トルストイ
6戦争と平和(4)/トルストイ
7復活(2)/トルストイ
トルストイ









8神様の女房/高橋誠之助
9人生問答(3)/松下幸之助・池田大作
10木に学べ/西岡常一(薬師寺宮大工棟梁)
H24年〈20冊〉
1老人と海/ヘミングウェイ
2草の葉(3)/ホイットマン
3大地(4)/パール・バック
パール・バック








4地下鉄に乗って/浅田次郎
5鉄道員/浅田次郎
鉄道員





6蒼穹の昴(4)/浅田次郎
西太后









7地の底の山/西村健
8古事記/梅原猛
9日本書記(2)/宇治谷孟
10阿Q正伝/魯迅
阿Q正伝






11孔子/井上靖
「孔子」井上靖






[現在累計69冊]
★2030年(あと18年)までに「世界の良書」1000冊が目標です。
週1冊にペースを速めなくては!

 

私の読書メモH25年I


H25年〈50冊〉予定
1生の短さについて/セネガ
2心の平静について/セネガ
3幸福な生について/セネガ

生の短さについて





4霞町物語/浅田次郎 
「霞町物語」読了
◎霞町物語:まったく唐突に、祖父の訓(おし)えをひとつ思い出した。その口ぶりを借りれば、「男てえのは別れのセリフだけァ、惚れたとたんから決めてなきゃならねえ」のだそうだ。

◎夕暮れ隧道:まるで古い映画のスチールのように、僕らはいつまでもそうしている。

◎青い火花:「ああっち!ねええっ!さん!」…二台のストロボと同時に、都電のパンタグラフから稲妻のような青い火花が爆(は)ぜた。…「行ってらっしゃい、おじいちゃん……」ライカの焦点は∞無限大の印に合わされていた。

◎グッバイ・Dr.ハリー:はたして傘を放り捨てて接吻をしたかどうか……その先は知らない。

◎雛の花:僕の祖母は美しい人だった。…「大成駒(おおなりこま)!」…おばあちゃんにはかがやかしい雛の花が似合うと、僕は思った。

◎遺影:「でも……でもさ……おかあさん、すごく変だったし。縁側で、ずっと泣いてたんだよ。…」…祖父は仏壇の中の祖母の遺影に、二枚の写真を並べて置いた。…細い首筋やなで肩の背は、おじいちゃんにそっくりだと思った。

◎すいばれ:「魚屋の跡取りがよ、早稲田や慶應へ行ってどうすんだよ、ばかくせえ」…「きれいだね。ひとり?」…欲望のおもむくままに…何でも手に入る僕らは、いわば高度成長期の申し子だった。…「今から親父に約束させっからよオ。慶應にうかったらポルシェを買えって」…「今日は水晴れですよ!」

◎卒業写真:「一(あっち)、二(ねえ)、三(さん)」。…動いているということは千分の一秒ずつ止まっていることの連続なんだろう。だから人間は、一瞬をないがしろにしちゃいけない。千分の一秒の自分を繰り返しながら生きて行くんだ。…六本木と渋谷を結ぶ都電の乗り換えだった霞町の交叉点は、首都高速の下で西麻布と名を変えてしまった。

5やさしい移転価格/(財)海外職業訓練協会

6中国の日系企業が直面した問題と対処事例/(財)海外職業訓練協会


7「三人の悪党」キンピカ1/浅田次郎
きんぴか〈1〉浅田次郎の「三人の悪党」きんびか1をやっと読了。
元ヤクザのピスケン、元自衛官の軍曹、元政治家秘書のヒデさんの三人が、元刑事の向井権右衛門の仲介によって手を組み、三人らを裏切り、欺いた者たちを見返してゆく悪漢小説。
「おじさん、けっこうアタマいいけど、わかってないよ。ゼンゼン」
少女は広橋の手をすり抜けると、大きな紙袋を胸に抱いて、高らかに笑った。
「お礼なら、もうたんまりともらったわい。では、さらばじゃ。GOOD・UNLUCK・GHOST!」
悪漢の中に、人情味とユーモアと笑いと人間の本質が散りばめられ、圧巻でした。


8「血まみれのマリア」きんぴか2/浅田次郎
血まみれのマリア
軍曹は肉体で、広橋は頭脳で、余剰カロリーを消費する。ピスケンは体も頭もたいして使わないが、生まれつき食ったものが丸ごとクソになる体質であった。━━「便利」とは、元来こうした体質を言う。
「制約された幸せなど、幸せのうちには入らん。お前の幸せはシンデレラの幸せだ。いいか、誰が何と言おうと、人間は不幸の分だけ幸福になる権利がある。」(軍曹)
カイゼル髭の鬼「良心とは不自由なものだ」
「マティーニ。ドライで」
「ギムレットには早すぎる、かな」
ヤクザ・自衛官・エリートの「父子物語」。
『消えた三千万円』は、「饒舌なる大嘘に込めた、かけらのような真実」、捨て駒たちへの「諧謔嗜虐(かいぎゃくしぎゃく)の哀歌(エレジー)」
たわむれ、ユーモア、残忍…
何もかも嫌になった方にはこの1冊を!
【浅田次郎「血まみれのマリア」きんぴか2】


9「真夜中の喝采」きんぴか3/浅田次郎
真夜中の喝采

浅田次郎のきんぴか3「真夜中の喝采」を読了。

「仕事以外に何の道楽もないやつだったんだが……そういうケースがけっこう多いんですよ、近頃。…家庭をかえりみずに仕事に没頭する男は、それだけで離婚の理由になるんです。……馬車ウマみてえに働いて、あげくに女房子供にあいそつかされたんじゃ、たまらないねえ」

「いいかおめえら。こうして下せえっておがんでいるうちは、どうにも変わりゃしねえ。こうすっから見てて下せえと神仏に誓って、初めて変わるてえもんだ。人生、そんなもんだぜ」

「世の中に不必要な人間など1人もいはせん。それを不必要だと言うのは、己れのわがままだ」

この作品の舞台はバブルの最盛期から崩壊前夜までだ。それならこの底無しの平成不況下における、ピスケン、軍曹、ヒデさんの活躍をぜひ見てみたい。優秀な同窓生や天才ガキの力など借りず、孤高のエリートとして、たった一人で世界を変えてみろよ、とこの場を借りて挑発しておこう。


10実務化のための組織再編税務マニュアル
/公認会計士・税理士 並木安生(レガシィ)


11中原の虹<1>/浅田次郎
中原の虹1
浅田次郎「中原の虹1」を読了。

「汝、満洲の王者たれ」
予言を受けた親も家もなき青年、張作霖と李春雷(リィチュンレイ)を主人公として、満州事変・日中戦争に繋がる清王朝落日前夜の物語。

心に残るフレーズ

緒章
媼(おうな)を負うていくらかも行かぬうちに、鈍空(にびぞら)を轟かせて北風が吹き始めた。

第一章「白虎の張」
孔子様はどういうおつもりか知らねえが、親の都合ばかり言いやがる。ところがどっこい、子分が忠義な分だけ親分は弱くなるもんだ。おかげで偉いやつほど偉くねえのがいまの世の中さ

第二章「風のごとく」
…たしかに神仏は信じられねえ。だが、人間は信じられると、俺はあのとき初めて思い知ったんだ。
…吉永にも礼を言わずばならねえ。大嫌いな日本人に、俺が頭を下げるのはこの一度きりさ。
…凍えた胡同には。すべてを喪った若い馬賊の泣き声が、弦(つる)を弾くように細く長く聞こえていた。
(第2巻に続く)


12中原の虹<2>/浅田次郎 <現在読書中>
中原の虹2
浅田次郎「中原の虹2」を読了

〈心に残るフレーズ〉

第三章「天命と野望と」
わずか三十万の女真(ジュルチン)族が、漢土の億民を統(す)ぶる日は近い

☆文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
梵名マンジュシュリー (, )は、大乗仏教の崇拝の 対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる。

「三人寄れば文殊の智恵」

建州女真族の本尊とされ、その名にちなみ満洲(満州)と自称。ホンタイジ以降、全ての女真族の呼称に代え満洲族と呼称するようになった。したがって満州の名は文殊が語源であるとされる。


袁は涙声で言うのだ。
「俺には、真心がない。王者の心がない」

「村人に罪はなかろう。なぜ殺す」
「穢れている…悪者を許したやつらは、みな悪者だ」

「やっぱり、お医者のほうがよくはないか」
「みちみちずっと考えていたんだけどね…悪いやつは、世の中の病だと思うんだ。だからそいつらをやっつける軍人になるのも、病気をやっつけるお医者になるのも、同じなんだと思ったの」
「好。少爺は頭がいい」
張作霖という破天荒な人物のことは、よくわからない。だが、もし張学良というこの玉のような長男がたくましく成長すれば、四百余州に永遠の平和をもたらすのではなかろうかと吉永は夢見た。

事件の首謀者たちは、失敗のつど日本に逃げ込む。そして革命政権を待望する日本人の右翼や財界から、あるいは世界各地で活躍する華僑たちから資金の提供を受け、また新たな蜂起を企む。…その中国同盟会の指導者が、孫逸仙なる人物である。

揚子江の沿岸、胡北省の武昌、漢口、漢陽…古来この三年を武漢三鎮と称するのは、中原の覇を競うにあたっての、最大の要衝だからである。

「父は子を甘やかす。子は父に甘える。親から教わったことが、血肉になるものか。だめなやつらは、親がいなかったからだとか、親がろくでなしだったからだとか言うが、それはこじつけだ。親のいねえやつほど物はきちんと覚える。ちがうか」

第四章 龍の逝く日

「馬鹿でも利口でもない。鬼でも仏でもない。やつは、張作霖だ」

資本主義は植民地経営によって成り立つと信じられており、大清帝国は地球上に残された、唯一最大の「標的」だからである。
政変から二年後に起こった義和団戦争は、その列強資本主義世界と、中華独立世界との最後の戦いであった。

銀河迢迢(ちょうちょう)として 夜気 澄む
都(すべ)て忘る 朝暮(ちょうぼ) 蚊蝉(ぶんよう)に苦しむを

河漢 声無く 天 正(まさ)しく青
三三五五 満天の星

私の目的はただひとつ。五千年も続いたこの国を、けっして世界の中心ではないこの大地を、彼らの手に渡さない。それだけが私の目的だった。
…中華という呼び名は、世界の中心という意味じゃないのよ。この地球のまんなかに咲く、大きな華。それが中華の国。人殺しの機械を作る文明など信じずに、たゆみなく、ゆっくりと、詩文を作り花を賞(め)で、お茶を淹れおいしい料理をこしらえ、歌い、舞い踊ることが文化だと信じて疑わぬ、中華の国よ。
…この国とこの国の民は、誰にも渡さない。
…私は神には勝てなかったけれど、たぶん、負けもしなかった。
そう、負けなかったわ。

〈ベストウェスタン新宿にて〉

(第3巻につづく)

13中原の虹<3>/浅田次郎
中原の虹3
浅田次郎「中原の虹3」を読了。

心に残るフレーズ

第5章 風雪きわみなく

だが北洋陸軍は近代的軍隊であるばかりか、李鴻章が遺し袁世凱が肥やしたさまざまの産業や利権を握っていた。いわば清国という形骸の中のひとつの国家、あるいは自給自足のできる軍閥である。

…しかし軍隊も産業も、皇族や官僚たちの指揮には従わなかった。彼らが服(まつろ)うものは、皇帝でも大清帝国でもない、北洋軍閥の指揮官だった。

…袁世凱がそれほどの傑物であるとは春児にも思えない。ではなぜ袁でなければならぬのかというと、彼が李鴻章将軍の正当の後継者だからなのだ。つまり、袁世凱を依代(よりしろ)とした李鴻章の亡霊が、北洋軍閥を支配している。

噂──これが厄介である。鉄道も電信もなかった昔には、かえって根も葉もない噂が遍満することはなかった。世の中が便利になった分だけ、時間が嘘と真実を淘汰できなくなったのだ。夥しい情報が虚実も定まらぬまま都に流れこんでくる。役人たちはそれらの情報の中から、自分に都合のよいものだけを選んで吹聴する。いきおい噂は無数の保身術に支えられて、いよいよ虚実の判別がつかなくなるのである。

その男は秋の糠雨(ぬかあめ)が降りしきる路地で、行き昏(く)れた乞食のように蹲(うずくま)っていた。
…野砲兵第十九連体 蒋 中正(介石)

われわれ日本人が、支那人と呼んで馬鹿にするこの国民を、けっして舐めてはいけない。彼らはわれわれが考えるほど弱くない。一旗揚げたいのなら、まず彼らに敬意を払うことだ、そうすれば君は、きっとこの国に受け入れられる。

ともかく何とか宥めすかして時間を稼ぎ、袁世凱でも孫中山でもいいから早く虎の檻をこしらえてほしい、というのが人間たちの本音である。

第6章 落城

徐(シュ)はこともなげに言った。
「…義兄弟の盟約を全うせんとすれば、中正に生きるほかはありますまい。彼らがなすことを支え、また彼らがなせぬことをなします。…」

金小玉…「俺の倅は洋人(ヤンレン)に殺された。あいつの親も洋人に殺された。だのにどうして俺たち清国人が殺し合うんだ。おかしいじゃねえか。変じゃねえか。そうは思わねえかよ、兵隊さん」

義和団事件はつまるところ、排外運動の暴発だった。政府の無策に業を煮やした国民が立ち上がったのである。そうしたことの発端の曖昧さと、命を懸けて決起した市民たちに対する人々の情感には、そもそもロマンチックな伝説を形成する土壌があった。

…役人たちはみな、対面と目先のことしか考えられぬ愚か者ばかりになってしまった。

眼光は鋭くて輝いて情熱に溢れ、物言いには知性が感じられる。それらはすべて、不安と保身のために役人たちが失ってしまったものである。

「祝健康弟兄、壮揚兵馬!」

(第4巻につづく)
ベストウェスティン新宿にて

14中原の虹<4>/浅田次郎
中原の虹3浅田次郎「中原の虹4」全4巻読了

心に残ったフレーズ

第七章 満州の風に聴け

秋空の槌音が谺(こだま)する。李自成(リイヅチョン)の焼き払った帝都を再建する音と声が、晴れ上がった空に満ちていた。

神経衰弱は留学生たちの宿痾だった。日本と清国の、似ているようで大ちがいの風土と生活習慣が、彼らの精神を脅かすのである。不自由な言葉や、湿気や畳の上の生活や、さらには納豆から褌(ふんどし)まで、実は顔かたちの似ている彼らが受け入れられるものは何もなかった。そのうえ、日清戦役以来の謂れなき差別と、祖国を担って学問を修めなければならぬという使命感とが相俟って、留学生たちは多かれ少なかれ精神を蝕まれた。

日本は中国の文化を母として育った。だから恩返しをしなければならない。清国が病み衰え、人々があえいでいる今がそのときだ。けっして列強に伍して植民地主義に走ってはならない。それは子が親を打つほどの不孝であるから。

袁世凱は賄賂というものの本質を知りつくしていた。簡単に言うなら、収賄者が何人いようと、「あなただけを男と見込んで」と頼みこむのが賄賂である。そして同時に、「けっして口外なされますな」と脅すことも忘れてはならない。

日露戦争の結果、日本は遼東半島の一部の租借権と、長春以南の鉄道経営権を獲得した。かつてロシアが清国領内に保持していた権益を、そっくり引き継いだのである。わすか七年の間に、その鉄道権益が広大な日本人街へと大化けした。

この先、日本が中国に何を求めているのか、吉永には想像もつかなかった。…とりかえしのつかぬ不孝というほかはない。…その未来は同時に、すぐれた文化を授かった日本の、母なる中国の不孝でもあった。個と国との二重の不孝に、もしや自分が軍人として加担するのではないかという怖れが、吉永を縛(いまし)め続けていた。

喝采の中で聞いた「東北王」は、人々の切なる希いにちがいなかった。

第八章 越過長城

「いったい何ゆえ歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。父の時代、祖父の時代、父祖の時代を正確に知らねば、おのがかくある幸福や不幸の、その原因も経過もわからぬであろう。幸福をおのが天恵とのみ信ずるは罪である。罪にはやがて罰が下る。おのが不幸を嘆くばかりもまた罪である。さように愚かなる者は、不幸を覆すことができぬ。わかるかね、…。しからば私は、この老骨に鞭(むちう)ってでも、能う限りの正しい歴史を後世の学者たちに遺さねばなるまい。人々がかくある幸福に心から謝することが叶うように。人々がかくある不幸を覆し、幸福を得ることが叶うように」

「我、叫、貧、窮、人!」

百年のさすらいに、もはや憂いはない。

中原の虹全4巻読了

2013年5月15日PM15:00 上海空港着

15珍妃の井戸/浅田次郎

珍妃の井戸珍妃の井戸/浅田次郎 読了

ミセス・チャン
モーツァルトはお好きですか?このように美しい音楽を作る西洋人が、あんな鬼畜にも劣る所業をくり返したのはなぜでしょうか。

私はもう、神を信じない。この子らがいったい何をした

清王朝の原型は、狩猟遊牧民である満州女真(ジュルチン)族の、「旗」の集合体だった

誰が珍妃(チェンフェイ)を殺したか

1. トーマス・バートン
/ニューヨークタイムズ特派員
…蘭琴

2.蘭琴(ランチン)
/元養心殿出仕御前太監
…袁世凱

3.袁世凱(ユアンシーカイ)
/直隷総督
…瑾妃

4.瑾妃(チンフェイ)
/珍妃の実姉
…劉蓮焦

5.劉蓮焦(リウリエンチャオ)
/瑾妃に支えた太監
…プージュ

6.プージュ
/廃太子愛親覚羅(アイシンギョロ)
光緒帝

7.光緒帝
/天子
…「豚を殺して、どこが悪い!」

四カ国(英国・ロシア・ドイツ・日本)の言葉で口々にそう叫びつつ、おまえらは、ぐったりと力の脱けた珍妃(チンフェイ)の、両手と、両足とを握り、井戸の、奥深くへと、沈めた。
さかさまに身を吊られて、今しあの美しい顔が古井戸の暗みへと消え入るとき、珍妃は最期の声をふりしぼって言うた。
「ツァイテン、私の愛しい人」と。

洋人(ヤンレン)たちはこの国にひどいことをしました。茶葉や器や絹のかわりに阿片を持ちこみ、それを拒めば、鋼鉄の船を並べて、大砲を撃ちこみました。大勢の人々を、犯し、拐(かどわ)かし、傷つけ、殺しました。
自らの利のために人を殺す。ひどいことですね。
でも、彼らは貧しいのだから仕方がない。かの国には茶葉がないから、それを欲した。…そして、見返りに渡すものがないから、インド産の阿片を置いていった。
…貧しさのために、人間どうし思いやることができなかった。だから彼らは、耶蘇を信じ、耶蘇の言葉を借りて、平和な暮らしを保とうとした。
人間としてそうせねばならぬとわかってはいても、日々の暮らしのために裏切り続けねばならない彼らの良心。だから彼らは、すべての悪行について、その良心の呵責から免れるために。愛、愛、愛、と呟(つぶや)き続けねばならなかった。
この国には、もともとそんな言葉はありません。孔子さまも、改まって愛などとは仰せられなかった。
なぜなら、当たり前すぎるから。
私たちは生まれついたときから、人間は愛し合うものだと知っています。当たり前すぎて、考えたこともないぐらいに。
…あなたは世界の天と地とを支える、天子だからね。…耶蘇も聖書もいらない、この国の天子だからね。
自分の富のために、他人のものを奪おうとする人間などひとりもいない、仁の訓えに満ちた、世界一で 一番豊かなこの国の、あなたは天子だからね。

再見。
私の愛しい人。
そして、私の愛しい人たち……………

2013年5月24日 新大牟田駅到着

16かわいい自分には旅をさせろ/浅田次郎
かわいい自分には旅を
浅田次郎/文藝春秋

◎祇園の夜桜
「祇園さんばかりィが桜やおへんえ」
「今宵あう人みな美しき」
祇園の枝垂桜は、姑息な物語の創造に倦(う)んじ果てた私の目の前に、今年も満開の花をつける。
寄り集う人々はみな、年齢性別門地学歴趣味教養、いわんや収入の多寡にかかわらず、等しく感動し、溜息と喝采とを支払う。

◎見果てぬ雪
音も光もない天の暗みから、命あるもののように舞い落ちる雪。

◎遥かな港
私のような生粋の東京人にとって、多摩川をひとつ隔てただけの神奈川県は、なぜか遠い場所である。

◎古仏巡礼
どうした。立て。歩め。己の力で進め──。

◎帰れずとも帰るべき町
苦難のない人生はない。その人生の中で、よし帰れずとも帰るべきところがふるさとである。
「ふるさとの山はありがたきかな」
ふるさとはありがたい。帰れずとも帰るべきところがあるだけで、人は苦難に耐えることができる。

◎かわいい自分には旅をさせよ
…今やその気になりさえすれば、日本中どこであろうとあらかた日帰りができるのだが、その手軽さ気軽さのおかげで私たちは、まるで漫然と映像でも眺めるような旅をするようになった。
非日常の世界を訪れ、感動する。本物に触れ、五感をふるわせる。

…より深い日本を求めて旅に出たい。いにしえの旅人と刻を同じうし、溜息を分かち合えるような、深い美しい日本にめぐりあいたい。

…「かわいい子には旅をさせよ」という格言は、今や死語であろう。…もしかしたら今の若者たちは、この言葉の意味を「かわいい子には娯楽を与えよ」と曲解しているかもしれぬ。

…たしかに旅は苦労ではなくなった。ただし、経験としての価値が損なわれたわけではない。人間は経験によってたゆまぬ成長をとげるものであるから、苦労を伴わずに経験を得ることのできる今日の旅は、子供よりもむしろ大人にとっての好ましいかたちになったと言える。
この福音に甘んじぬ手はあるまい。「かわいい自分には旅をさせよ」である。

…感動に出会ったとき、日ごろの金や時間や手間を惜しんで旅せぬ自分を愚かしく思う。

…年齢とともに、時間の経過は加速する。若いころには長かった一年も、信じ難い早さで過ぎてしまう。

…日本ほど豊かな国はないと、このごろしみじみと思うようになった。

周囲をくまなく海がめぐっている。背骨は深い山である。平野は少ないが、そのぶんどの土地に?密な固有の文化が生きている。しかもその列島を、まるで四枚の艶やかな衣を次々とおしげもなく脱ぎ着するように、美しい季節が装う。つまりどの土地の風景も文化も、贅沢なことに四つの相を持っているのである。

─日本に母国や祖国という言葉がなぜそぐわぬのは、父母とも祖先とも呼べぬ、あえて言うなら絶世の美女だからであろう。

◎賓日館の奇跡
…そしてたぶん、実は二ヶ月で完成させたなどとは誰も口にはしなかったのではあるまいか。

◎伊勢河崎の神
…滅びゆく日本的景観に抗って存在し続けることの意義は大きい。

◎お伊勢様のアイデンティティー
「日本人としての存在証明または同一性。…」
このアイデンティティーに則って、宗教性とはもっぱら関係なく、あながち観光目的でもなく、多くの日本人か整斉と列をなして大御神に参拝する。

◎シチリアンに学ぶ
人間本来の魅力は体力よりも体型よりも、年齢とともに備わる色気と知性であるということを、日本人は誰も気付いてはいない。この点については女性もまた然りである。

◎パリからのラブ・レター
一方のわが国は、やはり中世に花開いた芸術の数々を庶民に分かち与えようとはせず、権威の象徴とした。

◎壊れた時計
少なくとも人生の順逆は、自分自身で決めなければ。

◎いつかデッキで
どうやら昭和三十年前後の移民ブームは、幻想を多分に含んだ一種の社会現象であったらしい。

◎『蒼穹の昴』を旅する
…「砂漠の中のオアシスがいつの間にか町になり、都市になった。…」
北京に都が置かれた歴史はあんがい浅く、初めて副都を置いた王権は、十世紀に台頭した遼であろう。続いて十二世紀の金を経て、十三世紀に元のクビライがここを大都と定める。遼は契丹族、金は女真族、元は蒙古族の国であって、いずれも漢民族か見れば異民族の征服王朝であった。

…『蒼穹の昴』において私は、神の定めた運命に抗わんとする人間の姿を描いた。人間は神すなわち天然の所産のひとつにはちがいないけれども、鳥獣草木と異なるところは、その天然の仕打ちに抗う権利と実力とを有する点にあると信ずるからである。
人類の歴史はそうした先人たちの努力の集積であり、その結果としての世界であると思えばこそ、人類の歴史は輝かしい。

…日本が中国を侵略したのはたしかだが、正しくはこの(租界の)争奪戦の勝利者として「侵略権」を握ったのである。だから中国が日本を侵略者と呼ぶのは当然だが、かのリットン調査団が日本の行為を侵略と称したのはおかしい。

◎イッツ・マイ・ビジネス──オヤジのためのラスベガス
幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し
丈夫は玉砕するも甎全(せんぜん)を恥ず
一家の遺事 人知るや否や
児孫の為に美田を買わず

…たしかに周囲を見渡してみれば、親から引き継いだ財産を生かした者などそうはおらず、たいていはそれが仇となって不幸な人生を送るか、あるいはひたすら食い潰して世の笑い者となる場合のほうがずっと多い。

…読書はバクチにまさる唯一の道楽であるから、こればかりはどうにも捨てきれない。

◎旅のゆくえ
格差社会とはいうものの、日本は他の外国に較べれば、やはり富の公平な分与はなされていると思う。それに加えて、「円」は恒常的に強い。さらには食生活が豊かで、医療の行き届いた長寿健康国家である。

◎ドタキャン
「日本人の安全保護のため自粛されたし」
どうも中国はドタキャンが多い。

第三章 かっぱぎ権左/文藝春秋

◎幸福な旅
…おのれの内なるものは、実は何ひとつ変わっていないのである。だから私はそこに郷愁は覚えずに、ひたすら居ごこちのよさを感じた。どうやらたかだか百四十年ばかりでは、この体が文明開化にはなじみきらぬらしい。

◎かっぱぎ権左
…「かっぱぎなどと呼ぶな。追剥と言え。人聞きが悪い」

…のう、父上。どうやらこの世には、侍なるものはのうなってしもうたようでござりまするぞ。

…「あのねえ、永井様。…あたしだって江戸っ子のはしくれです。よしんばかっぱぎにせえ、もとは天下の御家人様をだね、薩長のやつらに引き渡すのァいくら何だって後生が悪すぎまさあ」

…「せめてわが手にかける前に、物のわからぬ婆様にも、ご苦労ばかりの母親にも、弟や妹らにも、白い飯を食わしてやりたい一心で、乞食をいたし申しました」

…「拙者は、世の中の銭を身ぐるみかっぱぐつもりで商人になり申した。おぬしも、拙者とともに天下のかっぱぎにならぬか」
「お供つかまつる」

乾隆帝
第四章 下戸の福音

◎天与の環境
…東京オリンピックをめざして国がめくるめく成長をとげた結果、文化の慈雨が中学生の頭上にも降り落ちてきた。そんな時代であった。

◎司馬遼はるかなり
…清王朝の歴史は憎悪すべき帝国主義と、北方から侵略してきた征服王朝であるという二重の怨嗟によって、故意に葬られたのであった。

…「満州族であるということを積極的に名乗りましょう」という宣伝活動を行わねばならなかったほど、かつての侵略者──韃靼人に対する怨嗟は深刻であったという。正確な歴史どころか、現代に生きる末裔がその出自を隠さねばならないほど、清という国は闇に葬られ、また歪曲されて伝えられている。

◎李鴻章──わが20世紀人
すべての歴史は結果である。しかし良い結果をもたらした者ばかりが偉人であるとは限らない。九十九年の香港返還で私が感じたものは、歴史をお祭り騒ぎで糊塗しようとする侵略者の愚かしさと、たったひとりで戦い矜り高く敗れた儒者の偉大さであった。

◎小説家と『字通』
…一本は鴎外の用いた漢文脈の硬質な鍬であり、一本は漱石が使用した和文脈のなよなかな鍬であり、もう一本はやや遅れて登場した翻訳文体、すなわち洋文脈の鍬である。

…清王朝は元来文字というものを持たぬ北方民族で、山海関を越え北京に入城を果たしたのは康?帝の父、第三代皇帝順人治帝である。

…満州語の意では「アイシン」(愛新)は「金」、「ギョロ」(覚羅)は「一族」にあたる。

…文字を持たなかった満州族が、漢字というすぐれた文字を学び、吸収し、なおかつ大成した事実に思いをいたせば、われら日本人の祖先がはるかな昔に果たした努力は、いかばかりのものであったろう。

…「日は短く星は昴、以て仲冬を正す」

◎小説家の経済学
始めていただいた原稿料は一枚あたり千円であった。月刊誌に十五枚のエッセイを書いていたので、この間の月収は税込み一万五千円、年収にして十八万円である。…その後の五年間はだいたい大差がなかった。

…どうか年収百万円の家庭に、毎月三百万円も四百万円もの大金が転がりこんでくるものを想像していただきたい。ちっともめでたくはない。ほとんど餓死寸前の人間にしこたま食わせるようなもので、家庭は崩壊する。

…なにしろ必要経費として計上できるのは文房具と原稿用紙ぐらいのもので、取材費も資料代も出版社が持ってくれる。節税をしようにも何ら手だてがないから、税務署にとってはこれにまさる上客はいないであろう。

◎昭和五十九年の誓い
大晦日の晩に、あくる年の目標項目を書き留めるという、まことにけなげな習慣を私は持っている。

一、新人賞をとる
一、『金鵄(きんし)のもとに』を脱稿する
一、毎月三十万円ずつ家計に入れる
一、歯を入れる

…自分は小説家になるのだと信じ切っていた。だから未来は夢ではなく、現在の貧乏こそが夢のようなものだと思い込んでいた。

…私は強欲なので、なまじ小説家になったからといって目標に不自由はない。

…いつか欲望のない男になり下がってしまったとき、この一枚の便箋は私に力を与えてくれると思う。

◎乾隆帝と郎世寧
中国は当時、完全なる自給自足ができる世界で唯一の国であった。しかも広大な国土の四囲は海と山と砂漠と凍土に鎧(おお)われ、ひとたび版図を確定してしまえば内乱の起こらぬかぎり、恒久の平和が保障されていた。

イエズス会の歴史は殉教の歴史そのものである。

◎おませな子
毒にも薬にもならぬこうした(「ひまつぶし」と「現実逃避」)読書の方法は、今の若者たちがゲームに興じたり、携帯電話をお守りのように手放さないこととどこも変わらない。魂がさしたる理由もなく吸引される、一種の信仰であろう。少なくともあらぬ神仏を信仰して偏屈な倫理に促われ、人生の前途を狭めるよりはましである。

◎劉邦の挑戦
…要するに私は、幼いころから「小説家になりたい」と思ってたいたのではなく、「小説家になる」と思い込んでいたのである。だから新人賞に応募して落選を続けていたときも、「くやしい」と思ったことはただの一度もなく、「おかしい」と考えていた。既定の運命であるはずなのに、それが実現されないことがふしぎでならなかった。

「項王曰く、願はくは漢王と挑戦して雌雄を決せんと。漢王笑って謝して曰く、吾は寧ろ智を闘はさん。力を闘はすこと能わずと」
…項羽は、命の一瞬の投機を望んで挑戦をするのだが、劉邦はその願いを一笑に付す。…天下を定める戦は力を闘わすことではなく、智を闘わすものだと言うのである。この認識が、漢をして中原の覇者たらしめたのであろう。劉邦の挑戦とは、実にそうしたものであった。
チャレンジの和訳は挑戦であるが、挑戦の英訳をチャレンジとするのは完全ではない。人生の戦場は広大無辺である。命知らずの蛮勇などは、叫んだところで声すらも届かぬ。

◎腹を切る所存
…経験からすると、「折り入ってのお話」の九割方が良からぬ話であることも知っていた。

…さようあれこれ考えれば、「おめでとうございます」の言葉も、心なしか「ご愁傷様です」と聞こえる。

◎陶淵明の宇宙
富貴は吾が願いに非ず
帝の郷(くに)は期す可からず

美しく、わかりやすく、面白く

◎天使の伊織さん
力で打つ麻雀ではなく、勘に頼るタイプでめない。いつも確率を考えている、知的な麻雀だった。

◎下戸の福音
酒を知らぬ者の目にはあの飲んでいる時間、加うるに酔うている時間には、まこと時と金の空費としか映らぬのである。

◎花と鰻
井上さんは言葉少なに、「お返しは原稿になさって下さい」とおっしゃられた。
「いえ、そういう意味じゃないんですよ」というのどかな笑い声が、耳元に聞こえるようである。

◎トレジャー・アイランド
一冊の本。ぼくの宝物。誰にも触れさせてはならぬぼくだけの世界。この瞬間に命を引きかえてもいい、と。

2013年6月1日 新神戸駅にて
 

浅田次郎/かわいい自分には旅をさせよ

ANA 新神戸にて第五章 回天の一日

◎「肉体」と「詳説」
…好きなことができぬから飢餓感を覚える。

…小説家には破産も倒産もない。オーバーワークの涯てにあるものはただ、作品の破綻か狂気、さめなくば肉体の死である。

◎複雑な父
三島由紀夫が存命であれば、本年は満七十八歳になる。

唯一思い詰めていたのは、「なおざりにしてはならない」ということであった。

三島由紀夫は私の師ではなく、実は父なのである。

「僕は、あなたの文学が好きです」
なるほど、倅が父親に向かって、生涯言いたくとも言えぬ一言であろう。

◎回天の一日
べつだん心酔していたわけではなく、むしろそのアフォリズムに辟易し、固有の美学には押し売りのしたたさすら感じていたのだが、突然に死なれてしまえばその喪失感たるや、何を以てしても埋めようがなかった。

◎政治家と詩人
中国の偉大な詩人は、みな政治家であり官僚であったという事実に思い当たった。ゆえに陸遊(りくゆう)は異なる二つの詩風(「天河の詩人」と「南に追われた祖国を慷慨(こうがい)する愛国」)を持ったのである。

文学に精通することは政治家たる必須条件であり、官僚はみな詩人であった。

あまたの王朝が交代し、またそのうちの少なからずが他民族による征服王朝であったにもかかわらず、「政治家すなわち詩人」というお定めは揺るがなかった。
中華たる国の底力はここにある。

◎陸遊と三島
尊敬する人の享年はとうに過ぎてしまった。

第六章 男の不在

◎男の不在
説教の主語は常に「男」であり、たとえば「いいか、ぼうず。男ってえのはな……」と…。
貧しい時代の倫理を、そうした見知らねオヤジの…説教が支えていたとも言える。

◎父の不在
明治維新において武家階級の存在は否定され、ほとんどの侍がある日突然、リストラされた。つまり国民の五分の一を占める武士と、その武士にまつろうていた使用人や取引関係者たちが、ほぼ全員失職したのである。おそらく全国の失業率は、少なくとも三十パーセントは超えたであろう。

子供の健全な成育というものは、父親がどれくらい子供とともに時を過ごしたか、という一点にかかっていると私は思う。かつての良き父親というものは、みなこれであった。

子供には何も希(ねが)わぬ。ただ一個の社会人として、ふつうの人生をふつうに生きてほしいと思う。この普遍の親心を実現せしめるためには、やはり確たる父の存在が必要であろう。

◎親の存在
…同じ年齢のわが父を思い返してみると、今の私よりもずっと老成していたような気がする。

江戸時代における武士の家督相続は、父が四十才、息子が二十歳を目安としていた。四十で御役御免、役人としての実働期間はわずか二十年である。

私は、この三十年間の若返り率を二十バーセントと踏んでいる。つまりわれわれの年齢は、父の日世代の八割と読む。

◎リーダーの不在
しかるに私は、維新を考えるとき心情的に祖先側の立場、すなわち旧幕府側に立ってしまう。新撰組に対する思い入れも、おそらく血の中に潜む仲間意識のせいだろうと、近ごろになって気付いた。

リーダーの要件は、まず「やる気」である。

徳川時代の安定感というのは、戦後日本の比ではない。何しろ…二百七十年も続いた結果が、「やる気」のある人材の枯渇である。

第七章 灰色のマトリョウシカ

◎和魂の?復
かつて歴史の長きに綿って、あれほど巧みに和魂漢才の実を上げた日本人は、和魂洋才をなし遂げることができなかった。

たとえば、喫煙を罪悪視するのはアメリカのモラルであって、決して全世界共通のモラリズムによるものではない。そんなことはヨーロッパを旅すれば誰でもわかる。

アメリカは、文化も何もない不毛の大地に先進の文明を打ち立てた偉大な国家ではあるが、その急進的な発展と維持には、ヒステリカルな善悪の判別が必要であった。むろん今日も不可欠である。

長い固有の文化を持つわれわれには、アメリカのモラルはことごとくそぐわない。

◎愚痴
自衛隊は名誉ある不戦の軍隊である。

◎「醫」の一字
「医」の旧字は「醫」と書く。医術の起源はこの一字に集約されている。
「酉」すなわち聖なる酒器を据え、矢を握って悪鬼を打ち払うジャーマンの儀式の光景である。

魔よ、去れ。すこやかな体を返せ。病よ、治れ、と。

時代が少し下がって、医は仁術とされた。
…二人の人間を表す。

◎クリスマス雑感
さしあたての素朴な疑問は、なぜほとんどが仏教徒の私たちが、かくも盛大にイエス・キリストの降誕を祝うのか、ということであろう。…日本国民はこぞってクリスマスを祝いつつ、くたばるときには坊さんの世話になる。…このあたり、まこと日本人である。
お釈迦様の誕生日など、誰も知らない。

◎メリット
いわゆる「メリット 」を伴う行為などたかが知れている…。

…「価値ある行為」と「報酬を伴う行為」→「ボランティア」

◎希望的観測
「総じて優秀な将校であるが、希望的観測によって戦局を判断する悪弊を共有している」

超エリートたちでさえ…何やら背筋が寒くなる。

英語では「wishful thinking」

◎灰色のマトリョーシカ

「福島で放出された放射線量はチェルノブイリ事故の十分の一に過ぎない」
「日本の医療技術は高水準である」
「日本人には海藻からヨードを摂取する食習慣がある」
…科学の進歩とともに、われわれは退行したのではないか、と。もし原子力開発にふさわしい叡知が備わっているのなら、今のこのときに再稼働の議論など、まじめに戦わされるはずもないからである。

色彩を持たない多崎つ
17.「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
村上春樹/文藝春秋

1大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。

2「悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ」とアオは言った。

3嫉妬とは──つくるが夢の中で理解したところでは──世界で最も絶望的な牢獄だった。

4自分が四人の親友に真っ向から拒絶されたことの痛みは、彼の中に常に変わらずある。

5「じゃあ教えてあげよう。人間は一人ひとり自分の色というものを持っていて、そいつが身体の輪郭に沿ってほんのり光って浮かんでいるんだよ。後光みたいに。あるいはバックライトみたいに。俺の目にはその色がはっきり見える」

6「私は、個人的にその人たちに興味があるの。その四人についてもっとよく知りたいの。あなたの背中に今でも張り付いている人たちのことを」

7自分の中には根本的に、何かしら人をがっかりさせるものがあるに違いない。色彩を欠いた…

8灰田があとに残していったのは、小さなコーヒ ーミルと、半分残ったコーヒー豆と、ラザール・ベルマンが演奏するリストの『巡礼の年』、そしてその不思議なほど深く澄んだ一対の眼差しの記憶だけだった。

9心の痛みはまだそこにあった。しかしそれと同時に、彼にはやらなくてはならないことがあった。

10一方でこつこつと鉄道駅を作る人間がいて、一方で高い金を取って見栄えの良い言葉ででっちあげる人間がいる。

11あの子は性格的には内気だったが、その中心には、本人の意思とは関係なく活発に動く何かがあった。…あいつは肉体的に殺害される前から、ある意味で生命を奪われていたんだ…おれだって、自分のことはたいして好きになれないものな。でも昔はおれにも、何人かの素晴らしい友だちがいた。おまえもその一人だった。しかし人生のどこかの段階で、そういうものをおれは失なってしまった。…まるで航行している船の甲板から、突然一人で夜の海に放り出されたみたいな気分だった。

12それは女性がみんな、多かれ少なかれ抱いている怯えなの。自分が女としてのいちばん素敵な時期を既に過ぎてしまったのに、それに気がつかず、またうまく受け入れることができずに、これまでと同じように振る舞って、みんなに陰で笑われたり、疎まれたりするんじゃないかという怯え。

13『ル・マル・デュ・ペイ』。その静かなメランコリックな曲は、…哀しみに…でも結局のところ、真の意味で傷を負っていたのは、あるいは損なわれたのは、多崎つくるよりはむしろその二人(灰田とシロ)の方だたのではないか。…自分が空虚であることをむしろ喜ぶべきなのかもしれない。

14ヘルシンキの空港で降りると、…つまり異邦人である彼がここで孤立していることは、完全に理にかなっている。そこには何の不思議もない。そう考えると落ち着いた気持ちになれた。…色彩を欠いた多崎つくるは、色彩を欠いたまま生きていけばいいのだ。

15しかし少し距離をとって眺めると、森の地面にはらはらと散った木の葉にしか見えない。匿名の動物たちが人知れず、こっそりと音もなく踏みしめていく木の葉だ。

16記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない。…たぶんそのために僕は人と深いところで関われないようになってしまったんだろう。他人との間に常に一定のスペースを置くようになった…彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばんの底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって結びついているのだ…痛みと痛み…脆さと脆さ…悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。…「もしよかったら、私をハグしてくれる?」

17ねえ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。…君に欠けているものは何もない。自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。怯えやつまらないプライドのために、大事な人をうしなったりしちゃいけない。

18彼が耳にするのは、グロテスクなまでに増幅され誇張された騒音と咳払いと不満の呻きだけだ。…「安心してゆっくり眠りなさい」

19新宿駅は巨大な駅だ。一日に延べ三百五十万人…「世界で最も乗降客の多い駅」…「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」…あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った。

☆村上春樹の小説を始めて読みましたが、これまで沢山の友だちを失なってきた私自身のこととも重なり、最後はとても感動しました。

私の読書メモH25年II 三国志(一)~(三)​

18.三国志(一)桃園の巻)/吉川英治(講談社)H25.6.9~

三国志(一)桃園の巻☆いよいよ三国志!!

《序》
三国志は、いうまでもなく、今から約千八百年前の古典であるが、三国志の中に活躍している登場人物は、現在でも中国大陸の至る所にそのまま居るような気がする。

三国志には、詩がある。

後漢の第十二代霊帝から、武帝が呉を亡ぼす太康元年までのおよそ百十二年間の長期にわたる治乱が書いてある。

《桃園の巻》

◎黄巾賊(こうきんぞく)6
…一人の旅人があった。
…「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備を、鞭(むち)打って下さい、劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」
…彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。

◎流行る童歌(はやるどうか)5
「へぇ?なぜです。どうして支那の帝王を決めるのに、…われわれ漢民族を脅かしてきた異国などと相談する必要があるのですか」

◎白芙蓉(びゃくふよう)5
「青年。わしの指をご覧。──北斗星がかがやいておる。それを的(まと)にどこまでも逃げてゆくがよい」

◎張飛卒(ちょうひそつ)4
けれど身には寸鉄も帯びていない。

◎桑の家9
おまえはまぎれもなく景帝(けいてい)の玄孫(げんそん)なのです。

◎橋畔風談(きょうはんふうだん)5
「よく覚えていて下された。いかにもその折の張飛でござる。

◎童学草捨(どうがくそうしゃ)5
「雲長──いつも話の上でばかり語っていたことだが、俺たちの夢がどうやらだんだん夢でなく、…劉備という漢(おとこ)─それに偶然市で出会ったのだ。…ただの土民ではなく、漢室の宗族(そうぞく)景帝の裔孫(えいそん)ということがわかた…」

◎三花一瓶(さんかいちぺい)6
始めてお目にかかります。自分は…関羽(かんう)字(あざな)は雲長と申し…

◎義盟(ぎめい)7
「では、永く」「変わるまいぞ」「変わらじ」

◎転戦(てんせん)7
…われらの手なみいかにと、その実力を見んとしておるに違いない。

◎檻車(かんしゃ)8
董卓「いったい諸君は、なんという官職に就かれておるのか」と、身分を糺した。
…わびしき雑軍。
そして官職のない将僚。
一軍の漂泊(さすらい)
…渡り鳥が、大陸をゆく。
もう秋なのだ。

◎秋風陣(しゅうふうじん)9
「士は己を知る者の為に死す」
…だが歓待の代償は義軍全体の生命に近いものを求められた。
「早速だが、豪傑にひとつ、打破っていただきたい方面がある」

「登れようか、あの断崖絶壁へ」
「登れそうに見える所から登ったのでは、奇襲にはならない。誰の眼にも、登れそうに見えない場所から登るのが、用兵の策というものであろう」
「…登れぬものときめてしまうのは、人間の観念で、その眼だけの観念を越えて、実際に懸命に当たってみれば案外やすやすと登れるような例はいくらでもあることだ」

…天下の乱は、天下の草民から意味もなく起るものではない。むしろ禍根は、民土の低きよりも、廟堂の高きにあった。川下よりも川上の水源にあった。政を奉ずる者より、政をつかさどる者にあった。地方よりも中央にあった。
けれど腐れる者ほど自己の腐臭には気づかない。また、時流のうごきは眼に見えない。

◎十常侍(じゅうじょうじ)5
督郵「訴状を書かんか、書かねば汝も同罪と見なすぞ」と、脅した。

◎打風乱柳(だふうらんりゅう)3
「そうだ。……いいことをいってくれた。我の栖む所を誤(あやま)てり」

◎岳南の佳人(がくなんのかじん)6
玄徳「…恋のささやきも一ときの間だ。すぐわれに返る。…わが子の我を待ち給う老母もいる。なんで大志を失おうや。」

◎故園(こえん)
母「そこらの豪傑たちが、乱世に乗じて、一州一軍を伐取(きりと)りするような小さな望みとは違うはずです。…万民のために、剣をとって起ったのですよ」
「千億の民の幸せを思いなさい。老先のないこの母ひとりなどが何であろう。そなたの心が──せっかく奮い起こした大志が──この母ひとりのために鈍るものならば、母は、億民のために生命を縮めても、そなたを励ましたいと思うほどですよ」

◎乱兆(らんちょう)4
十常侍「天下は泰平です。みな帝威に伏して、何事もありません」

◎舞刀飛首(ぶとうひしゅ)4
何進の催促を馬耳東風(ばじてたうふう)に…
◎蛍の彷惶(ほたるのさまよい)3
「ああ、蛍が………」
陳留王はさけんだ。
…蛍の光でも非常に心づよくなった。

◎呂布(りょふ)3
董卓「だまれっ、われに反(そむ) く面のは死あるのみたぞ」

◎赤兎馬(せきとば)6
恐るべき毒にまわされて、呂布は有頂天に酔った。好漢、惜しむらくは眼前の欲望にくらんで、遂に、青雲の大志を踏み誤ってしまった。

「思慮はあるようでも、決断のない男です」

◎春園走獣(しゅんえんそうじゅう)4
ああ、天道は易(かわ)れり
人の道もあらじ
万乗(ばんじょう)の位をすてて
われ何ぞ安からん
臣に迫られて命(めい)はせまる
ただ潸々(さんさん)、涙あるのみ

◎白面郎「曹操」(はくめんそうそう)4
「この子は鳳眼(ほうがん)だ」
「困った奴だ」
「あまり可愛がり過ぎるからいけない。親の目には、子の良い才ばかり見えて、奸才(かんさい)は見えないからな」

「折りがあったら許子将(きょしそう)という人と交わるがいい」

【足跡抒情】
あとかたのなきこそよけれみなと川

鶯やなぜ人間の世のいくさ

君よ 今昔の感 如何

「我以外皆師」

【三国志の旅】
◎躍動の叙事詩
中国の四大奇書…「…宇宙と人間界とは切っても切れぬ一つのものという達観が根底にあるので…まことに無辺雄大である」

◎悠久の天地に学ぶ
「支那の民性は、黄河の水のようなものである。
…然し、…時に雨期に会って、…非人道的な野生の相貌をあらわしてくる。この両面のどっちも支那なのである。そして猶、箇々に見れば見るほど、支那人の多角性は複雑してくる」


◎黄河の断(き)り岸に坐して
…黄河の眺めはすばらしい。
…杜康酒…かつて曹操が愛飲した酒
「黄河の水を治める者は国を治める」

◎洛陽の古跡を訪ねる
白馬寺は中国最古の寺…仏教がインドから中国に伝来したのは、後漢の頃…当時の帝が夢の中で金胴仏を見、…異国の神で仏だと知り、さっそく使者を西域に派遣して、仏像と仏典を
手に入れた。そのおり仏典を背負ってきたのが白い馬だったとに由来するそうだ。

ベストウェスタン新宿にて

董卓 董卓
19.三国志(一・ニ)群星の巻
2013-07-03 23:27:38
◎偽忠狼心(ぎちゅうろうしん)5
曹操には、曹操の人生観があり、陳宮にはまた、陳宮の道徳観がある。
それは違うものであった。
けれど今は、一蓮托生の道づれである。議論していられない。

◎競う南風(きそうなんぷう)5
曹操、父に「大きな仕事を手軽にやってのけるのが、大事を成す秘訣ですよ」

◎江東の虎(こうとうのとら)3
袁紹に「あの功に焦心(あせ)っている容子を見れば、およそ邪心が察せられます。──兵糧が乏しくなってきたのはよい折り、この折りを幸いに、兵糧を送らずにおいて、彼自身の兵が意気沮喪(そそう)して、乱れ散るのを待つのがいいです、それが賢明というものです」

◎関羽一杯の酒5
「近頃、寄手の後方に変わりはないか」

「敵の糧道はどうだ」

「敵の馬は、よく肥えているか」

「敵の兵隊は、どんな歌を謡うか」

「成功の見込みはあるかね」


◎虎牢関(ころうかん)5
董卓も、色を失っていた。
「味方は、どう崩れたのだ」

鎧袖一触(がいしゅういっしょく)…鎧の袖で一触れすること。簡単に相手を負かすこと。弱い敵に一撃を加えること。

虎牢関(ころうかん)の三戦

◎洛陽落日賦(らくようらくじつふ)7
勝てば皆、軍(いくさ)は自分ひとりでしたように思い、負ければ、皆負けた原因を、他人に向けて考える。

◎生死一川(せいしいっせん)4
「戦にも、負けてみるがいい、敗れて初めて覚り得るものがある」

「よろしい、天よ、百難をわれに与えよ。かん雄たらずとも、必ず天下の一雄になってみせる」

◎珠(たま)5
口に大義を唱えても、心に一致する何ものもなけれは、同志も同志ではない。いたずらに民を苦しめ、無益の人命と財宝を滅ぼすのみだ。

破壊は一挙にそれをなしても、文化の建設は一朝にしては成らない。
また。
破壊までの目標へは、狼煙一つで、結束もし、勇往邁進(ゆうおうまいしん)もするが、さて次の建設の段階にすすむと、必ずや人身の分裂が起る。
初めの同志は、同志でなくなってくる。個々の個性へ返る。意見の衝突やら紛乱が始まる。熱意の冷却が分解作用を呼ぶ。そして第二の段階へ、事態は目に見えぬままに推移してゆくのである。
曹操、袁紹らの挙兵も…
当初の理想もいま何処へ。

三国志(ニ)

◎白馬将軍(はくばしょうぐん)6
二人は、相見た一瞬に、十年の知己のような感じを持った。

◎溯江(そこう)7
御幣(ごへい)をかついで…つまらない迷信を気にかきたり、縁起をかついだりすること

◎石3
年十七の初陣に、この体験をなめた孫策は、父の業を継ぎ、賢才を招き集めて、ひたすら国力を養い、心中深く他日を期しているもののようであった。

◎牡丹亭(ぼたんてい)4
(董卓(とうたく))その頃、彼の奢りは、いよいよ募って、絶頂にまで昇ったかの観がある。
位は人臣をきわめてなおあきたらず…
「もし、わが事が成就すれば、天下を取るであろう。事ならざる時は…」
明らかに、大逆の言だ。
けれど、こういう威勢に対しては、誰もそれをそれという者もない。
地に拝伏して、ただ命(めい)をおそれる者──それが公卿百官であった。

◎傾国(けいこく)5
「え。この美人を、予に賜るというのか」

◎痴蝶鏡(ちちょうきょう)4
呂布の妻「どうしたんですか」
呂布「うるさい」

◎絶纓の会(ぜつえいのかい)5
「なにをおっしゃいます。太師に捨てられて、あんな乱暴な奴僕(ぬぼく)の妻になれというのですか。嫌なことです。死んだって、そんな辱しめは受けません」

◎天ぴょう4
「え。偽勅(ぎちょく)の使いを?」
「されば、それも天子の御為ならば、お咎めもありますまい」

◎人間燈(にんげんとう)6
だが、彼もただ一つ大きな過ちをした。それは董卓を主人に持ったことである。

◎大権転々4
好漢惜しむらくは思慮が足らない。また、道徳に欠けるところが多い。──天はこの稀世の勇猛児の末路を、そも、何処に運ぼうとするのであろうか。

こういう政府が、長く人民の平和と秩序を布(し)いてゆけるわけはない。

◎秋雨の頃4
「今の世にも、貴君のごとき義人があったか」

◎死活往来(しかつおうらい)9
「後日の問題になされては如何ですか」

◎牛と「いなご」6
劉玄徳は…無名の暴軍や悪辣な策謀を用いて、強いて天に抗して横奪したのではなく、きわめて自然に、めぐり来る運命の下に、これを授けられたものといってよい。
…「われわれの兄貴は、すこし時勢向きでない」と、歯がゆがられていたことが、今となってみると、遠い道を迂回していたようでありながら、実はかえって近い本道であったのである。

◎愚兄と賢弟5
利を嗅いで来た味方は、また利を嗅いで敵へ去る。小人を利用して獲た功は、小人に裏切られて、一挙に空しくなってしまった。
「田氏を用いて、彼に心をゆるしていたのは、自分の過ちでもあった」
…無数の田氏が離合集散している世の中であった。

「どうも困ったものだよ。われわれの兄貴は人が好すぎるね。狡い奴は、その弱点ヘつけ込むだろう。」

「いや、わしはどこまでも、誠実をもって人に接してゆきたい」
「その誠実の通じる相手ならいいでしょうが」
「通じる通じないは人さまざまで是非もない。わたしはただわしの真心に奉じるのみだ」

「はからずも、その徐州に身を寄せて、賢弟の世話になろうとは。──これも、なにかの縁というものだろうな」
「何、なんだって、もういちどいってみろ」

◎毒と毒6
一銭を盗めば賊といわれるが、一国を獲れば、英雄と称せられる。

「一人の董卓が死んだと思ったら、いつのまにか、二人の董卓が朝廷にできてしまった」


張飛は面白い!!


















曹操











三国志(ニ)草莽の巻(そうもうのまき)


◎巫女(みこ)4
戦いが仕事のように。戦いが生活のように。戦いが楽しみのように。意味なく、大義なく、涙なく、彼らは戦っていた。

◎緑林の宮(りょくりんのみや)5
けれど、どんな廃屋でも、御所となれば、ここは即座に禁裏(きんり)であり禁門である。

◎改元5
ただ、彼に今ないものは、その旗織(きし)の上に唱える大義の名分のみです。

黄河の水は一日に千里を下る。…
「目に見えないが大きく動いている。刻々、動いて休まない天体と地上。……ああ偉大だ、悠久な運行だ。大丈夫たる者、この間に生れて、真に、生き甲斐ある生命をつかまないでどうする!おれもあの群星(ぐんじょう)の中の一星であるのに」
曹操は天を仰いでいた。

「これからだ!」
彼は、自分にいう。
「曹操が、曹操の生命を真につかむのは、これからだ。──われこの土に生れたり。──見よ、これからだぞ」
彼は、今の小成と栄華と、人爵とをもって、甘んじる男ではなかった。
その兵は、現状の無事を保守する番兵ではない。攻進を目ざしてやまない兵だ。その城は、今の幸福を兪(ぬす)む逸楽(いつらく)の寝床ではない、前進また前進の足場である。彼の抱負ははかり知れないほど大きい。彼の夢はたぶんに、詩人的な幻想をふくんではいる。けれど、詩人の意思のごとく弱くない。

「ついに来たか、ついに来たか」
「え。──兄上には、もう分かっていたんですか」
「分かるも分からぬもない。来るべきものが当然に来たのだ」

餓鬼のごとく、冬の虫を見つけて、むしゃむしゃ喰っている。腹膨れの幼児があるかと思うと、土を舐(な)めながら、どんよりした眼で、
──なぜ生れたのか。

◎火星と金星5
「─如かず、逆を捨て、順に従って、ここは兜を脱いで降人に出るしかありますまい。もし彼に当って戦いなどしたら、あまりにも己を知らな過ぎる者と、後生まで笑いをのこしましょう」

勅使董昭(とうしょう)「三十年があいだ、いたずらに恩禄をいただくのみで、なんの功もない人間です」

伝統や閥や官僚の小心なる者が、おのおの異(ちが)った眼、異った心で将軍を注視しています。

迷信とは思わない。
哲学であり、また、人生科学の追求なのである。…天文の暦数や易経の五行説

一面みな弱いはかない「我れ」なることを知っていた。
…運命は、人智では分からないが、天は知っている。自然は予言する。
天文や易理は、それかわ為に、最高な学問だった。いやすべての学問──たとえば政治、兵法、倫理までが陰陽の二元と、天文地象の学理を基本としていた。

群臣は、唖然としていたが、誰も異義は云いたてない。曹操が恐いのでる



張飛 張飛
2013-07-07 16:45:05

三国志(二) 草莽の巻(2)

◎両虎競食の計(りょうこきょうしょくのけい)3
士を愛すること、女を愛する以上であった曹操…

「ああ。──一人除けばまた一人が興る。漢家のご運もはや西に入る陽か」

「──呂布の勇と、玄徳の器量が、結びついているのは、ちと将来の憂いかと思う。もし両人が一致して、力を此方へ集中して来ると、今でもちとうるさいことになる。──なにか、未然にそれを防止する策はないか」

「待てっ。呂布」「一命は貰ったッ」
「あっ」
「貴様は張飛だなっ」
「見たら分ろう」
「なんで俺を殺そうとするか」
「世の中の害物を除くのだ」
「どうして、俺が世のなのか、害物か」
「義なく、節なく、…ゆく末、国家のためにならぬから、殺してくれと、家兄玄徳のところへ、曹操から依頼がきている。…覚悟をしちまえ」
「ふざけるなっ。貴様ごときに俺が、この首を授けてたまるか」
「あきらめの悪いやつが」
「待てっ、張飛」
「待たん!」

「ええいツッ、誰だっ。邪魔するな」
「これっ、鎮まらねかっ。愚者(おろかもの)めが」
「あっ。家兄か」
「誰が、いつ、そちに向かって、呂布どのを殺せといいつけたか。…」

◎禁酒砕杯の約束(きんしゅさいはいのやく)6
「ごていねいにも程がある」
「家兄。お人よしも、土が過ぎると、馬鹿の代名詞になりますぞ」

「ならば、そちのいう通り、呂布を殺したらなんの益がある」
「後の患(うれ)いを断つ」
「それは、目先の考えというものだ。──曹操の欲するところは、呂布と我とが血みどろの争いをするにある。両雄並び立たず──。それくらいなことがわからぬか」

「そちの性は、進んで破るにはよいが、守るには適しない」
「そんな筈はござらん。張飛のどこが悪いと仰せあるか」
「生来、酒を好み、酔えば、みだりに士卒を、打擲(ちょうちゃく)し、すべて軽率である。もっとも悪いのは、そうなると、人の諌めも聞かぬことだ。…」
「あいや、家兄。その意見は肝に銘じ、自分も平素から反省しているところでござる。……そうだ、こういう折こそいい時ではある。今度のご出馬を機会として、張飛は断じて酒をやめます。──杯を砕いて禁酒する!」

「よくぞ申した。そちが自己の非を知って改めるからには、なんで玄徳も患(うれい)をいだこう。留守の役は、そちに頼む」

「万事、よく陳登と談合して事を処するように」

「感心感心」
「さあ、飲め、毎日、ご苦労であるぞ。──これは其方どもの忠勤に対する褒美だ。仲よく汲みわけて、今日は一献ずつ飲め」

「よいよい、おれが許すのだ。さあ卒ども、ここへ来て飲め」

「おれは飲まん、おれは杯を砕いておる」

「お一杯(ひとつ)くらいはよいでしょう」

「こらこらっ、…それがしにも一杯よこせ」
………
………
「ああ!」

◎母と妻と友5
玄徳「ぜひもない。だが母上はどうしたか。わが妻子は無事か。母や妻子さえ無事ならば、一城を失うも時、国を奪わるるも時、武運だにもあらばまたわれにかえる時節もあろう」

玄徳「──兄弟はハ衣服ノ如シ──忘れたか張飛。われら三人は、桃園に義を結んで、兄弟の杯をかため、同月同日に生るるを求めず、同年同日に死なんと──誓い合った仲ではなかったか」

玄徳「われら兄弟三名は、各々がみな至らない所のある人間だ。その欠点や不足をお互いに補い合ってこそ始めて真の手足であり一体の兄弟といえるのではないか。そちも神ではない。玄徳も凡夫である。凡夫のわしが、何を以て、そちに神の如き万全を求めようか。」

乾坤一擲の決戦をいながしたが、玄徳は、
「いや、いや、ここは熟慮すべき大事なところだろう。どうもこの度の出陣は、何かと物事が順調ではなかった。運命の波長が逆に逆にとぶつかってくる。思うに今、玄徳の運命は順風にたすけられず、逆浪にもてあそばれる象(かたち)である。──天命に従順になろう。強いて破船を風浪へ向けて自滅を急ぐは愚である」

張飛「すこし兄貴は孔子にかぶれておる。」

玄徳「身を屈して、分を守り、天の時を待つ。──虫交龍(こうりょう)の淵にひそむは昇らんがためである」


 
孫策孫策
2013-07-08 22:08:04

◎大江の魚(たいこうのうお)4
大河は大陸の動脈である。北方の黄河と、南方の揚子江とである。
「彼は、親まさりである。江東の麒麟児とは、彼(孫策)であろう」
──袁術の欲しがっている物?
「伝国の玉璽!」

◎神亭廟(しんていびょう)3
「どうだ、愉快な奴どもではないか。──しかし、あまり愉快すぎるところもあるから、貴公らの仲間に入れて、すこし武士らしく仕込んでやるがいい」

◎好敵手(こうてきしゅ)3
──われには神の加護あり……
と、孫策がいったとおり、光武帝の神霊が、早くも奇瑞(きずい)をあらわして味方…

◎小覇王(しょうはおう)3
「あっ、孫策だ」

「間違いありません。孫策はたしかに落命しました。…」「うまくいったな」

「孫策これにあり!」
江東の孫郎(そんろう)
小覇王

◎日時計(ひどけい)4
根ぶかく歯肉たる旧領を守って、容易に抜きとれない一勢力が残っていた。
太史慈(たいじし)

孫策「死は易く、生は難し、君はなんでそんなに死を急ぐのか」

「君に恥はないだろう」

「君は自分を敗軍の将と卑下しておらるるが、その敗因は君が招いたものではない。劉鷂(りゅうよう)が暗愚たるためであった」

「惜しむらく、君は、英敏な資質をもちながら、良き主にめぐり会わなかったのだ。蛆(うじ)の中にいては、蚕(かいこ)も繭(まゆ)を作れず糸も吐けまい」

「どうだ。君はその命を、もっと意義ある戦と、自己の人生のために捧げないか。──云いかえれば、わが幕下となって、仕える気はないか」
太史慈は、潔く、
「参った。降伏しました。…」
「君は、真に快男子だ。妙に体面ぶらず、その潔いところも気に入った」

「敗軍の将は兵を語らずです」

「今、この太史慈を、三日間ほど、自由に放して下されれば、…精鋭三千をあつめて帰ります。─」

日時計は、秦の始皇帝が、陣中で用いたのが始めだという。

「南のほうを見ろ」
果たせるかな、太史慈は、三千の味方を誘って、時も違えず、彼方の野末から、一陣の草ぼこりを空にあげて帰って来た。

◎名医(めいい)5
軍勢は日ましに増強するばかり…
「ここが大事だ。ここで自分はなにをなすべきだろうか?」
孫策は自問自答して、
「そうだ、母を呼ぼう」

孫策は、久方ぶりに、母の手を取って、
「もう、安心して、余生をここでお楽しみください。──孫策も大人になりましたから」

「そなたの亡夫(ちち)がいたらのう」

法をただし貧民を救い、産業を扶(たす)ける一方、悪質な違反者には、寸毫もゆるさぬ厳罰を加えた。
──孫郎来る!

「汝らの如き軽輩が、われわれと同格の気で、国を分け取りにすんなどとは、身の程を知らぬも甚だしい。帰れッ」
和睦不調と見て、厳与が、黙然と帰りかける後ろへ、とびかかった孫策は、一刀にその首を跳ね落として、血ぶるいした。




呂布呂布
2013-07-08 23:42:26
◎平和主義者5
袁術「そうだ。……北隣の憂いといえば小沛(しょうはい)の劉備と徐の呂布だが」

呂布「おれの本心は、平和主義だ。おれは元来、平和を愛する人間だからね。──そこで今日は、双方の顔をつき合わせて、和睦の仲裁をしてやろうと考えたわけだ。この呂布が仲裁では、君は役不足というのか」

◎花嫁5
第一夫人、第二夫人、それと、いわゆる妾(しょう)とよぶ婦人と。

「…もう死神につかれているのです。──なぜならば、こんどのご縁談は、袁術の策謀です。…」

◎馬盗人(うまぬすびと)3
「呂布は前門の虎だし、袁術は後門の狼にも等しい。その二人に挟まれていては、いつかきっと、そのいずれかに喰われてしまうにきまっている」

「なに。それが張飛だったと……?」

「この上はぜひもありません。いったん城を捨てて、許都(きょと)へ走り、中央にある曹操へたのんで、時をうかがい、今日の仇を報いようではありませんか」

◎胡弓夫人(こきゅうふじん)3
曹操「玄徳は、わが弟分である」

「玄徳はさすがに噂にたがわぬ人物ですな」
「むむ」
「彼こそ将来怖るべき英雄です。今のうちに除いておかなければ、ゆく末、あなたにとっても、由々しい邪魔者となりはしませんか」

「予もそう思う。むしろ今逆境にある彼には、恩を恵むべきである」

「君の前途を祝す予の寸志である」

「時来れば、君の仇を、君と協力して討ちに行こう」

曹操「…呂布だけは目の離せない曲者と予は思うが」
「ですから、与(くみ)し易(やす)しということもできましょう」
「利を喰わすか」
「そうです。欲望に目のくらむ漢(おとこ)ですから、この際、彼の官位を昇せ、恩賞を贈って、玄徳と和睦せよと仰ってごらんなさい」
「そうか」
曹操は、膝を打った。
すぐに…その旨を伝えると、呂布は思わぬ恩賞の沙汰に感激して、一も二もなく曹操の旨に従ってしまった。
曹操「今は、後顧の憂いもない」

「絶世の美人です」

傾国の美…国をほろぼすほどの美人

◎育水(いくすい)は紅(あか)し5
(そちは、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)に従っていた悪来にも劣らぬ者だ)

曹操
「典韋。わが拝をうけよ」

「…けれど、けれど、日常、予に忠勤を励んだ悪来の典韋を死なせたのは、実に残念だ。…」
粛として、彼の涙をながめていた将士は、みな感動した。
もし曹操の為に死ねたら幸福だというような気がした。忠節は日常が大事だとも思った。

逆境を転じて、その逆境をさえ、前進の一歩に加えて行く。──そういう「こつ」を彼は知っていた。
故あるかな。
過去をふりむいて見ても、曹操の勢力は、逆境のたびに、躍進してきた。

◎陳大夫(ちんたいふ)4
酒宴のうちに、曹操は陳登(ちんとう)の人間を量り、陳登は、曹操の心をさぐっていた。
「お城の牧場から一頭の牝羊をお下げ渡してください。…」
陳大夫はその日、一頭の羊をひいて、城の南門から、飄然(ひょうぜん)と出て行った。

☆転換期に即応する文学/松下幸之助
聞くところによると、吉川英治氏は、十二歳の時に家の没落に遭い、小学校を中退して以降社会の下積み生活の辛酸をなめつつも、寸暇を惜しまれては文学書を読まれたという。

☆三国志の旅
◎董卓による長安遷都
董卓の遺体は広場にひきずり出され、そのへそにさしこまれた特別製の灯芯に火をつけると、ふとった董卓の脂肪で、数日間燃えつづけたそうである。

◎秦始皇帝時代の長安
中国最初の統一国家をつくりあげた秦の始皇帝は、西安の北方にあたる…を都とした。

◎石の生命に見る中国史
杜甫「三月三日天気新たなり。長安の水辺麗人多し」

◎すべての道は長安に……
白楽天「春寒うして浴を賜う華清池、温泉水なめらかに、凝脂を洗う」

玄宗皇帝と楊貴妃のロマンス

周、秦、漢、隋、唐のなどの五代王朝

秦の始皇帝


















賈栩(かく)
賈栩(かく)
2013-07-10 00:05:48
20.三国志(三) 草莽の巻(つづき)

◎増長冠(ぞうちょうかん)4
一羽の慣れない鶏を入れたために、鶏舎の群鶏(ぐんけい)がみな躁狂(そうきょう)して傷つく例もありますから、よほど考えものです。

◎仲秋荒天(ちゅうしゅうこうてん)3
曹、玄、呂の三軍は一体となって、

(青天の)霹靂(へきれき)のような一報

◎空腹・満腹3
「丞相(じょうしょう)もひどい」

「わたくし如き者から、何を借りたいと仰せられますか」
「お前の首だ」

…糧米を盗み、小桝を用いて私腹をこやす。

「まず、味方の卑怯者から先に成敗するぞ」

◎梅酸・夏の陣(ばいさん・なつのじん)5
梅酸渇(ばいさんかつ)を医す。

「偽撃転殺(ぎげきてんさつ)の計です。」

曹操「──虚誘掩殺(きょゆうえんさつ)の計(はか)りごとだっ。──退却っ、退却っ!」

彼ほど快絶な勝ち方をする大将も少ないが、また彼ほど痛烈な敗北をよく喫している大将も少ない。
曹操の戦は、要するに、曹操の詩であった。詩を作るのと同じように彼は作戦に熱中する。
その情熱も、その構想も、たとえば金玉の辞句をもって、胸奥の心血を奏でようとする詩人の気持ちと、ほとんど相似たものが、戦にそのまま駆りたてられるのが、曹操の戦いぶりである。
だから、曹操の戦は、曹操の創作である。──非常な傑作があるかと思えば、甚だしい失敗作もある。
いずれにせよ、彼は、戦を楽しむ漢(おとこ)であった。

梅酸も酸味
敗戦もまた酸
不同(おなじからず)といえども甘し
心舌(しんぜつ)を越えて甘し
馬上、ゆられながら、彼はいつか詩など按じていた。逆境の中にも、なお人生を楽しもうとする不屈な気力はある。決して、さし迫ることはない。

賈栩
「こんな程度は、兵学では初歩の初歩です。第一回の追撃は敵も追撃されるのを予想していますから、策を授け、兵も強いのを残して、後ろに備えるのが常識の退却法です。が、──二度目となると、もう追ってくる敵もあるまいと、強兵は前に立ち、弱兵は後になって、自然気もゆるみますから、その虚を追えば、必ず勝つなと信じたわけであります」


袁紹(えんしょう)袁紹(えんしょう)
2013-07-15 09:25:20

◎北客(ほくきゃく)4
曹操「人間の逆境も、あれくらいまで絶体絶命に押し付けられると、死中自ら活路あり」

「むかし漢の高祖が項羽を制服した例を見るに、高祖は決して項羽よりも強いのではありません。強さにかけては項羽のほうがはるかに上でしょう。にもかかわらず、高祖に滅ぼされたのは勇をたのんで、智を軽んじたせいです。それと、高祖の穏忍がよく最後の勝ちを制したものと思います」

曹操「そうだ。──打開にはいつも危険が伴うのはあたりまえだ。袁紹何ものぞ。すべて旧い物は新しい生命と入れ代わるは自然の法則である。おれは新人だ。彼は旧勢力の代表者でしかない。よし! やろう」

筍或「至誠をもって、天子を輔(たす)け、至仁をもって士農を愛し、おもむろに新しい時勢を転回して、時勢と袁紹とを戦わせるべきです。──ご自身、戦う必要のないまでに、時代の推移に、袁紹の旧官僚陣が自壊作用を起こしてくるのを待ち、最後の一押しという時に、兵を動かせば、万全でしょう」
「ちと、気が長いな」
「何の、一瞬です。──時勢の歩みというものは、こうしている間も、目に見えず、おそろしい迅さでうごいている。──が、植物の成長のように、人間の子の育つように、目には見えぬので、長い気がするのですが、実は天地の運行と共に、またたくうちに変ってゆくものです。──何せよ、ここはもう一応、ご忍耐が肝要でしょう」

◎健啖(けんたん)天下一7
にらの花が、地面にいっぱい
金をかざし、銀かんざし
お嫁にゆく小姑に似合おう
小姑のお婿さんは
背むしの地主老爺(おやじ)
床にねるにも、おんぶする
卓へつくにも、だっこする
隣のお百姓さん
見ない振りしておいで
誰も笑わないことにしよう
前世の因縁、しかたがない

弱点といおうか、人間性に富むといおうか、呂布は実に迷いの多い漢(おとこ)ではあった。

◎黒風白雨(こくふうはくう)
玄徳「今もどって、いたずらに呂布を怒らすよりはむしろ呂布に完全な勝利を与えて、彼の心に寛大な情のわくのを祈っていたほうがよいかもしれぬ」

「呂布はあせっております。…」

──が。呂布はなお気づかなかった。

利に遭えば、いつ寝返りを打つかも知れません。

呂布「よく気がついた。わが命を守って、細やかな心くばり。そちの如き者こそ、真の忠義の士というのだろう」

◎奇計(きけい)5
呂布は、すこぶる賢明な策のつもりだった。…

窮鼠(きゅうそ)が猫を咬(か)む…追いつめられた鼠が猫にかみつく。弱者でも追いつめられると強者に逆襲する。死に物狂いになれば、弱者ども強者を苦しめることがある。

曹操「予のおそるるところも、呂布と袁術とが、結ばれる点にある。…」

逸をもって労を撃つ…味方を十分休養させ鋭気を養っておいて、遠くから来て疲れた敵兵に当たる。孫子の兵法にみる必勝法。

曹操「呂布に会わん」



関羽三国志(三) 臣道(しんどう)の巻

◎煩悩攻防戦(ぼんのうこうぼうせん)5
玄徳「汝(張飛)こそ、よしなき臆測を軽々しく口にいたすなど、匹太の根性ていうべきである。油断に馴れ、たかをくくって、千歳(ざい)の汚名を招くな」

◎破塀(はへい)3
呂布「ああ……いつのまに俺はこんなに老けてしまったのだろい。髪の色まで灰色になった。眼のまわりも浅黒い」

◎白門楼始末(はくもんろうしまつ)4
窮すれば通ず

呂布へ「その愚痴は、日頃、将軍が愛されていた秘院の女房や寵妾へおっしゃたらいいでしょう」

運命は皮肉を極む。時の経過に従って起るその皮肉な結果を、俳優自身も知らずに演じているのが、人生の舞台である。

◎許田の狩(きょでんのかり)5
曹操「好(よ)きもまた、交わること三十年。悪しきもまた、交わること三十年。好友悪友も、根元は、わが心の持ちかたにあろう」

玄徳「鼠の価値と、器物の価値とを、考え合わす必要があろう。われら、義兄弟の生命は、そんな安価なものではない筈だ」

◎秘勅(ひちょく)を縫う4
政治(まつり)は朝廟で議するも、令は相府に左右される。公卿百官はおるも、心は曹操の一鬚(びん)一笑(しょう)のみ恐れて、また、宮門の直臣たり襟度(きんど )を持しておる者もない。

謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらして、勝ちを千里の外に決し、…国家の法をたてて、百姓をなずけ、治安を重くし、よく境防を守り固めました。

◎油情燈心(ゆじょうといしん)6
曹操がなんでそんなに怖ろしいのですか。雄は雄にたがいありませんが、天の与(くみ)差ぬ女干雄です。

◎鶏鳴(けいめい)2
玄徳「決して生命を惜しむのではありませんが、これだけはかたく奉じていただきたい、ゆめ、軽々しく、動かないことです。時いたらぬうちに軽挙妄動する愚を戒めあうことです」

◎青梅(セイバア)、酒ヲ煮テ、英雄ヲ論ズ4
「君子のことばな、晴耕雨読ということがある。雨の日にはよく読書に親しんでおられるから、君子の生活を実線しておられるものだとおれは思うが」

やはり曹操を謀るためかもしれぬ。よく考えてみると、玄徳の日課は、董承と密会した以後から始まっている。

◎雷怯子(らいかょし)4
──玄徳は自分をつつむのに細心で周到であった。いや臆病なほどである。

悪く解すれば、容易に他人に肝をのぞかせない二十底、三十底の要心ぶかい性格の人ともいえる。

むしろそれは自分からくだけて相手を油断にさせる策略とも見えないことはない。

曹操はとうとう自分の都合のよいような歓んだ。玄徳の人物もこの程度ならまず世に無用な人と観てしまったのである。……彼の遠謀とも知らずに。

◎兇門脱出(きょうもんだっしゅつ)
しかし、聡明敏感な彼のことだから、避けて近づかなければ、また、猜疑するだろう。

──無事と見えた日ほど玄徳の心労はかえって多かったのである。

「何だって、虎に翼を貸し、あまつさえ、野に放ったのですか。一体あなたは、玄徳をすこし甘く見過ぎていませんか」

「露骨にいえば、あなたは玄徳に一ばい喰わされた形です」

「…彼の行動はあくまで彼のためでしかありません」

「さなり!怒りをなす前に、まず自身を質(ただ)せ。…しきりと賄賂をもとめたが、相手もせずに拒んだゆえ、その腹いせに、丞相へ讒言して、…あら笑止、物乞いの舌さきにおどらせられて、由々しげに使いして来た人の正直さよ」

曹操「今のは一場の戯れだよ。月日は呼べどかえらず、過失は追うも旧にもどらず。もう君臣の仲で愚痴はやめにしよう。……愚かだ、愚かだ。むしろ一杯を挙げて新に備え、後日、きょうのわが失策を百倍にして玄徳に思い知らせてくれん。…」

◎偽帝(ぎてい)の末路
荀或(じゅんいく)「すでに丞相がさきに、玄徳が総大将とおゆるしになったため軍の指揮も当然玄徳に帰していたわけです。ふたりは玄徳の部下として行ったものゆえ彼の威令に従わないわけにゆかなかったのでしょう。もうやむを得ません。この上は車冑(しゃちゅう)に謀略をさずけて、玄徳を今のうちに討つあるのみです」

◎霧風(むふう)2
関羽「あわてるな、敵にも備えのあることだ」

◎一書(しょ)十万兵(まんぺい)3
彼に従来のような曖昧な態度や卑屈はもうゆるされなくなってきたのである。
玄徳の性格は、無理がきらいであった。何事にも無理な急ぎ方は望まない。

陳登「失礼ながらまだまだあなた如かは、そう彼の眼中にはないでしゅう」

陳登「ですから、そこを鄭玄(ていげん)にとりなしてもらうのです。」

「義兵は勝ち、驕兵はかならず敗(やぶ)る」

「すべて時あって、変に応じたものです。いたずらに安泰をねがって、世のうごきを拱手(きょうしゅ)傍観していた国で、百年の基礎をさだめた例がありましょうか。」

◎丞相旗(じょうしょうき)2
孔融(こうゆう)「勢いの旺なるものへ、あえて当って砕けるのは愚の骨頂です」
「旺盛は避けて、弱体を衝く。──当然な兵法だな。──だがまた、装備を誇る驕慢な大軍は、軽捷(けいしょう)な寡兵(かへい)をもって奇襲するに絶好な好爺(こうじ)でもあるが?」

荀或(じゅんいく)「袁紹は名門の族で、旧勢力の代表者です。時代の進運をよろこばず、旧時代の夢を固持している輩のみが、彼を支持して、時運の逆行に焦っているのであります。」

◎鬮(くじ)3
「いやいや或いは兄(このかみ)のご本心は、曹操と和せず戦わず──不戦不和──といったような微妙な芳信を抱いて折られるのでないかとふと考え、わざと手捕りにして持ち帰りましたが」

◎不戦不和4
玄徳「そち(張飛)の勇は疑わぬが、そちのさわがしい性情をわしは危ぶむのだ。必ず心して参れよ」

◎奇舌学人(きぜつがくじん)4
まず外交内結、国内を固めておくべきでしょう。

◎雷鼓(らいこ)4
そういう人気者へ、丞相たる予が、まじめに怒ってそれを手打ちにしたなどと聞えると民衆はかえって、予の狭量をあざけり、予に期待するものわ失望を抱くであろう。

◎鸚鵡州(おうみしゅう)3
「そうか、とうとう彼も自分の舌剣で自分を殺してしまったか。彼のみではない。学問に慢じて智者ぶる人間にはまあまあある例だ。…」

◎太医吉平(たいいきっぺい)4
曹操の長所のうちで最も大きな長所は有為な人物を容れるその魅力と包容力である。

◎美童(びどう)5
「丞相を殺そうとしている謀叛人があります」

◎火か人か3
しかるに、いまとなってこの曹操をのぞかんとするは何事であるか、…

…もしあなたの旗のうえに、朝威がなかったら。あなたの今日もありませんでした。

◎小児病患者2
甘言をもって、…、流言の法を行って、…

州民の心はつかみきれておらない。…みな一致を欠き、…袁紹自身の優柔不断、なんで神速の兵をうごかせましょうや

…財宝万貨、なに一つ不足というものはないが、老いの寿命と子孫ばかりは、どうにもならぬものである。

…やがて、一転の機を話中につかんで、…

…必定、都下は手薄とならざるを得ません。

…上は天子を扶け、下は万民の大幸と、謳歌されるでありましょう

◎玄徳冀州(きしゅう)へ奔(はし)る3
武勇一点ばりで…

紅の旗が、…敵に夜陰のうごきある兆(しるし)です。

◎恋の曹操(そうそう)5
押しつめて、わざとゆるみ、敵を驕らせて味方は潰走(かいそう)して見せる。その間、ひそかに大軍をまわし、中道を遮断すれば、関羽は十方に道を失い、孤旗をささえて悲戦の下に立つしかありません。

◎大歩す臣道(たいほすしんどう)4
麓の軍勢を、この上より三十里外に退かせ給え

「これは、これは、花園中にでもいるようだぞ。きれいきれい。目がまわる──」

◎破衣錦心(はいきんしん)4
関羽「こういう千里の駿足が手にあれば、一朝、故主玄徳のお行方が知れた場合、一日のあいだに飛んで行けますからそれを一人祝福しているのです。

丞相の高恩は、よく分かっているが、それはみな、物を賜うかたちでしか現わされておらぬ。この関羽と、劉皇叔との誓いは、物ではなく、心と心のちぎりでござった。

しかし、劉皇叔とこなたとは、まだ一兵一槍もない貧窮のうちに結ばれ、百難を共にし、生死を誓ったあいだでござる。…一朝の事でもある場合は身相応の働きをいたして、日ごろのご恩にこたえ、しかる後に、立ち去る考えでおりまする

──地の底までも、お慕い申してゆく所存でござる

丞相は主君、義において父に似る。関羽は心契(しんけい)の友、義において、兄弟のようなものだ。

◎白馬の野(はくばのの)2
なるほど、安全な考えです。けれど田豊は学者ですから、どうしても机上の論になるでしょう。私ならそうしません

◎報恩一隻手(ほうおんいちせきしゅ)3
顔良は、一刀も報いず、…ただ一揮(き)に斬利下げられていたのである。

◎黄河を渡る2
……いずれにせよ、一兵士の片言をとりあげて、玄徳の一命を召されんなどということは、余りに、日頃のご温情にも似げないご短慮ではございますまいか

ここでは人間の正味そのものしかない。

◎燈花占(とうかせん)4
丞相は実によくそれがしの心事を知っておられる。

◎風の便り3
「そ、それでは、内院を捨てて、許都から脱れ出るおつもりか……」
「しっ……」

◎避客牌(ひかくはい)2
奔流のなかの磐石は、何百年激流に、洗われていても、やはら磐石である。

☆吉川リアリズムの恩恵/杉本健吉
「暑ければ脱いだでしょうし、それが約束を超えた真実で、万人に通ずるものでしょう」
…これなるかな…。まったく自然で、万法の理にかなった融通無碍(ゆうずうむげ)である。

☆三国志の旅(三)/尾崎秀樹
黄いろい土と黄いろい水と、そして高粱(コウリャン)と泥の家としかない大陸の上に、どうしてこの文明があつたらうか。

蜀の諸葛孔明は南京の地形を「鍾山(しょうざん)に龍がとぐろをまき、石城に虎がうずくまる」

日本人にとっては、南京は歴史の汚点として記憶される。

中国では早くから天文学が発達し、すでに紀元前三世紀の頃、たいよう、月、さらに五大惑星などの軌道についてたしかめられていたというほどで、…貴重な古代観測器も保存されている。

 

私の読書メモH25年III 三国志(四)~(八)

21.三国志(四) 孔明の巻

三国志(四)孔明の巻
◎関羽千里行(かんうせんりこう)6
曹操「…人おのおのその

主ありだ。このうえは彼の心のおもむくまま故主のもとへ帰らせてやろう……。」

◎五関突破(ごかんとっば

)5
しかもまだ行くての千山万水がいかなる艱苦(かんく)を待つか、歓びの日を設けているか?──それはなお未知数といわなければならない。

◎のら息子4
関羽「そうだ。心せねばならん。…何事も、もう一歩という手まえで、心もゆるみ、思わぬ邪(さまた)げも起るものだ。…」
◎古城窟(こじようくつ)4
関羽「おぬし(張飛)を生捕るためならば、もっと兵馬を引き具して来ねばなるまい。…」

◎兄弟再会5
関羽、張飛「人生の快、ここに尽くる」
玄徳「何でこれに尽きよう。これからである」
「これからだっ!これからだっ!」

それはすべて忍苦の賜だった。また、分散してもふたたび結ばんとする結束の力だった。その結束と忍苦の二つをよく成さしめたものは、玄徳を中心とする信義、それであった。

◎于吉仙人(うきつせんにん)5
呉の国家は、…浙江一帯の沿岸を持つばかりでなく、…いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和によって、…人の気風は軽敏で利に明るく、また進取的であった。

◎孫権(そんけん)立つ6
孫策「気をしっかり持てと。……それはおまえに云いのこすことだ。孫権、そんなことはないよ。おまえは内治の才がある。しかし江東の兵をひきいて、乾坤一擲を賭けるようなことは、おまえはわしには遠く及ばん。……だからそちは、父や兄が呉の国を建てた当初の艱難をわすれずに、よく賢人を用い有能の士をあげて、領土をまもり、百姓を愛し、…よく母に孝養せよ」

◎霹靂車(へきれきしゃ)6
田豊「かくの如く、内を虚にして、みだりにお逸(はや)りあっては、かならず大禍を招きます。むしろ官渡の兵を退かせ、防備をなさるこそ、最善の策と存じますが」

◎逆巻く黄河(さかまくこうが)6
──か、彼にとって、恐いのは行く先の敵地ではなく、留守中の本陣だった。

◎十面埋伏(じゅうめんまいふく)5
──敵、背水の陣を布(し)く!

◎泥魚(でいぎょ)4
関羽「むかし漢の高祖は、項羽と天下を争って、戦うごとに負けていましたが、九里山の一戦に勝って、遂に四百年の基礎をすえました。」
「勝敗は兵家のつね。人の成敗みな時ありです。……時来れば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。長い人生を処するには、得意な時にも得意に驕らず、絶望の淵にのぞんでも滅失に墜ちいらず、──そこに堂ぜず、出処進退、悠々たることが、難しいのではございますまいか」
「ごらんなさい…泥魚(でい)という魚。この魚は天然によく処世を心得ていて、旱天(ひでり)がつづき、河水が乾(ひ)あがると、あのように頭から尾まで、すべてを泥にくるんで、幾日でも転がったままでいる。…やがて侵云(しんしん)と、水が誘いにくれば、たちまち泥の皮をはいで、ちろちろと泳ぎだすのです。…泥魚と人生。──人間にも幾たびか泥魚の隠忍にならうべき時期があると思うのでございまする」

◎自壊闘争3
「これは胡桃(くるみ)の殻を手で叩いているようなものでしょう。外殻は何分にも堅固です。けれど中実(なかみ)は虫が蝕(く)っているようです。兄弟相争い、諸臣の心は分離している。やがてその変が現れるまで、ここは兵をひいて、悠々待つべきではありますまいか」

◎邯鄲(かんたん)3
曹操一流の令は、敗走の兵に蘇生の思いを与えて、ここでも大量な捕虜をえた。大河の軍勢は戦うごとに、一水また一水を加えて幅をひろげて行った。

◎野(や)に真人(しんじん)あり4
曹操「この河北には、どうして、かくも忠義な士が多いのか。思うに袁紹は、こういう真人(しんじん)を用いず、可惜(あたら)、野に追いやって、ついに国を失ってしまったのだ」

◎遼西(りょうせい)・遼東(りょうとう)3
郭嘉(かくか)は、遺書のうちに、「療東ハ兵ヲ用イズシテ攻ムベシ。動カザレハ即チ、座シテ袁二ノ首級オノズカラ到ラン」

◎食客(しょっかく)4
主は好んで客を養い、客は卑下なく大家に蟠踞(ばんきょ)して、共に天下を談じ、後日を期するところあらんとする。

◎檀渓(だんけい)を跳(と)ぶ4
ただ見る壇渓(だんけい)の偉観が前に横たわっている。断層をなした激流の見渡すかぎりは、白波天にみなぎり…岸に立つや否や、馬いななき衣は颯云(さつさつ)の霧に濡れた。
「ああ!我生きたり」

◎琴(こと)を弾(ひ)く高士(こうし)4
澄み暮れてゆく夕空の無辺は、天地の大と悠久を思わせる。白い星、淡い夕月──玄徳は黙々と広い野をひとりさまよってゆく。

激流に 淡い夕月 澄み渡り

◎吟嘯浪士(ぎんろうし)3
けれどその弱小も貧しさも嘆きはしなかった。ただ、絶えず心に求めてやまなかったものは「物」ではなく、「人物」であった。…明けても暮れても、人材を求めていたことは、その日の彼の歓び方をもっても察することができる。

◎軍師(ぐんし)の鞭(むち)3
単福「戦略の妙諦(みょうてい)、用兵のおもしろさ、勝ち難きを勝ち、成らざるを成す、すべてこういう場合にあります。人間生涯の貧苦、逆境、不時の難に当っても、道理は同じものでしょう。かならず克服し、かならず勝つと、まず信念しなさい。暴策を用いて自滅を急ぐのとは、その信念はちがうものです」

◎徐庶(じょしょ)とその母4
曹操「勝敗は兵家の常だ。──よろしい!」
「こんどの戦には、始終玄徳を扶けてきた従来の帷幕(いばく)のほかに、何者か、新たに彼を助けて、計(はかりごと)を授けていたような形跡はなかったか」

◎立つ鳥の声4
──君よ。いたずらなお嘆きをやめて、ぜひぜひこの人をお訪ねなさい。

◎諸葛氏一家(しょかつしいっか)6
──天に日月があるように、人の中にも日月がなければならないのに、そういう大きな人があらわれないから、小人同士が、人間の悪い性質ばかり出しあって、世の中を混乱させているのだ。──かわいそうなのは、何も知らないで果てしなく大陸をうろうろしている何億という百姓だ。

◎臥龍の岡(がりょうのおか)3
孝に眼をあけているつもりでも、忠には盲目(めいし)。

◎孔明を訪う5
治きわまれば乱を生じ、乱きわまるとき治に入ること…

◎雪千丈(ゆきせんじょう)5
居酒屋の前を通りながら、…張飛は、玄徳へいった。
「どうです、あの謡(うた)は。およそ彼の家庭も、あれで分るじゃありませんか。新妻にあきたらないので、孔明先生、時々よそへ、美しいのを見に行くのじゃありませんかな?」と、戯れた。

◎立春大吉(りっしゅんだいきち)3
─先生、どうか胸をひらいて、ご本心を語ってください。
 

22.三国志(五)赤壁の会戦
三国志(五)赤壁の巻


◎亡流(ぼうりゅう)5
死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の道です。多くの民を見捨てて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか

◎母子草(ははこぐさ)4
「ときに税務の処理は、片づいたか」
「税務より、もっと急がねばならないことがおありでしょう」

◎宝剣(ほうけん)3
趙雲「おれをさえぎるものはすべて生命を失うぞ」

◎長坂橋(ちょうはんきょう)4
真の勇士、真の良将を見れば、敵たることも忘れて、それを幕下に加えようとするのは、由来、曹操の病といっていいほどな持ち前である。

◎一帆呉へ下る(いちばんごへくだる)4
玄徳の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であったといえるであろう。

「わが運命もこれまで──」

「ああまだ天は玄徳を見捨て給わぬか」

◎舌戦(ぜっせん)5
みな自己の保身と安穏をさきに考えて、君のお立場も大事と考えていないからです。

あまり実際のところをお云いにならないほうがよいと思います。何分、文武の宿老は、事なかれ主義の人物が大半以上ですから。

◎火中の栗(かちゅうのくり)5
幼い者が手をつなぎあって、老いたる従者や継母などと一緒に、遠く山東の空から南へ流れ流れて来た頃の、あの時代のお互いのすがたや、惨風悲雨中にあった家庭の様が、瞬間、ふたりの胸には込み上げるように思い出されたにちがいない。

孫権は、目前と首を垂れていた。父母の墳(はか)にぬかずく以外には、まだ他人へ膝をかがめたことを知らない孫権である。──孔明はじっとその態を見つめていた。

「君!火中の栗をひろい給うなかれ!」

◎酔計二花(すいけいにか)6
辞句の驕慢はともかく、詩中にほのめかしてある喬家の二女に対する野望は見のがし難い辱めだ。断じて、曹賊のあくなき野望を懲らしめねばならん

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)…春秋時代、越との戦争に、父の仇を忘れないため薪の上に臥して身を苦しめ、遂に越王を討った。破れた越王は、苦い胆を嘗(な)めて、苦節二十年無念を晴らした

◎大号令5
曹操の首を断つ前に、まずわが迷妄から、かくのごとく斬るっ!

寡は衆に敵せず…多勢に無勢

◎殺地の客(さつちのきゃく)4
孔明はすぐさとった。これは周瑜が、敵の手をかりて、自分を害そうとする考えであるに違いない──と。
が彼は、欣然、
「承知しました」と、ことばをつがえて帰って行った。

◎狂瀾(きょうらん)3
「そうですな。では今日の御杯も、これくらいでお預けしておきましょう。いずれ、曹操を討ち破った上、あらためて祝賀のお喜びに出直すとして──」

◎群英の会(ぐんえいのかい)5
竹馬の友たりし頃の昔語りでもせんものと、お訪ねしてきたのに。

◎陣中戯言なし(じんちゅうぎげんなし)3
「十万の矢は、三日の間に、必ずつくり上げましょう」
「えっ、三日のうちに」
「そうです」
「陣中に虚言なし。よもお戯れでなあるまいな」
「何でかかることに、戯れをいいましょう」

◎覆面の船団(ふくめんのせんだん)3
すこしも智を慢じるふうは見えない。

◎風を呼ぶ杖4
いや笑えません。どうしてそれがしは、こう人の心を見るに鈍なのでしょう。むしろ己の不敏に哀れを催します

◎一竿翁(いちかんおう)3
しッ。……静かにされよ。……して、それをば、如何にして察しられたか

◎裏の裏2
魏いよいよ興り、呉ここに亡ぶ自然のめぐり合わせだろう

◎鳳雛(ほうすう)・巣を出(い)ず5
「火計一策です」
「えっ、火攻め。先生もそうお考えになられますか」
「連環の計といいます」

◎竹冠の友(ちつかんのとも)2
羽交い締めにしたまま、「──この声を忘れたか。この俺を見わすれたか」
「えっ、徐庶だと」

◎月烏賦(つきよがらすのうた)2
月は明らかに星稀なり
烏鵲(うじゃく)南へ飛ぶ
樹を廻ること三匝(そう)
枝の依るべきなし

◎鉄鎖の陣(てつさのじん)3
「あッ」
(周瑜)彼の体はその下に圧(お)しつぶされていたのだった。
「おおっ、血を吐かれた」

◎孔明・風を祈る4
曹公を破らんと欲すれば
宜しく火攻めを用うべし
万事ともに備う
只東風の欠くを

◎南風北春(なんぷうほくしゅん)1
これだから自分は、彼に油断をしなかったのだ。彼は決して、呉のために呉の陣地へ来ていたのではない。──ああ、やはり何としてでも殺しておけばよかった。彼の生きているうちは、夜も安らかに寝られん
 

周瑜
周瑜

三国志(五)

◎柳眉剣蠶(りゅうびけんさん)4
「ははあ。するとつまり彼を殺害するために、婚儀を行うわけですな」

◎鴛鴦陣(えんおうじん)4
争えないものは、人間と人間との接触による相互の感情である。ひと目見て、孫権以上、彼に傾注したのは母公であった。

◎朝の月2
「何たることだ」と、予想の逆転と、計(はかりごと)の齟齬に、鬱憤のやりばもなく、仮病をとなえて、一室のなかに耳をふさぎ眼を閉じていたのは呉候孫権だった。

◎凛々細腰の剣(りんりんさいようのけん)3
「遂に虎口に落ちた。最後へ来たな」

◎周瑜・気死す2
この呉にも、曹操の隠密がかなり入りこんでいますから、すでにわが君が玄徳と面白からぬ感情にあることは、はや許都の曹操にも知れておりましょう。

すべて外交のは苦節です隠忍です。玄徳に出世を与える。勿論、お嫌でたまらないでしょうが、その効果は大きい。

◎文武競春(ぶんぶきょうしゅん)4
これが驚かずにいられるか。玄徳は人中の龍だ。彼、平生に水を得ず、伸びんとして遂に伸び得ず、深く淵にいたものが、いま荊州を獲たとあっては、これ龍が、水に会うて遂に大海に出たようなもの……豈、驚かずにいられよう

◎荊州往来
ああ、無念っ……無情や人生。皮肉なることよ宿命……。天すでに、この周瑜を地上に生ませ給いながら、何故また、孔明を地に生じ給えるや!

◎鳳雛去る3
あははは。曹操につくといったのは戯れだよ。ちょっと君の心を量ってみたまでさ。

2013.9.13上海にて

23.三国志(六) 望蜀(ぼうしょく)の巻(つづき)趙雲
趙雲

◎酔県令(すいけんれい)2
やる気になれば造作はない。政事(まつりごと)は事務ではないよ。簡単なるほどよろしいのだ。民の善性を昴(たか)め、邪性を圧(おさ)える。圧えるではまだまずい。ほとんど、邪悪の性(さが)を忘れしめる。どうじゃ、それでよろしいのじゃろう

◎馬騰(ばとう)と一族3
たれがそんな罠にかかるか

◎不倶戴天(ふぐたいてん)3
功を立てたら宥(ゆる)してやろう

◎渭水(いすい)を挟(はさ)んで5
戦うも、戦わぬも、みなその腹一つにあることで、何も敵の心にあるわけじゃない

◎火水木金土4
守って出るな

◎敵中作敵3
君ト予トハ元ヨリ仇デハナク、君ノ厳父ハ…
旧友トシテ来リ給エ。

◎兵学談義(へいがくだんぎ)3
画竜点睛を欠く

いやいや、あれはわざと、味方の弱味を過大に見せ、敵を驕り誇らせるためと、…ことさらに、悠長と見せて彼を苛立たせたまでのこと

戦前の作戦は、大事をとるから、ただ負けない主義になりやすい。それがいざ戦に入ると疾風迅雷を要してくる。

◎蜀人(しょくじん)・張松(ちょうしょう)3
近年、漢中の土民のあいだを、一種の道教が風靡していた。
五斗米教。

アジアの屋根、パミール高原…岷江、金沱江、ふ江、嘉りょう江などにわかれては、またひとつ揚子江の大動脈へ注いでくる。
四川の名は、それに起因する。

◎孟徳新書(もうとくしんしょ)2
ただ取得(とりえ)は、覇道強権を徹底的にやりきる信念だけである…病的な独善がある

◎西蜀四十一州図4
人と人の応接は、要するに鏡のようなものである。驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。人の無礼に怒るのは、自分への反映へ怒っているようなものといえよう。

爛熟を呈し、人は驕り、役人は賄賂を好み、総じて唯物的風潮がみなぎっている。…事大主義で恫喝的で…将来久しからずして、彼曹操かならず漢朝に大きな禍いをするでしょう。

◎進軍2
君、知り給わずや。当時玄徳といえば、曹操だも恐るる人物。

無用無用。わが君。張松の弁舌にうごかさ給うな

◎鴻門の会に非ず3
しかし、この夜の宴は、失敗に似て、かえって成功だった。劉しょうはいよいよ玄徳に信頼の念を深めた。

◎珠(たま)4
「おういっツ。待て」

統(ほうとう)
統(ほうとう)

三国志(六)図南の巻

◎日輪4
どんな英雄でも、年齢と境遇の推移とともに、人間のもつ平均的な弱点へひとしく落ちてしまうのは是非ないものとみえる。

◎上・中・下2
策は三つあります。
一策は、今からすぐ昼夜兼行で道をいそぎ、有無なく成都を急襲する。このこと必ず成就します。故にこれを上策とします。

第二は、いま詐(いつわ)って、荊州へ還ると触れ、陣地の兵をまとめにかかる。…そのときこの蜀の名將二人を一席に殺して、たちまち兵馬を蜀中へ向け、一挙、…を占領してしまう。これは中策と考えられます。

む、む。もう一計は

ひとまず、兵を退いて、白帝城にいたり、荊州の守備を強固となし、心しずかに、次の段階を慮(おもんばか)ることこれです。……が、これは下策に過ぎません。

◎酒中別人(しゅちゅうべつじん)2
龍統「──人の国を奪って、楽しみとするは、仁者の兵にあらず、あなたらしくもありませんな」

黄忠(こうちゅう)

 

黄忠(こうちゅう)

​三国志(六)2

◎魏延(ぎえん)と黄忠(こうちゅう)4
外敵に当るまえに、まず心中の敵を退治するのが肝要。いざ、迷わずに

「そいつは、油断がならぬ。ぐずぐすしていると、黄忠にだし抜かれよう」

「黄忠ここにあり、怯(ひる)むなかれ魏延」

◎短髪壮士(たんぱつそうし)2
真の国力は、その国に事が起ってみないと分からない

◎落鳳坡(らくほうは)3
おそらく、こんな険しい山道は、蜀のほかにはあるまい。ここはそも、何という地名の所か

◎破軍星(はぐんせい)2
北ハ曹操ヲ拒(ふせ)ギ、東ハ孫権ト和ス。お忘れあるな

◎草を刈る2
百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。人生、いつの場合も同じである。

◎金雁橋(きんがんきょう)5
功を急いで、足もとを浮かしてはなりません。

馬超(ばちょう)
馬超(ばちょう)

三国志(六)3

◎西涼(せいりょう)ふたたび燃ゆ3
忽然と、蒙古高原にあらわれて、胡夷(えびす)の猛兵をしたがえ、隴西(ろうせい)(甘粛省)の州郡をたちまち伐(き)り奪って、日に日に旗を増している一軍があった。

「父の仇、曹操を亡くさぬうちは」

◎馬超(ばちょう)と張飛6
俗に、傍目八目(おかめはちもく)というではありませんか。第三者として傍観しておれば、孔明軍師がきょうまでのあいだに、漢中の張魯にたいして、どんな手立てを打っておるかは、楽屋から舞台を覗いているようによくわかるものです。

◎成都陥落4
玄徳は、仁義にあつく、徳は四海に及び、賢を敬い、士をよく用いる

趙雲「むかし秦の良臣は、匈奴(きょうど)の滅びざるうちは家を造らず、…蜀外一歩出れば、まだ凶乱を嘯(うそぶ)く徒、諸州にみちている今です。何ぞわれら武門、いささかの功に安んじて、今、田宅をもとめましょうか。天下の事ことごとく定まる後、初めて郷土に一炉を持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽しみ、また本望でなければなりません」

孔明「民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚なる政治はない」

孔明はなおいった。
「民に、恩を知らしめるは、政治の要諦であるが、恩になれるときは、民心が慢じてくる。民に慢心放縦の癖がついた時、これを正そうとして法令をにわかにすれば、弾圧を感じ、苛酷を誹(そし)り、上意下意、相もつれてやまず、すなわち相剋(そうこく)して国はみだれだす。──いま戦乱のあと、…峻厳な法律を立てるのは、仁者の政でないようであるが、事実は反対であろう。すなわち、今ならば、どんな規律に服しても、安心して生業を楽しめれば有難いという自覚を持っているし、…むしろ安泰感を盛んにする。これ、民が恩を知るというものである。──家に慈母があっても、厳父なく、家の衰えみだれるを見る子は悲しむ。家に厳父あって、慈母は陰にひそみ、わがままや放埒ができなくとも、家訓よく行われ、家栄えるときは、その子らみな楽しむ。……一国の政法も、一家の家訓も、まず似たようなものではあるまいか」

◎臨江亭会談(りんこうていかいだん)4
交渉、ここに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。

◎冬葉啾々(とうようしゅうしゅう)3
彼がこうして少し、善政を布(し)くと、すぐにそれを誇大にたたえて、お太鼓をたたく連中もでてくる。
軽薄輩で「曹丞相はもう魏王の位に即かるべきだ」

視る目嗅ぐ鼻

天もかなしむか、曇暗許都の昼を閉じ、枯葉の啾々(しゅうしゅう)と御林に哭いて、幾日も幾日も賀門の冷霜は解けなかった。

◎漢中併呑(へいどん)4
おれには、もっと大きな恩爵(おんしゃく)が、やがて沙汰されるにちがいない

◎剣と戟(ほこ)と楯(たて)2
すわ、大事と見たので、呂蒙(りょもう)が楯を持って、ふたりの間へ飛びこんだ。そして巧みに、戟の舞と、剣(つるぎ)の舞を、あしらいつつ、舞い廻(めぐ)り、ようやく事なくその場を収めた。
 

黄蓋(こうがい)
黄蓋(こうがい)


周瑜に赤壁の戦い進言した武将
























 

張遼(ちょうりょう)
張遼(ちょうりょう)

三国志(六)4

◎遼来々(りょうらいらい)2
「われに当る者あらん」
といよいよ勝ち驕(おご)って前進を続けていた。

思い合せれば、勝ち軍(いくさ)が、すでに今日の敗因を醸していたものです。部下の端までが、あまりに勝ちに驕って、敵を甘く見くびり過ぎた結果でしょう。

◎鵞毛(がもう)の兵2
さては曹操も、焦燥(あせり)立って、総攻撃にかかってきたな

◎休戦2
曹操は百戦錬磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に陥る。

◎柑子(こうじ)と牡丹(ぼたん)3
「およそ、媚(こ)びへつらう輩ほど、主を害するものはない。むかしから君を亡ぼす者は、敵ではなくて──」
「何だと」

◎藤花(とうか)の冠(かんむり)2
この日、太陽は妙に白っぽく、雲は酔人の眼のように、赤い無数の虹を帯びていた。

◎神卜(しんぼく)3
それは、大王のお眼鏡のほうが、はるかに確かでおいででしょう。

◎正月十五夜2
しかるに何ぞや、いま黙って聞いていれば、魏王がやがて漢朝の代を獲ることも近いであろうから、そのときには、よき官職に取り立ててくれと?……よくそんなことか漢朝の臣としていえたものだ。

◎御林(ぎょりん)の火3
こういう時は、根を刈らねばならん。およそ漢朝の旧臣と名のつく輩は、その位官高下を問わず、人束にして、業都へ送りよこせ

◎陣前公用(じんぜんこうよう)の美酒(びしゅ)4
たしかに張飛と思ったのは、人に非ず草であった。

◎敗將3
三軍は得やすく、一將は求め難し

◎老將の功5
黄忠は笑って「これは、わしが驕兵の計じゃ。今宵の一戦に、見事敵を叩きのめすであろう」

夏候淵(かこうえん)
夏候淵(かこうえん)


三国志(六)5

◎絶妙好辞(ぜつみょうこうじ)3
夏候淵は性急の上に剛直ですから、おそらく敵の計略にかかって痛い目に逢うに違いありません。おやめになったほうがよろしいでしょう。

と諫めたが、曹操は取り上げず、…

◎一股傷折(いっこしょうせつ)2
黄忠もこの一戦を乾坤(けんこん)と思っていた。
眦(まなじり)を決して陣頭に馬首を立て、奮迅の勢いをもって進めば、魏の兵、乱れて打ちかかるものもなく、大刀一閃、夏候淵が手もとにおどりかかって、首から肩にかけて真二つに斬って落した。

◎趙子龍(ちょうしりゅう)3
魏の人馬は、嘘のように、バタバタ倒れた。曹操は肝を冷やして逃げ出した。

◎次男曹彰(じなんそうしょう)3
ところが、魏が軍を退くと、果然、蜀は攻勢に転じてきた。どうも事ごとに、曹操は、自分の智慧と戦ってその智に敗れているかたちだった。

◎鶏肋(けいろく)4
ああ、儚い哉

◎漢中王に昇る3
関羽「なぜかって、犬ころの子に、虎の娘を誰がやるかっ」

細い刀背(みね)から鍔(つば)にかけて、微かに雪がつもるほど動かずに

「三国志平話」などは、正統な学問をした者の読むべきものではないとされていた当時のこと、著者が名を出すことは絶対になかった。

千数百年の戦乱の中国大陸に生命を燃焼させた人びとを、現代に見事によみがえらせたのであった。

張こう
張こう


​夏候淵
「只今、魏王、予に命じて、敵を討たしめんとす。…明日、みずから出でて、思うさま戦い、まず黄忠を生捕って見しょう」

張こうはこれを危なかしく聞き、
「どうぞ軽々しく出撃さらぬよう。黄忠は智勇ともに備え、加うるに法正と申すは、戦略にたけたる者、この地は幸いにして要害堅固なのですから、すすまずに、堅く守られるのが賢明と存じます」





 

24.三国志(七) 図南の巻 (つづき)
ウ徳(ほうとく)

ホウ徳(ほうとく)


◎烽火台(のろしだい)4
要するに、曹操の肚では、何よりも玄徳と孫権との提携をおそれていたのである。

関羽「人間五十に達すれば、吉夢もなし、凶夢もなし。ただ清節と死所にたいして、いささか煩悩を余すのみ」と、いって笑った。

けれどこの勝利に酔っては危険です。いくら魏に打ち勝ってもです。──なぜならば呉と言うものありますからな。

「つなぎ烽火」の制は、日本の戦国時代にも用いられていたらしい。年々やまぬ越後上杉の進出に備えて、善光寺平野から甲府までのあいだを、その烽火電報によって、短時間のまに急報をうけとっていたという川中島戦下の武田家の兵制などは、その一例

「着々、工事は進んでいます。──あとは人の問題ですが」

かえって平時の油断を招き、不時の禍いを招く因(もと)とならぬ限りではありませんからな。

◎生きて出る柩(ひつぎ)3
宇禁「概すでに敵を呑む将軍の意気は大いによろしいが、魏王の戒めも忘れ給うな。中道によく敵を見て戦われよ」と、忠告した。
ホウ徳「三軍すでに征旅に立つ。何の顧(かえり)みやあらん。関羽関羽と、まるで呪符(じゅふ)のように唱えるが、彼とても鬼神ではあるまい」

◎関平(かんぺい) 3
その姿が関羽の前にぴたと止ると、魏の陣も蜀の陣も、水を打ったようにひそまり返ってしまった。
まずは 徳が大音をあげた。
「われはこれ、天子の詔(しょう)をうけ、魏の直命を奉じて、汝を征伐に来た者である。」
関羽は苦笑してそれに答えた。
「やよ 徳、はや棺桶をここへ運ばせずや」
「なにをっ」

◎七軍漁鼈(ぐんぎょべつ)となる4
関羽は激怒して、
「よろしい。汝の望み通り、汝の用意した柩を役立たせてやる。坐れッ」
と大喝した。
ホウ徳は黙って、地に坐った。その首を前へのばすや否や、戛然(かつぜん)、剣は彼の頸(うなじ)を断った。

曹仁「正直にいう。自分は一時のまちがった考えにいま恥じておる。国家の厚恩をうけ、…慚愧にたえない。」

魏の急援七軍の大半以上を、ことごとく漁鼈(ぎょべつ)の餌として、勢い八荒に震い、彼の名は、泣く子も黙るという諺のとおり天下にひびいた。
 

陸遜(りくそん)
陸遜(りくそん)

三国志(七) 出師の巻

◎骨を削る2
医に国境なし。ただ仁に仕えるのみです。

◎建業会議1
要するに、関羽が油断しないのは、陸口の堺に、あなたのような呉でも随一といわれる将軍が虎視眈々と控えておるからです。

◎呂蒙(りょもう)と陸遜(りくそん)2
機は熟した。陸遜と協力して、荊州を攻め取れ。すぐ、発向せい。

◎笠1
とりわけまずいのは、国内を守る人物に人を得てしなかった点である。




















呂蒙(りょもう)

呂蒙(りょもう)

三国志(七)出師の巻2

◎荊州変貌3
呉はすでに荊州を破る。魏はなぜこの機会をつかんで関羽を討たないのか。

◎鬢糸(びんし)の雪2
ばかな!陸口の将は小児、烽火台(のろしだい)の備えもあるし、荊州の、守りは泰山の安きにある。そちまでが敵の流言に乗せられてどうするか

◎月落つ麦城(ばくじょう)
ああ、われはとうてい、呂蒙の遠謀には及ばない。今思うに、すべて呂蒙の遠い慮(おもんばか)りであった。荊州の民をも、それまで帰服せしめてしまうとは、恐るべき人物……

◎蜀山遠し4
何の宿命かこの国の大陸には数千年のあいだ半世紀といえど戦乱の絶無だったということはない。

この大将星が燿(よう)として麦城の草に落命するのを境として、三国の大戦史は、これまでを前三国志と呼ぶべく、これから先を後三国志といってよかろうと思う。「後三国志」こそは、玄徳の遺孤(いこ)を奉じて、五丈原頭に倒れる日まで忠涙義血に生涯した諸葛孔明が中心となるのである。

常に同根同生の戦乱や権変に禍いさるる華民の友国に寄する理解と関心の一資ともしていただきたい。

◎草喰わぬ馬2
思いあがるを止めよ、碧眼(へきがん)の小児、紫髯(しぜん)の鼠輩(そはい)。まず聞け、真(まこと)の将のことばを

「斬れっ。斬るのだっ。──それっ関羽を押し出せ」

曹否(そうひ)

 

曹否(そうひ)

三国志(七)出師の巻3

◎国葬2
曹操から奉請した勅使が立って、地下の関羽へ、
「荊王(けいおう)の位を贈り給う」
と、贈位の沙汰まであった。

◎成都鳴動(せいとめいどう)2
孔明「時を待つべきです。──この上はしばらく兵を収めてじっと時の移りを観、呉と魏のあいだに、何らかの不和を醸(かも)し、両者が争いの端を発したとき、蜀は初めて起つべきでしょう。それまではご無念も胸に畳んでおかれますように……」

◎梨の木2
いや、真っ白な衣を着た怪神が、梨の精だと名乗って、幾度も予の胸を圧した。探してみろ

◎曹操死す2
「…長男の曹否(そうひ)を立てて長久の計をはかれよ。よろしいか」
おごそかに、こういうと、曹操はその瞬間に六十六年の生涯を一望に回顧したのであろう、涙雨のごとく頬をぬらし、一族群臣の嗚咽する眸(ひとみ)の中に、忽然と最期の息を終わった。

◎武祖(ぶそ)3
曹操の死は天下の春を一時寂闇(せきあん)した。ひとり魏一国だけでなく、蜀、呉の人々の胸へも語らず、人間は遂に誰であろうとまぬかれ難い天下の下にあることを、今さらのように深く内省させた。

余りに偉大な父をもち、余りに巨(おお)きな遺業を残された子は、骨肉の悲しみと共に、一時は為す術も知らなかったであろう。

◎七歩の詩2
植は哀吟した。
豆ヲ煮ルニ豆ノ豆ガラヲ燃(タ)ク
豆ハ釜中(フチュウ)ニ在って泣ク
本是(コ)レ同根ヨリ生ジルヲ
相煎(アイニ)ルコト何ゾ太(ハナハ)ダ急ナル
「……………」
さすがの曹否もついに涙を流し、群臣もみな泣いた。

◎私情を斬る3
曹否は、孟達を試すには適当な一戦と思ったので、
「…試みに、足下はまず同地の味方に加勢して、劉封の首をこれへ持って来給え。ご辺を如何に待遇するかは、その上でまた考えるから」

◎改元4
麒麟の出現も、鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと、遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。

それのはっきりしている上層中流の人士でもかつての自国の歴史に徴して、その時代時代に適応した解釈を下し、自分たちの人為をすべて天象や瑞兆(ずいちょう)のせいにして、いわゆる機運を醸し、工作を運ぶという風であった。

骨のある人物というものは全くいなかった。
滔々(とうとう)として、魏の権勢に媚び、震い怖れ、朝臣でありながら、魏の鼻息のみうかがっているような者のみが残っていた。

たとえ欲しくてたまらないものでもすぐ手を出してはいけない。何事にも、いわゆる再三謙辞して、而(しこ)うして受く、…

◎蜀また倣(なら)う3
「いったいどういう病か」
「心の煩(わずら)いです。肉体には病はないつもりです」
「心の病とは」
「ただご賢察ねがうほかありません」

◎桃園終春(とうえんしゅうしゅん)2
ふたりの怪漢が忍びこんで、やや久しく張内の壁にへばりついていた。笵疆(はんきょう)、張達(ちょうたつ)の兄弟だった。張飛の寝息を充分にうかがいすまし、懐中(ふところ)の短剣をぎらりと持つや否、
「うぬ!」
と一声、やにわに寝姿へおどりかかって張飛の寝首を掻(か)いてしまった。

◎雁(かり)のみだれ3
「あっ?張飛が!」
ぐらぐらと眩(めま)いを覚えたらしく、あやうく昏絶(こんぜつ)しそうになった額を抑えて、その後、
「ううむ………」
と、ただ唸(うめ)いていた。

貂蝉
貂蝉


貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の 女性。実在の人物ではないが楊貴妃・西施・王昭君と並び、古 代中国四大美人の一人に数えられる。

『三国志演義』第八回から登場。朝廷を牛耳り、洛陽から長 安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王 允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使 い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てた。

王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせる。次 に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してし まう。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえな い」と言い繕い、その場を円く納めた。その後、呂布と貂蝉が 度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をす る。2人が密会していることに董卓はいったん怒ったが、腹臣 の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言う。だが、 一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」 と泣きつき、董卓の下を動こうとしない。それに怒った呂布が 王允と結託し、董卓を殺害した。2人の間に貂蝉を置き(美人 計)、貂蝉を巡る両者の感情を利用し2人の関係に弱点を作 り、そこを突く(離間計)、これが「美女連環の計」である (「連環の計」は二つあり、赤壁の戦いにおいても、船同士を 環(鎖)を連ねて動けなくするという、文字通りの計略が見ら れ、それと区別するため「美女連環の計」と言う)。

董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となったが子ができなかった。 (第十六回)下 の攻防戦では、陳宮に掎角の勢を進言されこ れに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めて いる。下 陥落後の貂蝉については記述がない。

中国においては、史書『三国志』の「呂布が董卓の侍女と密通 し、発覚をおそれて王允に相談したが、董卓打倒を考えていた 王允はこの際、董卓を討てと進言し呂布はそれを実行した」を 引き、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語 において架空の名前をつけたとする説がある。

民間伝承では貂蝉はひどく不美人で、王允が華佗にそのことを 打ち明けたところ、華佗は首を西施のものと取替え、それでも 度胸がなく行動に移せないのを嘆いたところ、今度は肝を荊 軻のものと取り替えたという話がある。 元代の雑劇『錦雲堂 美女連環計』では姓を任、名を紅昌、小字を貂蝉と設定してい る。 その後の展開としては、貂蝉を巡り曹操と関羽が争うが曹操が降りて関羽に譲る、または関羽が心の動揺を鎮めるため貂蝉を斬ってしまう、など作品によって異同が見られる。

日本国内で広く知られる吉川英治の小説、それを元にした横山 光輝の漫画『三国志』では連環の計を遂げた貂蝉が自害して果てるという翻案がなされている。その他の『三国志演義』を題材にした創作作品では、悪女・忠女・戦う女傑など多様な創作を交えて描かれている。

貂蝉
貂蝉に密会しようとして董卓に追い返される呂布
 














 
張昭(ちょうしょう)
張昭(ちょうしょう)


三国志(七)出師の巻4

◎呉の外交4
孫権「いやいや、慾には飽くことを知らないのが人間だ。先に取ってはさほど過大とは思わないだろう。要するに、彼とは利を以て結ぶしかない。だが後には、あんな礼物はみな石瓦に過ぎんさ」
「なるほど」
張昭は急に顔を解いてうれしそうにうなずいた。

◎この一戦2
「王、さまで御心をいためることはありません。呉建国以来の名将はすでに世を辞して幾人もありませんが、なお用うべき良将は十人余人ありましょう。まず甘寧(かんねい)をお招きなさい」
宿老張昭は励ました。

◎冬将軍2
黄忠「否とよ陛下。……陛下のような高徳の御方のそばに、七十五歳のこの年まで、久しくお仕えすることができたのは、実に人と生れた冥加(みょうが)この上もありません。この命、なんで惜しむに足らん。ただ、隆体を守らせ給え」
いい終ると、忽然、息が絶えた。

◎慰霊大望(いれいたいぼう)2
見るも浅ましき人非人ども、なんの面目あってこれへ来たか。ひとたび窮すれば、関羽を売り、ふたたび窮すれば、呉を裏切って馬忠の首を…その心事の醜悪、行為の卑劣、犬畜生というもなお足らぬ…──関興関興、この仇二人は汝に授ける。

◎一書生3
蜀の玄徳ともある者が目に見えるだけの布陣を以て、身を呉の陣前にさらすわけはない。──浅慮(あさはか)に彼の罠へ士卒を投じるの愚をなすな。…われ出でず戦わず、ひたすら陣を守って日を移しておるならば、…乞う、涼風(すずかぜ)を懐中(ふところ)に入れて、敵の盲動と挑戦を、ただ笑って見物して居給え

◎白帝城(はくていじょう)5
そこの谷間、先の山陰などに、陰々たる殺気がある

何たる惰弱さ

もう我慢ができない

◎石兵八陣(せきへいはちじん)2
陸孫「獲物を追う猟師山を見ず、陸孫たる者が、これまで深入りして来たのは大なる過ちであった。そうだ、わが軍はこれ以上進むべきではない」

◎孔明を呼ぶ2
勝ち驕っている呉の大将たちは、陸孫に向かって、「…」

陸孫は、「…それは今日明日のうちに事実となって諸公にも分かってくるだろう」

◎遺孤(いこ)を託す2
「すでに命(めい)のせまるを覚ゆ。一々汝らに言を付嘱(ふしょく)することを得ない。それみな一致して社稷(しゃしょく)を扶け、おのおの保愛せよ」
云い終ると、忽然、崩じた。ときに寿齢六十三歳。

◎魚紋4
そしてこうして、日々池の生態をながめ、波紋の虚と、魚游の実とを、この世の様に見立てて思案しているうちに今日ふと、一案を思い浮かべました。……陛下、もうお案じ遊ばされますな

◎蜀呉修交(しょくごしゅうこう)3
要するに、陸孫の献策は。
一つには魏の求めに逆らわず、二つには蜀との宿怨(しゅくえん)を結ばず、三つにはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従う。

「…この身は自ら命を絶ってその偽りでないことを証明してお目にかけます」

「やあ、待ち給えっ、先生」

俄然、孫権は態度をかえた。

◎建艦総力2
龍骨の長さ二十余丈、兵二千余人をのせることができる。これを龍艦と呼び、十数隻の浸水を終ると、…他の艦艇三千余艘を加えて、さながら「浮かべる長城」のごとく呉へ下った。

◎淮河(わいが)の水上戦2
「蜀の大将趙雲が、陽平関から出て、長駆わが長安を攻めてきました」

「見方か?」「失火か?」

たちまち、左岸右岸、前方も湖も、一瞬に火の海となった。

25.三国志(八)
三国志(八):最終巻

三国志(八)五丈原の巻1

◎中原(ちゅうげん)を指して6
趙雲「ああわれ老いに服せず、天ついに、ここに死を下し給うか」
そしてさし昇る月を仰いで独り哭(な)いた。
「敵か」
「おおいッ。張苞(ちょうほう)ではないか」

孔明は…物馴れた人物を選んで、偽使者を仕立て、これに何やら言いふくめた。

「何事か」

「早くも、敵か」

「やあ? あの旗は」

「しまった」

「心を以て心を読む。…」

「総じて、敵がわれを謀(はか)らんとするときは、わが計略は行いやすい」

◎美丈夫姜維(きょうい)6
さすがに古豪趙子龍も敵(かな)わじと思ったか、ふいに後ろを見せて逃げてしまった。

「見事、失敗しました。負けるのもこれくらい見事に負けると、むしろ快然たるものがあります」

「戦うな。わが備えはすでに破れた。ただ兵の損傷を極力少なくとどめて退却せよ」

戦えば必ず勝つ孔明も、ここに初めて、敗戦を知った。一方的勝利のみを克ち獲ていたのでは、真の戦争観もそれに奮う力も生じてこない。

一方、本物の姜維は、依然冀城(きじょう)にたてこもって、孔明の軍に囲まれていた。

◎祁山(きざん)の野(や)4
王朗「──ご辺もまた、玄徳の偽善にまどわされ、その過(あやま)れる覇道にならって、自己の大才を歪め…孔明、心をしずめてこれに答えよ」

「申されたり王朗。足下の弁やまことによし。しかしその論旨は自己撞着(どうちゃく)と欺瞞(ぎまん)に過ぎない、聞くにたえない詭弁である」

王朗…そのうちに一声、うーむと呻くと、馬の上からまろび落ちて遂に、そのまま、息絶えてしまった。

◎西部第二戦線4
「はてな?……。待て待て。深入りするな」

「琴の音だ?……。琴の音がする」

今しそこから慌てて南の門へ逃げ出してゆく一輛の四輪車がある。
「いやまて、愈々、いぶかしいぞ」

「やるなっ」

ただこの丘と彼方の平野とのあいだが、帯のような狭い沢になっている。…雪しぶきをあげ、ごうッと、凄まじい一瞬の音響とともに、その影が見えなくなった。
「あっ、陥ちたっ」
「陥(おと)し穴だ」

「蜀皇帝こそ大漢の正統である。われは勅をうけて、魏を討つといえども、決して羌国(きょうこく)に対して、何らの野心もあるものではない。汝らは、魏にだまされたのだ。立ち帰って羌国王によく伝えるがよい」

◎鶏家全慶(けいかぜんけい)3
「その人とはほかならぬかの司馬懿仲達であります」

司馬仲達の急ぎに急いでいた理由は、果たせるかな、孔明がおそれつつも予察していたところと、まったく合致していたのである。

◎洛陽に生色(せいしょく)還る
「反賊、運のつきだぞ」
「こころよく天誅(てんちゅう)をうけろ」

孟達は仰天して、
「人ちがいするな」
「汝こそ、戸まどいして、これに帰って来る愚を醒ませ。あれみろ、城頭高くひるがえっているのは、蜀の旗か、魏の旗か、冥途(めいど)のみやげによく見てゆけ」

私の読書メモH25年IV 三国志(八)2

木牛流馬


三国志(八)3

◎竃(かまど)2
司馬懿「──相手がほかの者では恥になるが、孔明の知略にかかるのはじぶんだって仕方がない。彼の智謀は元来自分などの及ぶところではないのだから」

◎麦青む(むぎあおむ)2
孔明は舌打ち鳴らして、
「あれほど蜜に祁山(きざん)を出てきたが、彼は我の麦を刈らんことを量り知ったか。──さもあらば仲達にも不敗の構えあることであろう。我とて世のつねの気ぐみではそれに打ち勝てまい」

◎北斗七星旗(ほくとしちせいき)3
北斗七星の旗と、火焔の如き騎馬の大将があらわれて、真先に進んでくる。
「や、や。ここにもまた孔明がいる」
「奇怪だ。これは実に不思議極まる」
「退けや、退けや」

◎木門道(もくもんどう)3
「将軍、帰り給え。将軍、引っ返し給え」
「卑怯者っ。恥知らず、最善の口をわすれたか」
「あっ、将軍」

「や、や。さては」
性火の如しといわれていた張こうは、遂に炎の中に身を焼いてしまった。

◎具眼(ぐがん)の士4
「内は揚儀、外は魏延か。ははは」
と、孫権は意味ありげに打ち笑って。
「自分はまだ、揚儀、魏延の人物を見ていないが、多年の行状で聞き知る所、いずれも蜀を負うほどの人物ではなさそうだ。どうして孔明ほどな人が、そんな小人輩を用いるのか」

◎木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)3
「いや、そのことなら、近いうちに解決する。心配すな」
(ここ1ヵ月も前から何を工事しておられるのか?)
何が製産されていたかといえば、孔明の考案にかかる「木牛」「流馬」とよぶ二種の輸送機であった。

◎ネジ3
それにひきかえて、蜀の運気はとかく揮(ふる)わず、孔明の神謀も、必殺の作戦も、些細なことからいつも食いちがって、大概の功は収め得ても、決定的な致命を魏に与え得なかったというのは、何としても、すでに人智人力以外の、何ものかの運行に依るものであるとしか考えられない。

司馬懿「これは、よくよく考えると、孔明の計に乗るというよりは、毎度、自分の心に惑って、自ら計を作っては、その計に乗っているようなものだ。孔明に致されまいとするなら、まず自らの心に変化や惑いを生じないように努めるに限る」

「そうか。よくこそ」
…けれど彼の心中には、拭いきれない一抹のさびしさがあった。
(ああ、関羽なし、張飛なし、また幾多の旧幕僚もいつか減じて、ようやく、蜀中人はいなくなった)

◎豆を巻く2
自国の苦しいときには敵国もまた自国と同じ程度に、或いはより以上、苦しい局面にあるという観察は、たいがいな場合まず過りのないものである。

いよいよ守るを主として、必ず自ら動いて戦うなかれ

見るとなるほど、諸軍の兵は、陣外を耕して、豆など蒔いているし、当の陸孫は、轅門(えんもん)のほとりで、諸大将と碁を囲んでいた。
「これは平和な風景だ」

秋風五丈原

三国志(八)4

◎七盞道(しちさんとう)3
馬岱に
「やがて戦端が開かれたら、谷を囲む南の一峰に、昼は七星旗を立て、夜は七盞(さん)の燈火(ともしび)を明々と掲げよ、司馬懿を引き入れる秘策ゆえ、切に怠らぬようにいたせ。汝の忠義を知ればこそ、かかる大役も申しつけるのだ。我が信を過(あやま)たすなよ」

◎水火4
「──出て戦えば、勝たぬ日はない」

(昼は、七星の旗、夜は七盞(さん)の燈火(ともしび)の見える方へ──)

「──事ヲ謀ルハ人ニアリ。事ヲ成スハ天ニアリ、ついに長蛇(ちょうだ)を逸せり哉。ああ、ぜひもない哉(かな)」
と、天を仰いで、痛涙に暮れていた人がいる。いうまでもなく、孔明その人である。
彼が、司馬懿父子を捕捉して、きょうこそと、必殺を期していた計も、心なき大雨のために、万谷(ばんこく)の火は一瞬に消え、まったく水泡に帰してしまった。

◎女衣巾膕(にょいきんかく)4
「孔明はよく眠るかの」

「孔明の命は久しくあるまい。あの劇務と心労に煩わされながら、微量な食物しか摂(と)っていないところを見ると、或いはもういくぶん弱っているのかも知れない」

◎銀河の祷り3
「蜀の陣上には、一抹、何やら淋しきものが見える」

─旦(アシタ)ヲ待チテハ、次ノ日マタ、病ヲ扶(タス)ケラレテ、時務ヲ治ム。為ニ、日々血ヲ吐イテ止マズ。死シテハマタ甦(ヨミガ)エル。

◎秋風五丈原(しゅうふうごじょうげん)4
姜維に「後事の多くは汝に託しておくぞよ。…」

揚儀に対しては、
「魏延は、後にかならず、謀反するであろう。…」

◎死せる孔明、生ける仲達を走らす4
「いつもは、大事に大事をとられるお父上が、今度は何でこう急なんですか」
「あたり前なことを問うな。魂(こん)落ちて、五臓みな損じた人間は、どんなことがあっても、再び生きてわが前に立つことはない、孔明のいない蜀軍は、これを踏みつぶすも、これを生捕るも、これを斬るも、自由自在だ。こんな痛快なことはない」

「司馬懿、何とて逃げるか。反賊仲達、その首をさずけよ」
蜀の姜維(きょうい)は、やにわに槍をすぐって、孔明の車の側から征矢(そや)の如く追ってきた。
──孔明は生きている!
──孔明なお在り!

◎松に古今の色無し2
──魏延、叛(はん)を現わし、その逆を伐つ日まではこれを開いて秘力を散ずるなかれ。

篇外余録

◎諸葛菜(しょかつさい)7
曹操という者の性格には、いかにも東洋的英傑の代表的な一塑像(そぞう)を見るようなものがある。

ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪の跡を叙(じょ)したものというのもさしつかえない。

この二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は文豪といえると思う。

彼がいかに平凡を愛したかは、その簡素な生活にも見ることができる。

やはり枯れの真の知己は、無名の民衆にあったといえよう。

中国の帝立や王室の交代は、王道を理想とするものではあるが、その歴史も示す如く、常に覇道と覇道との興亡を以てくり返されているからである。

◎後蜀三十年
「死してもなお死せざる孔明の護り」

◎魏から──晋(しん)まで
司馬懿仲達…息子・司馬師…弟・昭…その子・炎(えん)が
魏は元帝の代に入っていたが、
…炎は、この元帝を退位させて、自ら皇帝となり、新国家の創立を宣した。
これが、晋(しん)の武帝である。
かくて、魏は、曹操以来五世、四十六年目で亡んだことになる。──それはまた実に、蜀の滅亡後、わずかに三年目のことであった。

呉は、次代の孫皓(そんこう)の悪政が、南方各地の暴動を醸すにいたるまでは、長江の嶮(けん)と、江東海南の地を占めるこの国の富強と、建業城中の善謀忠武の群臣は、なお多々健在であったといえる。

三国は、晋一国となった。

◎解説
「七分の史実」に「三分の虚構」

三国志全8巻読了!!

おはようございます。
6月9日から読んでいた三国志全8巻を、約5か月かけてやっと読了しました。
日本ではまだ歴史も始まっていない、紀元2〜300年程の物語が、生き生きと描かれていました。
「七分の史実、三分の虚構」と書かれてありましたが、一つ一つのシーンを吉川英治氏はどうやって調べられたのだろうかと思いました。
様々な格言、生きざま、息遣いまでが、「今」にも伝わってくることが、まさに不思議でなりません。

印象に残ったシーン─
第1巻の「 檻車(かんしゃ)」
玄徳・関羽・張飛が桃園の誓いの後、各地を転戦して「試されている」時に、董卓が玄徳に尋ねるシーン
…「いったい諸君は、なんという官職に就かれておるのか」と、身分を糺した。
─今の上海での状況と二重写しとなっているシーンです。

最も印象に残っているシーンは─
第4巻「琴(こと)を弾(ひ)く高士(こうし)」
澄み暮れてゆく夕空の無辺は、天地の大と悠久を思わせる。
白い星、淡い夕月── 玄徳は黙々と広い野をひとりさまよってゆく。
─戦いに命からがら免れて、突然目の前に現れた光景で、我ながら玄徳の心境に想いを膨らませたシーンでした。

激流に 淡い夕月 澄み渡り

最後に学会歌「星落秋風五丈原」をネットで聞いて、戸田先生と池田先生の師弟の絆に想いを馳せました。


猿渡先生こんにちは
三国志全8巻読了お目出度うございます
詩人で純粋ナイーブな猿渡先生の生命からの感涙と喜びが伝わってきます…ありがとうございました。
私も何かに挑戦していきたいと思いました。

星落秋風五丈原

星落(ほしおつ )秋風(しゅうふう五丈原(ごじょうげん)


祁山(きざん)
悲秋(ひしゅう)の風(かぜ)更(ふ)けて
陣雲(じんうん)暗(くら)し 五丈原(ごじょうげん)
零露(れいろ)の文(あや)は 繁(しげ)くして
草(くさ)枯(か)れ馬(うま)は 肥(こ)ゆれども
蜀軍(しょくぐん)の旗(はた)光(ひかり)無(な)く
鼓角(こかく)の音(おと)も 今(いま)しづか
丞相(じょうしょう)病(やまい) あつかりき
丞相(じょうしょう)病(やまい) あつかりき


夢寐(むび)に忘(わす)れぬ 君王(くんのう)の
いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて
心(こころ)を焦(こ)がし身(み)をつくす
暴露(ばくろ)のつとめ 幾(いく)とせか
今(いま)落葉(らくよう)の雨(あめ)の音(おと)
大樹(たいき)ひとたび倒(たお)れなば
漢室(かんしつ)の運(うん) はたいかに
丞相(じょうしょう)病(やまい) あつかりき


四海(しかい)の波瀾(はらん) 收(おさ)まらで
民(たみ)は苦(くるし)み 天(てん)は泣(な)き
いつかは見(み)なん 太平(たいへい)の
心(こころ)のどけき 春(はる)の夢(ゆめ)
群雄(ぐんゆう)立(た)ちて ことごとく
中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭(あらそ)ふも
たれか王者(おうじゃ)の 師(し)を學(まな)ぶ
丞相(じょうしょう)病(やまい) あつかりき


嗚呼(ああ)南陽(なんよう)の 舊草廬(きゅうそうろ)
二十(にじゅう)余年(よねん)の いにしえの
夢(ゆめ)はた いかに 安(やす)かりし
光(ひかり)を包(つつ)み 香(か)をかくし
隴畝(ろうほ)に民(たみ)と 交(まじ)われば
王佐(おうさ)の才(さい)に 富(と)める身(み)も
ただ一曲(いっきょく)の 梁父吟(りょうほぎん)
丞相(じょうしょう)病(やまい) あつかりき


成否(せいひ)をたれか あげつらふ
一死(いっし)尽(つ)くしし 身(み)の誠(まこと)
仰(あお)げば銀河(ぎんが) 影(かげ)冴(さ)えて
無数(むすう)の星斗(せいと) 光(ひかり)濃(こ)し
照(てら)すやいなや 英雄(えいゆう)の
苦心(くしん)孤(こ)忠(ちゅう)の 胸(むね)ひとつ
其(その)壮烈(そうれつ)に 感(かん)じては
鬼神(きじん)も哭(な)かむ 秋(あき)の風(かぜ)


嗚呼(ああ)五丈原(ごじょうげん) 秋(あき)の夜半(よわ)
あらしは叫(さけ)び 露(つゆ)は泣(な)き
銀漢(ぎんかん)清(きよ)く 星(ほし)高(たか)く
神祕(しんぴ)の色(いろ)に つつまれて
天地(てんち)微(かす)かに 光(ひか)るとき
無量(むりょう)の思(おもい) 齎(もた)らして
千載(せんざい)の末(すえ) 今(いま)も尚(なお)
名(な)はかんばしき 諸葛(しょかつ)亮(りょう)
名(な)はかんばしき 諸葛(しょかつ)亮(りょう

創価学会をゼロから作り上げた戸田城聖(とだじょうせい)は 戦争に反対した罪で牢獄に入れられました。 なんとか生きて牢屋から出てきましたが、栄養状態も悪く 骨と皮だけでした。おそらく外科手術も不可能なぐらい体は ボロボロであったと思われます。

敗戦後の日本は貧乏で、さらに悲しみに暮れておりました。 その、どん底にあった日本において すべての人々が実生活において利益をつかむためにと 戸田城聖が創価学会をスタートします。

お体の状態からすると、いつ死ぬか分かりませんでした。 壮大な事業に取り組みつつも、道なかばで死ななければならない 戸田城聖の心と、道なかばで死ななければならない諸葛孔明の心を 重ね合わせています。

26.諸葛孔明の戦略と戦術
諸葛孔明の戦略と戦術


三国志にみる、人の読み方・使い方

上海の国際貿易センタービルの書店でたまたま見つけて買いました。

序章 いま孔明何を学ぶか
孔明の活動が躍動的に描かれているのは中国の『三国演義』という講談小説の中である。
正史の歴史書になればなるほど政治色が強くなり、本当の人間性はゆがめられることになりようだ。
歴史とはこうしたもので、時の権力者をほめあげると、これに反対した側を悪い奴だとけなさなければならないのである。だから、歴史書に書かれた通りの人物が生きて活動していたと受けとるのは大きなまちがいと言っていい。

つまり明の時代に生きている人間を、三国の舞台を借りて表現していると言った方がよいかも知れぬ。

孔明は、一か八かに賭けたやり方ではない。…あまりにも安全で、まちがいのないという作戦だから、曹操などにくらべて豪快なところがないような感じもする。しかし、とにかく大失敗をしないという主導的作戦に終始している。

第一章 動きはじめた天下三分の計
孔明の活躍は、当時の勢力としては、まことに吹けば飛ぶような微々たる劉備という人物と結びついたことによって、はじめてできたことである。

劉備は今のところ放浪児にすぎぬ微弱な勢力であるが、その下には関羽、張飛、趙雲という、当時として第一級の武将がついている。彼らだって、曹操や孫権のところに行っても第一級の武将として好遇されることは明らかである。それでも劉備についてまわって不遇を分かち合っている。劉備という人物が、何か他の人と違った人間的魅力をもっていたのであろう。この人なら将来きっと大きくなるという希望を抱かせる何かがあったとみえる。

劉備の手許には一万弱の兵力しかない。十万の曹軍と闘えば、たちまち全滅する。だから兵隊で闘ってはいけない。そういう戦いはしないことである。

「勝ってはいけない。ただ負けて逃げてこい」

降参をすすめているのは、当人の自分の身のことしか考えていないからだ。

◎戦略がなければ戦術は決まらない
「降参して、北面して曹操に仕えるのが、一番よいでしょう」
…孫権は、顔色を変えた。かんかんに怒って、席を立ち…
魯肅「孫権さんは、どうしたらよいかときかれたから降参すればよい、命は助かると言ったまでです。孫権さんは、曹操を破るにはどうしたらいいかと問われていません。だから私は言っていないのです」
闘うか、闘わずに降参するかが根本的戦略決定である。これは主将が決めることで、他人の意見で決めることではない。
孫権ははっと気がついた。自分は戦略を決めずに人に方法を求めていた。

第二章 蜀漢帝国樹立への攻防
張松はこれにうたれた。こんなに人情があり、人を愛してくれる人物だ。曹操とは違う。

あなたは、その一を知って、その二を知らない…だから漢の高祖は、これをゆるめることで民心を得たのだ。しかし、これまでの蜀は、人望もない上に、威令は行われず、たるみきっていた。だから今度は、きびしい法で規制する必要があるのだ。

第三章 天下の地、中原への道
相手の頭の動きを予測し、敵は自分の予測を信じ、自分の計画通り動いて、それがその通りになってゆく。しめた、うまくいったと思うその頂点の時、ちゃんと孔明のワナの中に落ちてしまう。

失敗したなと知ると、すぐ手当てをして、失敗を最小限に防ぐばかりか、その中から更に何かプラス要素を取り出して、将来に役に立ててゆくやり方である。

大阪城も、聚楽第も、つくっはてしまえば、それまでのことである。

第四章 覇業に賭けた男のロマン
『孫子』の中には、火攻めを、どうするかとか、スパイをどう使うか、謀略のやり方とか、いろいろ戦術についての説明もあるが、その出発点が戦略問題にあることが、ヨーロッパの軍事学の歴史と、きわだった対照を示している。

あとがき
●確固たる戦術から出た柔軟な思考
…天下三分の計の、北は曹操を防ぎ、東は孫権に和すという基本戦略は、二十七年間、少しの変化もなかった。

●一生約束を守った誠実な人間
劉備との約束はその最期の日まで守って、ついに五丈原の陣中に没した。頭の悪い劉禅をたすけて、孔明の生きている間は、蜀漢帝国を微動だもせずに守り通した。

●奇才をはなつ創造力
いつも兵力的には劣勢にあり、国力的にも弱小でありながら、強大な魏に対抗し、蜀が主導性…

●力を注いだ人材の発見と育成
対抗馬たるほう統を推薦し、百官の中から登芝を発見し、敵将の中から姜維を見出し…

●生きた人間として現代に活かす
昔の人を神格化してはいけない。やはり生きた人間だったのである。だから、昔の人であっても、文書に定型化された教条として学ぶのでなく、生きた人間として、現代に生かしてみて、自分の行動の参考にしていったらよい。

城野/宏
1913年8月、長崎生まれ。昭和13年、東大法学部卒業後、徴兵で中国に渡 る。
中華民国山西省政府の指導に当り、終戦後も山西野戦軍を指揮し、人民解放軍と戦う。
首都太原落城により捕虜となり、都合15年間に及ぶ監獄生活を経て、昭和39年釈放、帰国。
城野経済研究所を中心に脳力開発を目的 とした活動を展開する。
1985年死去

軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり

大将軍よはければ・したがうものも・かひなし

感想
今の私には戦略も戦術もなし!特に上海に関してはどうやってお客さんを増やすか──その戦略と戦術が全く見えてきません。
戦略や戦術の以前の問題で、私自身の人間を変えていくこと──今はそれしか浮かんできません。

30.「項羽と劉邦」上 司馬遼太郎

30.「項羽と劉邦」上 司馬遼太郎
 
項羽と劉邦

〈30〉項羽と劉邦/司馬遼太郎 上巻

◎始皇帝の帰還
秦の始皇帝、名は政(せい)、かれを六国(りっこく)を征服して中国大陸をその絶対政権のもとに置いたのは、紀元前二二一年である。
─分裂している状態こそ常態

「──あんなやつが」
「王たちの時代はおわり、すべてが秦になった」
(つまりは、皇帝を倒せば、倒した者が皇帝になれるということではないか)

この皇帝制度の創始者は、ひどく土木工事を好んだ。…そういう土工のなかに陳勝(ちんしょう)という者もいた。

ただかれは組織でうずめようとせず、装飾でうずめようとした。
「朕(ちん)」

そのもっとも重要な事業の一つは、天下を巡幸して彼自身の顔を人民どもに見せてまわるということであった。

「彼取ッテ代ルベキナリ」
「よい薬をつくれ」

府中を主宰するのは丞相(じょうしょう)である。高名な李斯(りし)がその職にある。

「宦官は、人ではない」
皇帝は、毎夜、閨(ねや)に女を必要とした。
〈宦官の〉(趙高は影であって、人ではない)
(わしは、人間なのだ)
(わしほどえない者はこの世にいないのではないか)
(この男のいのちは、自分だけが握っている)

首都の咸陽(かんよう)は人夫で雑踏していた。
長男は、扶蘇(ふそ)という。
名将の蒙恬(もうてん)が、扶蘇を支持している。
末子の胡亥(こがい)が、二十歳になる。

ある朝、暗いうちに始皇帝が…息を引き取ってしまった。
「陛下は、亡くなられたのではない。…咸陽へ還幸されるまでは、生きておられるのだ」

(なんというばかばかしさだ)

秦帝国が事実上自壊するのは、咸陽の市場の乾いた土の上に李斯の首がころがったときであったといっていい。

◎江南の反乱
古代、稲を持ってはるかに東海に浮かび、倭(わ)の島々にきたのは、この南の呉越のひとだったろうと想像されたりしている。

有名な『魏志』倭人伝における倭人の風俗については、
「男子ハ大小トナク皆面ヲ黥(げい・いれずみ)シ、身ニ文(いれずみ)ス。……断髪、文身シ、以テ絞竜(こうりょう)ノ害ヲ避ク。今、倭ノ水人、好ク沈没シテ魚蛤(ぎょこう)ヲ捕フルニ文身スルハ、亦以テ大魚水禽(すいきん)ヲ厭(えん)スルナリ」とある。
右の倭の風俗と、揚子江以南の荊蛮(けいばん)のそれと瓜二つのように似ている。もし関係があるとすれば、この地の風俗は、はるかに海を越えて日本にきたといっていい。

北方の中原と揚子江以南とは、主食を異にしている。北方の黄河流域は稲の適地ではなく、従って米食をしない。江南──は気候が温暖多雨

「中国」がはじめて大きな領域を占めるにいたるのは、いわゆる春秋戦国時代(紀元前七七〇〜同ニニ一)からである。

三戸といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚ならん。

項羽は、その楚の人である。

楚の山河には秦へのうらみがわきあがっている。
秦に対する最初の反乱にたちあがった陳勝・呉広という農民もまた楚の遺民であった。

「こんなものが覚えられるか」
と、項羽はそのつど駄々をこねた。
この時代、楚人にとって漢字はおぼえにくいものであった。

「このにぎやかな町で、すこし根を張ってみよう」
と、項粱(こうりょう・項羽の叔父)は項羽に言い、言動に注意させた。人心を攬(と)ろうとする者はひとに嫌われることがあってはならないのである。

項粱「その行方を知っている者はわが“おい”の項羽めのほかありませぬ。ただいまその項羽めをここに連れて参りますので、ただいまの御命令、おん直々に項羽にお下しくださいますように」

「甥の項羽でござる」
…殷通(いんとう)の頭を激しく撃った。
「先ンズレバ即チ人ヲ制シ、後ルレバ則チ人ニ制セラル。公、コレヲ我ニ教フ」

「この項粱が、今日から会稽(かいけい)郡の郡主である」

(なんとたやすいことよ、秦の制度は弱かった)

秦の始皇帝

秦の始皇帝
始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210 年 )は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246 年 - 紀元前221年) 。姓は (え い)、諱は政(せい)。

現代中国語では、始皇帝(Sh  Hu ngd )、または秦始皇(Q n Sh  Hu ng, チンシュフアン)と称する。紀元前221年に中国統一 を成し遂げると最初の皇帝となり 、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した 。

中国統一を成し遂げたのちに「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した 。始皇帝 は巨大プロジェクトを実行し、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設、 国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを、多くの人民が払う犠牲の上に行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる。



 

秦

歴史 [編集]

周代 [編集]

紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子(中国語版)が馬の生産 を行い、功績を挙げたので の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領 地を貰ったのが秦邑(現在の張家川回族自治県一帯)であったとい う。伝説上では 姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。それ以 前の 氏は魯に居住していたとされる。

紀元前822年に荘公が西垂(現眉県)の大夫になった。

春秋・戦国時代 [編集]

春秋時代 [編集]

紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地 である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所 は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つ かっている。春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑 まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行っ て国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝 西省鳳翔県)に置いた。

九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西 戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹 敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱(中国語版)で混乱すると、恵公を擁立する が、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死 んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治 世時には晋にやや押されぎみになった( の戦い(中国語版), 彭衙の戦い)。紀元前628年の文公 死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に 数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度 に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。それでもそれなりの力は保持していたものの春 秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉が脇を固める変則的な四 強時代を作っていた。

戦国時代 [編集]

 

徐州

徐州市(じょしゅうし)は、中華人民共和国江蘇省の北西端に位 置する地級市。

徐州は、元来は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域を指し た漢代の地方区分の名称であった。古称は彭城(ほうじょう)と も称す。市域内の沛県は劉邦の故郷であるほか、彭城は項羽(項 籍)の都となっていた。

歴史 [編集]

徐州は古くは彭城と称し、2600年に及ぶ悠久の歴史を有する。 『尚書』(書経)の『禹貢』の篇に列記された「九州」の一つに もこの地方一帯を指す「徐州」の名がある。

項羽の都 [編集]

戦国時代中期には宋や楚などにより彭城は争奪された。秦朝が成 立すると彭城県が設置されている。秦末になると過酷な政治に対 する民衆反乱が発生、現在の江蘇省一帯は農民起義の中心地と なった。前209年、下相(現在の宿遷市)の住民項羽、項梁をは じめ、沛(現在の徐州市・沛県)の住民劉邦らは彭城の近くの大 沢郷(現在の宿州)で起こった陳勝・呉広の乱に呼応し秦に反旗 を翻した。秦の滅亡後、項羽は諸侯の連合軍を率いて「西楚霸 王」と称し、楚の故地で故郷に近い彭城(徐州)を都に定め、諸 侯を各地に封じた。前206年、漢王劉邦は挙兵し西楚打倒を目指 し進軍。一年後、不満を持つ諸侯をまとめ60万の大連合軍を結 成し項羽の都の彭城を占領することに成功したが、項羽は救援の ために引き返し、彭城の戦いにおいて3万の精鋭で60万の漢の連 合軍を大敗させ劉邦の一族を捕虜とすると言う古代中国でも例の ない大勝利を収めた。

その戦いで劉邦は追い詰められたが、配下の韓信らの後方撹乱な どで窮地を脱し再び楚に進撃、韓信が諸侯を一掃させ結束を高め た。前202年、漢軍は下 (現在の 州市)を占領し、彭城を守 る将軍・項佗は投降した。項羽軍はこの後に垓下の戦いで四面楚 歌を受けてほとんどの兵士が逃亡、ほぼ壊滅し、項羽は烏江で自 害し楚漢戦争は劉邦が勝利した。

 

項羽

◎長江を渡る
功績のある者に大官をあたえればかならずしも有能でないために弊害をまねく。このため、爵をあたえてその身を重くするのである。…これはあるいは遥か後世のイギリスにおける勲爵士(ナイト)にあたるかもしれない。

人がかれのもとに集まらなかったのである。

項梁
「羽よ」
「おれには、子だねがないのだ」
「いわば、人としてはずれ者だ」

召平
(項羽という男は、おのれ一個の力量を恃(たの)みすぎ、配下の諸将をうまく御そうとはしない男らしい)

◎楚の武信君の死
できるだけなまの姿を衆目に曝さないことであった。

(江南の長江は大きすぎる。真に人間を益する河というのはこの淮河のことだ)

鯨布は六国(安徽省)の人である。

(どうすべきか)
項梁は…そういう場合、一見、なまけものとしか見えないような体(てい)をとった。陽が高くなるまで、朝寝をしたり、日中も寝台の上に丸太のようにころがって、睾丸(こうがん)を鷲づかみにしては伸ばしたり、ときにひとりで哄笑したりした。

──戦って勝つ以外に、志を天下に認めさせる方法はない。

(あのばけものが大勢力を得てはこまる)

しかし眼前の急務は流民を大量にあつめることであった。

◎宋義を撃つ
「黄河」
「大楚(タアチュウ)!」

「なるほど、おれは黄河の流れに沿って西をめざしてきたが、勝ちすすんでいると思いこんできた。これは章邯が勝たせてくれたのか」

「秦は民を餓虎(がこ)のようなものであった。その秦を倒すのにわれわれが餓虎になっては、何のために起ちあがったのか、意義を失います」

──いったんは、屈すべし。いまは退却することは、次に勝ちを得ることです。

◎鉅鹿(きょろく)の戦
項羽はこれまで一介の武弁にすぎなかった。
(この男には、欠陥が多い。しかし掘り出したままの新珠(あらたま)のようなよさがあるとすれば、そこだ)

◎秦の章邯(しょうかん)将軍
百年の知己のように親しげに口をきく

戦いはね、政治のためにあるんですよ

功績がありすぎると、それに報いようにも土地がないために、法にかこつけ、誅殺(ちゅうさつ)することによって問題を片付けてしまうのだ

いま人心は秦を離れ、…あなたの軍隊は逆に損耗するのみで日に日に減っている。これは天が秦を滅ぼそうとしていることの一つの証拠である。

たちまち二十余万人という人間が、地上から消えた。

「秦(関中)の父兄はこの三人を怨み、その怨みは骨髄に徹しています」

「沛公(劉邦)は、なんとご運のよいことか」

1(100)「項羽と劉邦」中

 
1(100)「項羽と劉邦」中 司馬遼太郎
 


  張良

項羽と劉邦(中)1

◎張良(ちょうりょう)の登場

劉邦がその非をみとめ、一転して張良の意見にしたがう気分になるには、いますこし負け込んでゆかねばなるまい、とも張良は思っている。




 

函谷関
函谷関

項羽と劉邦(中)2

◎関中(かんちゅう)に入る
劉邦の人間について、
「生まれたままの中国人」
中国の長い歴史のなかで無名の農民から身をおこして王朝を建設したのは、劉邦以外にない。

「おのれの能(よ)くせざるところは、人にまかせる」

張良「いくさというものは、勝つための手だてを慎重にかさねてゆけばかならず勝つものだ」

張良「私が指揮しますと、二度三度は勝ちをおさめ、それにより士気もあがりますが、やがては別の要因で全軍に弛緩(しかん)があらわれます。それがもとで軍そのものを自潰(じかい)させることになるかもしれません」

中原とはいうまでもなく古代よりの漢民族の根拠地をさす。

兵が少数であるため活動を停止すると正体が露(あら)われてしまう。張良としては、絶えず進撃し突破し、敵を破摧することを繰りかえしていかなければならない。

趙高はこの世にうまれてみずからを去勢して宦官になったかわりに皇帝を一人つくり、王を一人つくった。つまるところ権力という白刃を素手でつかんで弄びつづけた。そのたぐいの者が、この大陸でこののち長くつづいてゆく歴史のなかで終りを全うした例はほとんどなく、趙高はその系列の歴史の最初をひらいた男といっていい。

◎こう門の会
「秦の法は、ことごとく撤廃する」
「法は、三章とする。すなわち人を殺す者は死刑、人を傷つける者、あるいは人の物を盗む者は、それぞれ適当な刑に処する。それだけじゃ」

「函谷関(かんこくかん)に兵をやって扉を鎖(とざ)してしまえは中原の軍勢はここに入ることができませね。それでもって関中王におなりになればよいではありませんか」
 

韓信の股くぐり
韓信の股くぐり

項羽と劉邦(中)3

◎漢中へ
韓信はののしられるにふさわしかった。大きな体をぼろでつつみ、いつも腰に長剣を鳴らしてほっつき歩いていた。あるとき気のあらい肉屋が韓信をからかって、その長剣をおれに刺してみろ、刺せなきゃおれの股をくぐれ、と衆人の前でおどしあげた。このとき韓信はおとなしく這って股をくぐった。

人才に対する鈍感さは、逆にいえば項羽軍の特徴でもあった。勇は項羽ひとりで十分であり、智は氾増ひとりで十分であると思い込んでいる項羽軍首脳にとっては、噐才のある者をつねにさがさねばならぬという必要は頭から認めていなかった。

項羽が功としてみとめたものはみな第一線ではなばなしく戦った勇将たちで、後方にありながらその者が居たがために諸人(もろびと)の信がつながれたというたぐいの功績というものは項羽は一顧にもしなかった。

韓信は女を通じて関中の人心がいかに劉邦になびいているかをつぶさに知ったために、他日、劉邦がここにもどりさえすれば人民が歓呼して迎え、章邯らを打ち砕くのにわけはあるまい、と思った。

十に一も劉邦に勝目はない。しかし負けぬ工夫というのがあるのではないか

「逃げたんじゃないんです。逃げた人間を追っていたんです」

◎彭城の大潰乱(ほうじょうのだいかいらん)
義によって項羽を討つと天下に標榜して関中をめざされれば、兵はよろこび、その勢いあたるべからず、天下に充満する不満の心はみな大王に味方しましょう。

劉邦はどうやら韓信によって自分を知ったようである。

劉邦は、国名を創った。
「漢」
と、よんだ。
「この関中の地を永世に漢の根拠地にするためには、社稷(しゃしょく)をつくるべきでしょう」

ただ、項羽そのひとには戦闘者としての自信があったが、かれの楚軍の欠陥は、武将たちが単独行動をする場合にかならずしも強くないということだった。

項羽の戦いは戦闘より虐殺のほうで多忙だった。

中国大陸は、…基本があくまでも灌漑農業社会であったために、農民個々が個人として独立せず、その独立性が尊ばれず、ついにギリシャ・ローマ風の市民を成立させなかった。

劉邦はじつに柔軟であった。つねに王陸(おうりょう)に礼をつくして慰問の使者を送りつづけてきた。…このあたり、策略というつめたい発想から出たものでなく、村落人間だった劉邦のいかにもそれらしい自然の人情から出た方針で…

「決して酒癖がお悪いのではない、酒があなたの体を得てよろこんで跳ねまわっているのです」

韓信の股くぐり
【読 み】 かんしんのまたくぐり

【意 味】 韓信の股くぐりとは、将来に大志を抱く者は、屈辱にもよく耐えるとい うたとえ。

【韓信の股くぐりの解説】
【注 釈】
「韓信」とは、漢の天下統一に功績のあった名将。 韓信が若い頃、町のごろつきに喧嘩を売られたが、韓信は大志を抱く身で あったからごろつきと争うことを避けた。言われるまま彼の股の下をくぐ らされるという屈辱をあえて受けたが、その後韓信は大成し、天下統一の ために活躍したという故事から。 将来に大望のある者は、目の前の小さな侮りを忍ぶべきという戒めであ る。 「感心なことだ」の意味で相手を褒める際、「韓信」と「感心」をかけて 「感心の股くぐり」と洒落て使うことがある。
【出 典】 『史記』

【類 義】
堪忍辛抱は立身の力綱/
堪忍の足らぬ人は心の掃除の足らぬ人/
堪忍の忍 の字が百貫する/
堪忍は一生の宝/
堪忍は万宝にかえ難し/
堪忍は無事長 久の基/
ならぬ堪忍するが堪忍/
なる堪忍は誰もする/
忍の一字は衆妙の 門/
忍は一字千金の法則

【用 例】
「小さな怒りやトラブルに心をとらわれるのは、大きな志がないからだ よ。韓信の股くぐりということわざを知っているかい?君に大きな夢や目 標があるなら、韓信の股くぐりを座右の銘として小事にとらわれることは やめなさい」
 

黥布(げいふ)
黥布(げいふ)

黥布(げいふ) 項羽と劉邦が最も恐れた顔面刺青の猛将

著者 加野厚志著 《作家》

主な著作 『真説 龍馬暗殺』(学研M文庫)

税込価格 900円(本体価格857円)

内容 秦代末期にあまたの将が群雄割拠する中で、ひときわ異彩を放 ちながら覇権を求め、項羽を討ち劉邦を射殺した猛将・黥布の 生涯を描く。

秦朝末期、天下の覇権を争った項羽と劉邦。この二大英傑に挑んだ百戦無敗の魔 神こそ黥布である。

猛者ぞろいの項羽軍にあっては常に先鋒をつとめ、秦を滅ぼす最大の功労者と なり、その後の楚漢の抗争では、劉邦軍につき楚を攻撃。劉邦の国内統一を大い に助けた。しかし、天下統一後、次々と功臣を抹殺していく劉邦に恐れをなした 黥布は、やむなく反乱を起こす。

急行してきた劉邦軍に囲まれる黥布。怒りに燃える劉邦が「なにゆえ反乱す る」と問うと、不適にも「皇帝になりたいだけさ」と語ったという。

この戦いで劉邦に致命傷を負わせるなどして互角以上に戦った黥布だが、多勢 に無勢、最期は義兄に殺されてしまうのだった。

英布と呼ばれた善良な馬喰(ばくろう)が、予言どおり黥刑を受けたのちに王 にまでのしあがった苛烈な生涯を、新しい視点で描いた力作。

20万の秦兵を惨殺したとして『史記』に描かれているアンチヒーロー像を真っ 向から覆す!!

陳平​
陳平

項羽と劉邦(中)

◎劉邦の遁走
ーー馬というのは人のために運ぶか駈(か)けるということだけでこの世にいる。

「あんな欲深のどこがいいんだか」
嫺嫺(かんかん)はいった。
「欲が深いからあの人は頼もしいんだ。無欲だとすれば単なる隠者じゃないか」
嬰(えい)は、役所がひまなときは、役所の馬車に劉邦をのせた。一種の汚職だった。

呂氏、名は雉(ち)、字は娥枸(がく)、いうまでもなく劉邦の妻である。

呂氏にとっておそろしい者は、嫂だけであった。
(いつか、仕返しをしてやる)

◎漢王の使者
項羽はひとたび自分の配下になった者に対しては肉親のように愛するが、裏切るか、あるいは無縁の者に対してはどんな残虐なことでもやった。

(黥布は、なしがたいことをやった男だ)
(人として、まちがってはいないか)
(まあ、いいだろう。劉邦を勝たせるためには虎狼(ころう)とでも手をにぎらねばならぬ)

◎陳平の毒
(どうせ馬鹿だろうが、ただ馬鹿にするとひどい目にあいそうだ)
(結局は、わしの配下はろくでなしなのだ)
あの項羽に勝てるかということを思うと、とうてい自信がなかった。
(たれか、いないか)

「なんといってもあいつは嫂を盗したような男だ」
灌嬰「…陛下の窮状を救うのに、尋常の智、尋常の勇ではどうにもなりません。奇正応変の才ある者として陳平を推したのでございます」
(もっともだ)

(これでおしまいか)

「項羽という御人は、人を信じるということができませぬ。項羽が信任し、寵愛する者は、項羽一族とその妻の兄弟のみでございます」

(わしが、項羽に勝てるはずがない)

劉邦「私は螢陽から西を漢の領土にしよう。天下は大王よ、あなたのものだ」
項羽「和睦は、ならぬのだ」
劉邦「では、大王からの御使者を螢陽にお送りくださって漢王自信にそのお言葉をお伝えねがう、というわけに参りますまいか」
陳平の策であった。
(もっともなことだ)
つまりは、項羽も范増も、陳平の遠謀にかかった。

「毒を用います」

項羽その人に、かれの配下の諸将の忠誠心を疑わせるのである。

「しかし項羽にも疾(やま)いがございます」
「猜疑心」
「陳平よ、もう教えてくれてもよかろう。工作とは、なにをやっているのだ」
楚軍における傑出した四人の将軍が、漢の常識では信じられないようなことだが、実質的な行賞をうけていない。
「あの四人が」
「あわれなことだ」

「なんだ、諸君は項王の使いか。私は范増老人がよこした御使者であるかとおもった」

項羽は、はたして范増を疑った。

「私が大王のために御役に立つことはもはや終わったようにおもいます。あとは大王みずからで十分治めることができましょう」

かれはほどなく死んだ。

◎紀信の悪口癖
劉邦「腹が減ると女が欲しくなるのはどういうわけか」
「天がそのようになさるのでしょう」

かれは項羽とちがって自分の血縁を重用せず、また他人をそのうまれ故郷によって軽重するということをしなかったために、天下の士が玉石ともにーー玉はすくいながらーーこの男のもとに安んじてあつまってきたにちがいない。

「大王は、とても楚の項羽には勝てますまい」
「まことに、わしは項羽にはかなわない」
「この螢陽城もいずれは陥(お)ちましょう」「なさけないが、どういうことだ」
「籠城は将来に成算があってやることです。陛下にご成算がありますか」
「ない」

2(101)「項羽と劉邦」下 司馬遼太郎
高祖
  高祖

項羽と劉邦(下)1

◎背水の陣

韓信は、転戦している。

「木で鼻をくくったようなあののっぽめが」

張良「策を申し上げてよろしゅうございますか」

「北方で韓信を働かせるのです」

「敵にみつからずに山中の間道を縫い、山上から敵の井徑(いけい)城を望見できる所まで行って埋伏しておれ」

「正規の朝食は、戦いがおわってから摂ろう」
「私はあとから出て行く」
「これが、低水(ていすい)の流れだ」
諸君はこの低水の流れの内側ーー敵陣の側ーーに入って陣を布(し)け
「それでは背水になりますが」

ーー韓信は兵法を知らない。
と、口々に言い、大笑した。韓信が買いたかったのはこの嘲笑であった。
「もう、よかろう」
韓信は、その部隊とともに囮になった。この時代でも囮作戦はあったが、大将とその直率部隊が囮になるというのは前代未聞のことであった。

「死ね」
「死にたくなければ、戦え」
韓信がかくしてた二千の部隊が山から出現し、……
「漢はすでに趙王や陳余を殺して城塁を奪った」

韓信「食事から塩を次第に減らして行っただけです」
ーー韓信どのの軍は、食べるものがみな旨い。

◎斉の七十余城

劉邦は、敗けてばかりいる。
ーーあの鼠めが。

劉邦の戦略はーー張良ら幕僚たちが立案するとはいえーー自己を弱者であると規定し、その恐怖感情から発想されたものばかりであった。

劉邦と夏侯嬰
「大王の御運尽きたまわず」
「嬰よ、なさけないことだな」
「このまま星の国へゆければどんなにいいだろう」
「いいじゃありませんか」

「あなた様には、天運がついてまわっているのですから」
「五菜のことか」
ばかばかしい
「あなた様ご自身がお疑いになっちゃ、いけませんよ」
「疑いもするわ。天運があればこうも負けまい」
「負けるのは、陛下が…お弱いからです、
天運と何の関係もありません」

「人間はな」
「こういうときにはな」
「唄だ」

山東半島
山東半島

項羽と劉邦」(下)2

◎半ば渡る

この大陸は、春秋戦国時に諸子百家がむらがり出て、一大思想時代を経験している。

知識人のことを、
「生」
と尊称する。

「儒者なら、こういう事態になれば予測がつかなくなるのです。国や世はかくあるべしという理想を最初にえがき、物事をそれへ当てはめてゆこうとしますから」

この夜、韓信は上流の狭隘(きょうあい)部を土嚢でせきとめさせた。…しかし一晩保つ程度であるにせよ、下流へ流れる水量が半減した。
下流の一点に、韓信が立っている。
「韓信みずからが寄せてきた」

「おどろけ。おびえよ」
…ふたたび河にむかって崩れるようにして退却しはじめた。…韓信をあなどりきっていた竜且は簡単にかかった。
「客よ」
「わしがいったとおりではないか。韓信の臆病はいまにはじまったことではないのだ」
「一挙に韓信を討ちとれ」

韓信はさらに逃げ、敵を上陸させた。敵が半ば上陸したあたりで、狼煙(のろし)をあげさせた。
上陸では、この合図を待っていた。かれらは土嚢の壁を一時に断ちきって水を奔流させるとともに戦場へかけた。

竜且とその部隊は、孤軍になった。
ーー韓信は敵の「半渡」に乗じた。

ついに竜且その人を囲んだ。
楚軍の一方をつねに支えてきた勇将の最期としては、みじめであった。

「漢の将軍というだけでは、おさまりますまい」
「それはわかるが、私が斉王になるのはこまる」
「かといってあなた様以外にたれが斉王になります」
「このままでよいではないか」

(よく考えてみると、大望などといっても儚(はかな)いものだ。わしの場合、大がかりな戦をして自分の才能をためしてみたいという甚だ子供っぽいものにすぎなかった)
「わしは一介の書生でいたかった」
「それはうそでしょう」
「いや、半ば本当だ。あとの半ばというのは野心だが、それも自分の異能を世間でためしてみたいということだけだったように思う」
韓信は、真顔でものを言っている。
「痴(たわ)ごとを」
かい生は笑った、

「もうだめだ」
「わしはこのように苦戦している。いつ韓信の援軍がくるかと待ちのぞんでおるのに、口上というのはそれか。自立して王になりたいというのか」
(まずい)
自立どころか、楚について劉邦を一挙に覆すこともできるのである。
「御立腹なさってはなりませぬ」
「わかった」
「韓信に伝えよ。仮王(かおう)などということはけちくさい。なんといっても大丈夫たる者が強斉を屈服させたのだ。遠慮なく真王になれ」
張良と陳平は劉邦の豹変にあきれた。

◎虞姫(ぐき)

項羽のおかしさは、知らない人間に対しては古家の土壁でも掻(か)きおとすような無造作で殺してしまえるのだが、名を知り、顔を知り、一度でも言葉をかわせば別人のように情誼(じょうぎ)があつくなってしまうことであった。…その情愛は劉邦のその配下に対するその比ではなかった。

「いくつだ」
「十四でございます」
「虞(ぐ)よ」
(こどもではないか)
「陛下。ーー」
「陛下にきらわれたくはありません」
「虞よ」
「桃の唇(つぼみ)が陽に向かううちに自然にほころびるように、むすめもほころびを待たねばならぬ」
(この人は、鬼神というではないか)

劉邦は、弱かった。
(あの弱いやつが、なぜわしに屈しないのか)
項羽はふしぎでならない。
項羽のみるところ、劉邦は食物に執着している。
(劉邦のあたまは、わしと戦うよりもおのれの兵を養うことしか考えていない)

ーーいったい、彭越(ほうえつ)とはなんだ。

ーーああいう人間がいるというのは、漢軍の弱点とみていい。
ーー劉邦の配下など、猥雑なものだ。犬がいるかとおもえば虎も狐もいる。寄りあい所帯ではないか。
これにひきかえ項羽の楚軍は項羽の武に対して信仰的な安心感を持つ組織で、一将といえども天下に野心を持つ者はおらず、みがきあげられたような統制のもとに動いている。

ーー補給難こそ項羽の弱点だ。
ーーまたも彭越が梁にあらわれております。
(まさか)
項羽の主力は、糧道を断たれた。
(劉邦め。ーー)

虞姫は先々月の真夏に女になった。…項羽は三十にもなって顔を赤くした。
…早春の芽は風に痛みやすいものだ
「秋になって天が高くなれば、わが寝所に来(こ)よ」
「以後、虞姫を美人とよべ」

「彭越軍は…楚軍が集積していた兵糧(ひょうりょう)を焼きはらった」
ーー裏切って、敵になりおった。
世界を敵味方の黒白でしか分けることができないというのが項羽の性癖で、これに対し劉邦は世界は灰色であり、ときに黒になり、ときに白になるとおもっていた。

ひと月も経つと、楚城の峰の兵は餓えはじめた。
漢城の峰の兵は、血ぶくれするほどに肥(ふと)っている。
(劉邦のやつ、卑怯な。……)
と、項羽はようやく劉邦の魂胆がわかった。
(彭越を王侯にしておくべきだった)

が、劉邦は応じて来ない。
「それでも汝は武人か」

(父を殺すというのか)

劉邦は戦えばかならず負けてきたが、しかし常に身を陣頭にさらし、かつての多くの王侯のように後方にあって士卒だけを前線で戦わせるようなことをしたことがなく、このことが、漢兵が劉邦についてきた理由の大部分だったといえた。

「項欧を圧倒するしかありません」
と、張良がいった。
「わしに出来るか」
「それはもう、十分に。ーー項王の罪をお鳴らしになることです。数えれば十はありましょう」
「項羽、聞け」
「世にお前ほどに悪逆の者がいようか」

劉邦の胸に命中した。
(やった)
(起きあがらねば、全軍が崩れる)

「虞」
「虞姫に沐浴(ゆあみ)させよ」
「楚の酒が」
「風のような。ーー」
「もはや、戦いはあるまい」
飲み干すつど、項羽は虞姫を抱いた。

黄河
黄河

黄河(こうが)とは、中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。

「項羽と劉邦」(下)3

◎弁士往来

秦末、彭城(ほうじょう)(今の徐州)の町のことである。
この時代、この町は黄河の本流に面していた。黄河へ流れこむ幾筋かの細流が域内で堅牢に護岸されている。路(みち)に柳が植えられ、両岸に商舗がならび、水面には物産をのせた小舟が、たえず往来していた。

「これに満たしてくれ」
無名の時代のカイ通(トウ)である。
「これに満たしてくれ」
侯公(コウコウ)
それぞれ流転し、やがて侯公は劉邦の陣営に入り、カイ通は韓信の謀臣になった。

しかし乱を撥(おさ)めて正しきに反(もど)すのは古来武によるしかありませぬ。文によってその地域で一時の和を結んだところで後日かならずそむき、乱の種子(たね)を残すことになりますよ。

「車の横木に寄りかかった一介の儒生の舌に武が及ばぬ」
(漢王は、ひそかに根をお持ちになるのではないか)
「小事でござる」

武人として、傑出しすぎていながら他の面で欠けた人物が、古来数多く終わりを全うしなかったことを思うと、韓信のためにいよいよ不安になるのである。

「あなたの生きる道は、一つしかない。漢に反(そむ)いて楚と提携し、天下を三分してその一を得ることである」
「おうけできなくて残念なことである」
「なぜだ」
「私は、項羽が嫌いなのだ」
「きらいとは、これは婦女子のような言葉を」
「なぜお嫌いなのです」
「私を用いなかったからです」

「では、漢王については、如何(いかん)」
「好きです」
「理由は?」
「私を用いてくれたからです」

「士というもには、そういうものだ」
韓信は、しずかにいった。
「漢王は私に上将軍の印綬(いんじゅ)をさずけ、みずからの軍を割(さ)いて幾万という兵をあたえてくれた。それだけではない。ときに自分が着ている衣をぬいで私に着せ、ときに自分が食べている食物を押して私に食べさせた。さらにわが進言を聴き容(い)れ、わが計画を用いてくれた。それがなければいまの斉(せい)の地に韓信という人間が存在していない。あなたは項王の使いとして千里の道をきた。以前の韓信に会うためでなく、現在の韓信に会うためだが、その韓信ができあがったのは項王によるものかどうか」
「いま伺ったことは、水に流してもらって」
「流せないのだ。忘れることができても、流すことはできない。過去というものが積みかさなってこんにちの韓信というものがある。流せということは韓信そのものを流せということだ」
「そこを」
「なんとかなりませぬか。旧知の武渉がこのようにしてあなたを拝んでいる。そこのところを、なんとか考え直して……」
「私は死んでも漢王に対する節操は変えない」
「項王によろしくお伝えねがいたい」

「……それは」
「漢王に謀叛(むほん)せよということだな」
「こういう俚諺(りげん)があるのをご存じか」
食人之食者死人之事
(人ノ食ヲ食セシ者ハ人ノ事ニ死ス)

カイ通は声をはげまし、
「義も侠も忠も信も、いまの君(あなた)にとっては身をほろぼすもとだ」
「なにをいわれる」
勇略主ヲ震(ふる)ハス者ハ身危(あやう)ク、功天下ヲ蓋(おお)フ者ハ賞セラレズ。

カイ通
「君よ。あなたは漢王に対して忠(まじめ)であり、信(まこと)であろうとする。しかし張耳(ちょうじ)・陳余(ちんよ)の例をおもいだしてください。あのふたりは不遇時代に人もうらやむ仲で、たがいに刎頸(ふんけい)のちぎりを結んだものでしたが、それぞれが相(しょう)になり将(しょう)になってから反目し、張耳は漢王劉邦の武力をかりて陳余を攻め、これを殺し、足も手足もばらばらに斬りきざんだのです。乱世における忠義がいかにはかないものであるか」

カイ通
「この舌の動くところを聴け」
「……かつて天下を望んだ諸豪のすべてを反逆の罪によってこの釜にほうむりこもうとされるか」
「せぬ」
「おまえは何人の兵をもっていたか」
「舌がある」
「まだ喋ることがあるか」
「煮られるまで喋るだろう。陛下は盗跖(とうせき)をご存じか」
「おまえは、盗跖の犬か」
「小僧の犬だ」
カイ通がいったとき、劉邦は一笑して刑吏にカイ通の枷をはずさせ、郷里まで帰る旅費もくれてやるように命じた。
カイ通は、庁舎を出た。門前に喃(なん)が待っていた。
「死んだほうがましだった」

前漢
前漢

◎平国侯の逐電
弁士侯公(こうこう)という背のひょろ高い男は、依然として劉邦のもとに身をよせている。
身分は、客であった。
顧問ということであろうか。

主人は客に対し、謙譲と手厚い礼儀をもって遇さねばならない。
「先生」
とよぶ。あるいは、生とよぶ。かれらが、自家の老従(ろうじゅう)でもないのに自分のために得がたい才智を提供してくれるからである。もし主人の言葉づかいがわるく、自分を低くみたということがあれば、さっさと立ち去ってしまう。その点、客たちは忠誠心というものに拘束されていなかった。
ついでながら、この慣習はごく、近年まで残った。
ふつう主人は客に対し、へりくだってあいさつをする。
ーーあの秦が、なぜあれほどみじかい期間でほろびましたか、それは刑法一点ばりで天下を治めようとし、……もしあの強秦が、刑法万能主義を取らず、先聖の道をもって天下を治めておりましたならば、……
ーーそれはそうだ。

陸賈(りくか)
「侯公先生は、戦国の孟嘗君(もうしょうくん)、平原君(へいげんくん)、春申君(しゅんしんくん)などのまわりにいた客を理想としていまの客を律しようとしている」
つまりはドン・キホーテだ、と後世の西洋でならいわれるところであったが、しかしこの大陸での文明は古(いにしえ)の価値をもとめ、古伝承のなかに倫理的人間の典型をもとめる力学があったために、陸賈のこのことばは侯公をほめているのである。

(とても項羽にはかなわない)
「劉邦の臆病者」
ーー戦えばかならず負ける。

この大陸の倫理習慣では孝が何にもまして絶対的価値をもっている。

この情勢下で、劉邦は負傷した。
ーー漢王が殺された。
(ああ、漢もしまいか)
(生きていたのか)
(もう、どうなってもいい)
(わしには、むりだった)
天下を望むような器量でないことは、自分がいちばん知っている。……天が人をとりちがえたのだ。
ーーたれか、自分に変わる者がいないか。
夜、劉邦は簫何と二人きりで酒を飲んだ。簫何には安心して泣きごとをいうことができた。
「いっそ、お前さんと代わってもらい、わしは、沛のあたりで隠棲(いんせい)したい」
「陛下、天命をおわすれ遊ばしましたか」

「その論法でいえば、劉邦の申し出を断ればわしは悪逆の王になる」

侯公は、出発した。
(変なやつがきた)
(こいつは、まったく違った男だ)
「陛下、楚城にてゆっくり致しとうがざいます」
一つの意味は会談(はなし)をいそがずにやろう、…いま一つの意味は、俺という人間をゆっくり見てくれ、それから話しあおうではないか
「人間、長生きをせねばなりません」
「衰(すい)ヲ助(さき)へ、老ヲ養フ」
「なんともはや」
(憎めぬやつだ)
「漢王の言い分をきこう」
……
「漢王はどう言っておるか」
「漢王のことなど、小そうござる」
「漢王など、どうなってもいいのです」

「この侯公は、いわば天と地と人の代理人です。漢王に対し、忠でも不忠でもないということがおわかり頂けるでしょうか」
「わかるような気がする」
項羽は、おもしろがって手をたたいたりした。

「いっそ、わしに支えぬか」
「陛下に?」
「私は漢王にも支えておりませぬのに」
「だからわしに支えよというのだ」
「いやはや」

「いったい、何が愉(たの)しみで生きているのだ」
「項王を仕合わせにしてさしあげるのが愉しみでございます」
「言うわ」
項羽は侯公の肩をたたいて笑った。

劉邦のよろこびは、…一躍、侯公に、
「平国侯」
という尊称をさずけた。
ちょっと信じがたいことだが、侯公は…ほんの数日して山上から居なくなった。…逐電したのである。

張良
張良

◎漢王百敗

「項羽が奇襲してくるのか」
張良にきいた。
「来ないでしょう」
「なぜだ」
「項王は強者です。すくなくとも自分を蓋世(がいせい)の雄だと思っています。強者というのは、自分の名誉にかけても言葉を違えないものです」
「わしはどうだ」
「陛下でございますか」
「どうだ」
「おそれながら弱者におわします」
「わかっている」
項羽に対しては百戦百敗してきた男が強者であるはずはない。

「今夜、この劉邦が楚城へ不意打ちをかけるというのか」
「いや、それはなさいませぬ。理由は……とても」
「勝ち目がない」

「それは、陛下がご自分を強者だとお思いになったことがないからでございます」
「そのとおりだ。男としてくやしいが、こればかりはどうにもならない」
「ふしぎなことに、陛下の場合、ご自分を弱者だと思いきめて尻餅をおつきになっているその御人柄がそのまま徳になっておわします」
(ーー徳?)
わしに徳などあるだろうか

「陛下は、御自分を空虚だと思っておられます。際限もなく空虚だとおもっておられるところに、智者も勇者も入ることができます。そのあたりのつまらぬ智者よりもご自分は不智だと思っておられるし、そのあたりの力自慢程度の男よりも御自分は不勇だと思っておられるために、小智、小勇の者までが陛下の空虚のなかで気楽に呼吸をすることができます。それを徳というのです」

「さらに陛下は、、欲深の者に対して寛容であられます。乱世の雄の多くは欲深で、欲によって離合集散するのです。欲深どもは、陛下のもとで辛抱しておれば自分の欲を叶えてもらえるとおもって、漢軍の旗の下に集まっているのです」

「治世の徳ではありませぬ。三百年、五百年に一度世が乱れるときには、そのような非常の徳の者が出てくるものでございます」

「項羽はどうだ」
「項王にはそのような徳はありませぬ。このため笵増をうしなっていまは謀臣がなく、また韓信ほどの大器を一時は配下にしていながらその才を見ぬけず、脱走させてしまっています」
「韓信のことは、べつだ」
「しかし韓信は楚につこうとはしておりませぬ。それだけでも陛下は多(た)となさるべきです」
「それもそうだ」

張良にいわせれば、項羽は空虚ではない。天地に千万の電光を奔(はし)らせるほどに勇と才で充実している。
「すると、項羽の天下になるのか」
劉邦が顔をにわかに赤黒くして言ったが、張良はただ、
「天」
といったきり答えなかった。

この和睦の条件は、項羽をよろこばせている。
「大王の損でござる」
「なにをいうか」

翌朝、陽がのぼると、霧が深くなった。
両軍は旗をおろし、乳色の霧の中をくだりはじめた。

張良は…陳平の陣へゆき、
「陛下の幕営へゆこう」
「私がなにを陛下に献言しようとしているか、君ならわかるだろう」
「わからないか」
「どうだ」
「想像はできるが、言えない」
「漢軍は弱い」
「どうにもならぬほどの弱さだ」

「それでは、いまこそ千載一遇の機会だと思わないか」

「むりだ、子房さん」

「待つ?待って何になる。待てば項王に勝てるというのか」


「約を違えよというのか」

「全軍を旋回して項羽を追撃しても勝つかどうかはわかりませぬ。しかし追撃なさらねばいずれ、陛下の御首が項羽の前に落ちるということだけは確実でございます」
「確実か」
「陛下、陛下を救うのは御決心だけでございます」
「諸将をあつめよ」

「彭城に帰れば、腹が裂けるほど食わせるぞ」

劉邦は、すでに決断した。
「項羽を追うのだ」

項羽は、劉邦の追尾に気づいた。
「なんというやつだ」

「大変なことになった」
「子房、わしには、自信がない」
「それでは戦わずにお逃げになりますか」
「むりをなさらなくてもいいのです」

「陛下には、まだ機会があります。項羽にとってはこの決戦が最後の機会になるでしょう」
劉邦はおどろき、
「ーー項羽が」
と絶句した。
「しかも、項羽軍は孤軍です」
「孤軍ということでは、わしも同じだ。韓信、彭越が来ない」
「陛下にはまだ来ないという韓信、彭越がいるのです。項羽は来ない者すら持っておりませぬ」

劉邦の弱者としての政略や戦略の布石が、ようやく生きはじめたのである。
「わしのほうにむしろ分(ぶ)があるというのか」
「わずか髪一筋のちがいとはいえ、陛下の方に分がございましょう」
「わしはすでに百敗してきた」
「百敗の上にもう一敗を重ねられたところで、何のことがありましょう」

楚軍のほうでも、はげしく戦鼓が鳴った。
漢軍の先鋒は一撃で粉砕された。第二陣もたちまち崩れ、それらが退却して第三陣になだれこみ、いっせいに逃げはじめた。楚軍がそれを追い、思うまま斬ったり突いたりした。
劉邦も馬首をひるがえして逃げた。

烏江・項羽祠
烏江・項羽祠

◎烏江のほとり

「劉邦は、窮鼠(きゅうそ)になった」

「いますこしの辛抱だ。彭城に帰れば飽食させてやる」

張良は、元来、体が弱かった。
「平素、食べすぎているから」
「断穀(だんこく)」

「ばかな。死ぬぞ」
劉邦は学こそないがーーむしろ学がないからこそーー儒家(じゅか)であれ道家であれ学問がもっている虚構というものにはひっかからなかった。
「気だな」
無のひとつのあらわれとして気がある。

中原はすでに広域社会になってからの歴史が古く、血族中心主義だけではうまくゆかないことを知りすぎていた。

義という文字は、解字からいえば羊と我を複合して作られたとされる。
…「我を美しくする」「人が美しく舞う姿」

張良が密使をして項伯にいわせたことは、
ーー前途はどうなるか予断を許さない。あなたにとって楚が負けるなどはありえないことかもしれないが、もしそうなった場合、ためらいなしに私をたずねてきてもらいたい。一命にかえてあなたの身の立つようにする。
項伯は、感動したらしい。
「楚軍は項羽ひとりで保(も)っているようなものだ。実体は自壊してい」
ーー庶民が世の中で生きていくための必要不可欠なものとして息づいていたかたちでの「義」からいえば項伯の項羽に対する主従の義など拵(こしら)えもののように貧弱なものであった。個人のあいだで冥々裡(めいめいり)に相互扶助の密契を結んだほうがはるかに大きい。
「たれから、きいた」
「陛下もご存じの、項王の肉親にあたるお人です」
「項伯どのか」

漢軍には食糧があり、籠城(ろうじょう)が少々ながびいても苦痛はなかった。一方、攻囲軍のほうが餓えているという。
「楚軍が撤退すれば、陛下が天下を得られる機会は永久に去りましょう」

「わしは、沛に居るべきだった」
「項羽の敵ではないのだ」

「陛下」
しばらくして、張良はいった。この男はいつもそうだが、このとき気味わるいほどしずまりかえっていた。
「陛下にはただ一つだけ活路があります」
「活路が。ーー」

ーーあいつを拾ってやったのはおれだ。
ーー自分を斉王にしてくれ。
あのとき怒っていれば韓信は自立して第三勢力になったであろう。

項羽の欠陥は、外交がなかったことであろう。

ーー世に彭越ほどいやなやつがまたとあろうか。
ただ物欲だけで動いている。

張良には、物事はかくあらねばならぬという儒教主義はすこしもない。
(韓信・彭越から倫理を期待してはならない)

「陛下は、なお儒学的でございます」
「なにをいうか」
「それでもなお、韓信や彭越に義を期待しておられます。陛下は広大な徳を持たれるがゆえに天下の半ば以上が陛下を慕い、本来ゆるされるはずのないかつての叛将(はんしょう)もふだつきの悪党といわれた男も、陛下のもとで安んじて働いております」
劉邦が、後世、中国人の典型といわれたのも、このあたりであろう。
「わしはそれだけが取り柄だ」

「見えてきた」
劉邦は、突如叫んだ。
「天下を、韓信と彭越に呉(く)れてやってもいいということだ」
「よくお見えになりました」
「わしは、沛に帰るのか」

(両人は、よろこんでこれを受け、兵力をこぞって項羽を撃つべく参戦するだろう)
ただ張良は両人が、これを受けたことによって将来身を滅ぼすにいたるであろうことまでひそかに予測した。

ーーそれがしがはじめて陛下に見(まみ)えましたのは、留(りゅう)(江蘇省)の町の郊外でございました。あの町一つを頂戴できれば十分でございます。
張良はその無欲のために漢帝国成立後の攻臣の没落からまぬがれ、すべてのひとびとから敬愛された。そういう留侯張良の家でさえ二代はつづかなかった。張良の死後、その子、不疑(ふぎ)が不敬罪に問われ、封地を没収された。

項羽のまわりから、急に潮が退(ひ)きはじめたようであった。
「なんということだ」
「いずれ、とりもどす」

「ぜんぶ食ってしまえ」
「かまわん、食え」

(楚兵が敵に加わったのだ)

北方の韓信が三十万の兵をひきいていそぎ南下しているという。
それだけではなかった。彭越軍も降って涌いたように項羽軍の付近で動きはじめていた。
「そうか」
(もはや彭城には帰れない)

この間、劉邦は遠くから項羽とその軍の動静を用心ぶかく窺(うかが)っていた。
(なにをするつもりだろう)
(気でもくるったか)

ついに項羽の流儀でいう戦機に、劉邦は乗らなかった。

楚人は魚を食う。
それだけでも、猪(ぶた)や羊を食う中原のひとびとから異俗視もしくは蛮族視されていやしめられてきた。

たとえば楚人はコメを食う。
とくに江南の地は、イネが作った景色であった。

この炎にために、項羽は他人の心というものが見えにくかった。このことは項羽に政略や戦略という感覚を欠かせてしまったことと無縁ではない。
さらにこのことは、馬を愛し、女を愛することにもつながった。

感動のクライマックス
感動のクライマックス

楚兵が、勝った。
項羽は、悲痛だった。
(最後がきたらしい)

「あすだ」

ーーどうなされるのだろう。
側近のたれもが自分一個の運命よりも、項羽の身を案じた。

この時代の符ーー証文ーーは、竹か木であった。

初更(よい)がすぎ、項羽は虞姫(ぐき)を寝所にやった。やがて項羽も寝所に入るべく一同に背をむけたとき、肩が落ちていた。
ーー大王のあのようなうしろ姿をかつて見たことがない。
と、一同は青ざめる思いで、たがいに顔を見合わせた。

項羽は虞姫を抱いたまま熟睡した。
やがて乙夜(いつや)(夜九時から十一時まで)が過ぎるころ、眠りが浅くなった。
遠くで風が樹木を鳴らしている。風か、と思ったが、軍勢のざわめきのようでもあった。
(あれは、楚歌(そか)ではないか)
項羽は、跳ね起きた。武装をして城楼にのぼってみると、地に満ちた篝火(かがりび)が、そのまま満天の星につらなっている。歌は、この城内の者が歌っているのではなく、すべて城外の野から湧きあがっているのである。…楚の音律は悲しく、ときにむせぶようであり、ときに怨(えん)ずるようで、それを聴けばたれの耳にも楚歌であることがわかる。
しかも四面ことごとく楚歌であった。
ーーわが兵が、こうもおびただしく漢に味方したか。

「酒の支度をせよ」
みな、ともに飲もう
「酔うほどには飲むなよ」
「飲み了(お)えればめいめいが城を落ちるのだ。運を天にまかせ、いず方なりとも血路をひらいて落ちのびよ」
「まだあるか」
「酔え。ーー」

力は山を抜き 気は世を蓋(おお)ふ
時に利あらずして

騅(すい)逝(ゆ)かず

騅逝かざるを奈何(いかん)すべき
虞や虞や若(なんじ)を奈何せん

彼女が舞いおさめると項羽は剣を抜き、一刀で斬りさげ、とどめを刺した。

項羽の脱出は、すさまじいものであった。

ーーまさか項王ではあるまい。

「江南へ帰るのだ」

「黄金千金に加え一万戸の封地」

「諸公よ」
「わしは兵を挙げて以来、こんにちまで七十余戦を戦い、ことごとく勝った。そのわしがこんにちの窮境に立ちいったのは天がわしを滅ぼそうとしているからである」

「大王のお言葉のとおりでございます」

ーー天が、楚王項羽を滅ぼしたのだ。

「大王よ、早くこの船にお乗りくだされ」

(この男ならば、自分のやったことと、やろうとした志を長く世間に伝えてくれるだろう)

項羽の死は、紀元前二〇二年である。ときに、三十一歳であった。

◇あとがき
中国の政治は、ひとびとに食わせようということが第一義になっている。

劉邦の能力は、ひとがつい劉邦のために智恵をしぼりたくなるような人格的ふんいきを持っているということでもあったろうか。

あえて、一息に要約するなら『項羽と劉邦』は、人望とはなにかをめぐる明晰な考察の集大成なのである。

【感想】


項羽がすさまじい勢いで城から駆け逃げる姿が、瞼に浮かぶ、感動のクライマックス!!

日本ではまだ歴史も始まってもいない、紀元前の物語が、息づかいまでもが、生き生きと迫り、言葉では言い表せられないほどに、感動しました。

まさにタイムスリップした感じで、こんな物語に出会えたことに、感謝!!

3(102)軍師黒田官兵衛

3(102)軍師黒田官兵衛

高橋直樹著(潮出版社)

第一章 はたらき者の右腕
軍師黒田官兵衛





















夜更けの本陣に突如、鳴子板の音が鳴り渡った。
「佐吉、昨日、京の本能寺において安土様(織田信長)ご生害。討手は明智日向守(あけちひゅうがのかみ)」

「そこで安国寺です。あの坊主ならば、そこをうまくまとめるのです」



まだ毛利は信長の死を知らなかった。いまおれの目の前にあるこの書状が、本能寺の変を知らせる最初のものだった。

「その望遠鏡が官兵衛の秘物だな。武田は御旗(みはた)と楯無鎧(たてなしよろい)なんぞ秘物にしていたから、あっけなく滅んじまったんだ」

「おれも欲しいな、望遠鏡」
「ならば筑前殿もキリシタンにおなりなされ」
「キリシタンは側妻(そばめ)を認めんからなあ。とても俺には無理だ」


「このあきれ果てたる徒者(いたずらもの)、井口兵助(いぐちひょうすけ)と申します。数々の無礼の段、お詫びの言葉もございませぬ」


「問題は摂津衆の動きだ」

「摂津衆の背後には大和の筒井順慶(つついじゅんけい)がおりますからな」

「危ないところだったぞ、シモン」


「本来なら野良犬のように生き、野良犬のように死ぬ身でござった。その尾張のはたらき者が諸将と肩を並べるにまでに至ったのは、すべて上様のおかげ。その御恩の深さ、とうてい生きて報いるに道なし。なれどいま、その御恩の千分の一なりとも報いるべく、この藤吉郎、決心つかまつった」


「それがしが嫌いなのは、安土様のような人殺しでございます」


しかし秀吉は決して妥協しようとはしなかった。繰り返し官兵衛に告げた。このいくさは天下が見ている。次の天下人にふさわしいいくさを見せなければ、羽柴秀吉に天運は付いてこない、と。
「天運か」

「天運か」


「明智の使い番を一人、目立たぬように仕留めよ。そなた、明智の使い番になりすまして、追う手の斉藤内蔵助のもとに走るのだ」


今なぜ、黒田官兵衛なのか?

時代が最も激動した戦国時代、その大きなうねりのなかで、独自の生き方や考え方をもって魅力的に生きた人物はたくさんいます。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は誰もが知っている英雄ですが、それら三英傑の裏にはどんな人物がいたのか?
年表に刻まれている事件や合戦の背後には何があったのか?

たとえば今の時代は、アイドルグループそのものではなくその裏にいるプロデューサーが話題になったりする時代です。光の存在を裏で支えたり、プロデュースしたりしている影の存在に興味を抱く方も多いのではないでしょうか。 カリスマ的な英雄にスポットライトを当ててその時代を描くよりも、

その裏にいた等身大の人物たちを通して戦国という時代を描いてみたい。

そうすることでこれまでとは違う、新たな戦国時代が浮かび上がってくるのではないかと考えました。

今回の大河ドラマでは、織田信長や豊臣秀吉を裏で支えた黒田官兵衛の目線で戦国の乱世を描きます。

秀吉の天下取りを演出した天才軍師。兄弟で殺し合うこともあった戦国時代にありながら、命の大切さを説いた官兵衛。
生涯、側室をもたず妻だけを愛しつづけた官兵衛。

その才能や人物を知るほどに、今の時代に戦国時代を描くなら黒田官兵衛がもっともおもしろいのではないかと考えました。
官兵衛を演じるのは、今、最も油の乗り切った俳優、岡田准一さん。脚本は、骨太な人間描写に定評のある前川洋一さんです。戦国時代ならではの合戦シーンもダイナミックに描きます。

戦国乱世を終わらせるために突如現れた天才軍師。
武力ではなく智力を駆使し、
生涯1度も合戦で負けを知らなかった男。

2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』にぜひご期待ください。

 
姫路城

姫路城

第二章 目薬屋のせがれ一
 

山崎の合戦から十二年をさかのぼった元亀(げんき)元年(一五七〇)、黒田官兵衛は姫路で忙しい日々を送っていた。まだ二十五歳の若者だった
 
もし官兵衛が当時を振り返るなら、真っ先に思い出すのは、いつも山と積まれた請求書であったかもしれない。当時の黒田家の家計は、いつも火の車だった。
 
 


「この姫路は目当ての薬草を植えても、うまく育たないんだよなあ」

「実は若旦那、本日、こちらからうかがったのは内密の話があってのことにございます」


「若旦那、その二千斤の玉鋼、注文の主は織田上総介(かずさのすけ)(信長)様にございます。代金は全て生野(いくの)の銀でお支払下されます」


「馬鹿は悪人より始末が悪うございますからな」


「小坊主、そなたは今日から兵助(ひょうすけ)、と名乗れ」

「苗字は『井口』を名乗れ」


「お尋ねゆえ名乗らせていただきますが、あくまで情夫の首をお引き渡し下されたことへの礼儀としてお聞きくださいませ」

「安鈴(あんりん)と申します」

「若旦那、女難の相あり」


「おう、婿殿。息災で何より」

ーーあんた、公方のお血筋かい?

「織田殿と浅井朝倉との間で合戦が始まるそうだ。国友は浅井の居城の小谷(おだに)から近い。何か備えをしておいた方がいいぞ」


「石田佐吉にございます」

ーーなんて賢い小僧だ。

「四手(しで)を用意してください。」

「それがしの先祖は伊吹山寺の衆徒でした。先ほど石田殿の口から出た木之本に、それがしの先祖は居ったのです。木之本の『黒田』という所です」

「ならばわたしと同じです。官兵衛様。わたしの先祖も伊吹山の衆徒でした。いまもわが石田家は観音寺を預からせていただいております」


「千はいるな」

ーーこんなところで命をおとすのか。

ーー牢人はそんなもんだよ。
「おれは牢人じゃねえ、目薬屋だ」

「官兵衛、そなた、まだ織田家を知らぬな」

「目薬屋よりもいくさの方が向いているぞ、官兵衛」


それにしてもーー織田軍の不甲斐なさはなんたることであろうか。

「なんとしても食い止めよ。もし討ち死にを遂げたならば、必ず子を取り立ててつかわす。『家』を絶やすことは決してせぬぞ」
「嫌なこった」

「官兵衛、此処からでは磯野隊の動きが手を取るようにはわからん。何かないか」

「凄いな、官兵衛。奴らの鼻の穴までのぞけるぞ」

ーー奴ら、じきにばててくる。

「官兵衛はおれの期待に応えてくれる男だよ」


「このまま木下隊にいても手柄の機会がない」

「どうしたいのだ」

「官兵衛はん、あれを見なはれ。あのお侍たち、川を渡って敵の背後を衝こうと思とりまっせ」

「こんな貫禄のない大将は初めて見た」

さりげなくうかがえば、家康は人の良さそうな顔をしていた。ただのお人好しにしか見えなかった。ただしーー。ひとつだけ奇異に感じた点がある。

十一
「播州の国情について訊こう」

「播磨はいまも衆徒の国でございます」

「戦国大名が育たない理由を明らかに申し述べよ」


「汝の名、覚えておくぞ」

「播磨のボンクラどもめ」

ーー信長は必ずおれたちの世界へやってくる。問答無用だ。

だがいま官兵衛の心には、密かに救世主が宿り始めている。その救世主はバテレンの描くマリアやキリストとは似ても似つかぬ姿をしていた。
播磨戦国史
播磨戦国史

第三章 鳴動する大地


ーーいや、ボンクラどもは目をそむけているだけだ。

「官兵衛殿、筑前殿を助けてその日を待つべし。岐阜殿が倒れるその日を」

「何を申すか、官兵衛殿。坊主の修行なんの役にも立たぬことなど、御辺は百も承知であろう。だがわしは清僧。わしが岐阜殿を恐れのない眼で見ることができるのはそのおかげじゃ」


「官兵衛はん、女に振られはったんか」

「羽柴の手先になって鼠みたいに走りまわるというんか。羽柴は誰の家来じゃ。信長の家来やろ。あんたはんのやろうとしていることは、けっきょく織田の手先になるということや」


「運がいい奴はその運に頼らないものですよ」

「官兵衛と荒木殿との連絡は全てわしを通して行われるはずだが」

「婿殿、この左京亮の許しもなく別所家と交渉するとはいかなる了見だ」

「播磨は衆徒の国。それを忘れては、この国は立ちいかぬはず。衆徒の本分は合議詮議。よって播磨の行く末は国人衆みな集ったこの会盟にかかっており申す」

「織田殿に差し出す人質は、これなる小寺(黒田)官兵衛の子、松寿(しょうじゅ)とする」

「なぜ孫衛門の子ではないのだ」


「おやじ殿、一番大切なのは、播磨のボンクラどもに、この官兵衛がどれほどのいくさができるのか、見せつけることです。見せつけぬことには、この播磨をあやつれませぬ。ボンクラどもに二度と『小才子野郎』とは言わせませぬよ、おやじ殿」

「松明を乱すな」

「こちらの方から攻めかかるんだ。今夜中に毛利を英賀(あが)から叩き出すぞ」

「安鈴、おまえ、おれに合わせる顔があるのか」

官兵衛の腕にすがった安鈴は、もはや官兵衛の為すがままだった。

「おれは琉球で何が流行っているのか知らん」


「安鈴の首を取ってこい。今すぐ追手を放て」

ーー秀吉とはずいぶん違うな。

別所氏に手柄を立てる機会を与えてはならなかった。

ーーなぜ召集地を平井山にしなかったのか。

「うぬが出しゃばり過ぎたせいで、別所が裏切ったのじゃ。播州平定が一からやり直しになってしもうたぞ。この落とし前、どう付けるんじゃ、この小才子野郎」

「羽柴家に人物多しといえども、真に筑前様のお役に立てるのは、官兵衛様とそれがしの二人きりです」


ーー別所は長くは持たぬ。

代わりに孤立したのは、播磨に進駐した羽柴軍だ。西(毛利)も東(荒木と本願寺)も敵となって身動きが取れなくなってしまった。

「だがそんなものに引っ掛かるか、あの弥助が」
「わからん」

ーー播磨兵乱の責任は官兵衛にある。彼にも言い分はあるだろうが、結果として播磨のほとんど全ての国人を毛利に寝返らせてしまったのは、官兵衛の不始末の何物でもない。よって官兵衛が自力でこの不始末を解決するまでは、その申し開きを聞く気は一切ない。


「敵である羽柴小一郎がシモンを殺せ、と頼んできたのだ。敵の頼みを訊く馬鹿はおるまい」
問答無用に捕らえられた官兵衛は、殺されもせずに牢に放りこまれた。官兵衛は唖然とする。


そのとき加兵衛様は「もうしくじるんじゃないぞ」とおっしゃっれた。おれも今度こそはしくじるまいと心を決めたよ。でも、官兵衛、人間は同じ過ちを繰り返さないほど賢くはない。人は一度やった過ちを繰り返すようにできて、いるんだよ。だからその一貫文もしくじって失ってしまった。どんなしくじりをやったのかは、いちいち手紙には書き切れない。今度会ったときに話してやる。きっと話してやるよ。


「せがれを返してくだされ」

「摂津守殿、ただただお願いいたす。せがれを返してくだされ」


ーー官兵衛、よい父親を持ったな。

ーーなんて外は寒いんだ。
一年ぶりの沙婆の空気は何と冷たいことか。

「小一郎は筑前殿のたった一人の弟なのだ」


●上月合戦 上月城主作用氏は赤松氏の一族であった。戦国時代、赤松宗家より政元を養子に迎え、政元は上月城主となった。その子政範の代に織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。
 天正五年(1577)十一月二十七日、秀吉軍は黒田孝高を先陣に政範らの拠る上月城に押し寄せた。政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は兵三千で来援させた。秀吉軍と宇喜多軍両軍の激戦八度、戦いは日没にいたって漸く終わり、敗れた宇喜多勢は上月城に入った。
 秀吉は宇喜多の援軍を撃退した後、さらに城を攻略、城中では降伏を申し出たが許されず、十二月三日、城主政範は妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。秀吉軍は城内に突入ことごとく残兵の首をはねたという。

●三木合戦 別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。長治は信長から中国征伐の先導を命ぜられ、総大将秀吉の下で、その期待にこたえ、秀吉は約一ケ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年、再び播磨に兵を繰り出してきた。
 ところが、長治は突然、毛利氏に転じ秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。
 その原因は、叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させ、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したが納れられず、長治のもとに戻った吉親は、長治に信長と手を切るように献策したとする説が流布しているが、長治は、丹波の波多野氏と姻戚関係にあったこと、荒木村重が信長に謀叛お起こしたこと。そして、それらの制圧における信長の対応に対して、長治は深く危惧を抱いたのではなかろうか。  いずれにせよ、三木城の籠城戦に敗れたことで、別所氏の嫡流が絶えたことは紛れもない歴史の事実である。

●長水合戦 天正四年(1576)、織田信長はその部将豊臣秀吉に中国地方の平定を命じた。これに対して、播磨国内の諸豪族のうち、赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約していた。一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否していた。秀吉の播磨平定は順調に進むかとみえたが、別所長治が秀吉にそむき、戦線は膠着状態にはいっていった。
 しかし、天正八年三木城が落城して別所長治は自殺し、英賀城の三木氏も降された。こうして秀吉の攻撃目標は長水山城に向けられた。天正八年、秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。
 籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は攻撃を開始し、城塞は炎上し、長水山城は落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。

荒木村重
荒木村重

荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ[1]、先祖は藤原秀郷である。

池田・織田家臣時代

天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

天正2年(1574年)11月5日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

その後も信長に従い石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。

紀の川
紀の川

第四章 天下の潮流


たとえ不出世の英雄であっても、その人生がほんとうに輝く時は、はかないほど短いのかもしれない。

ーーあの猿が信長のようなまねはするまい。

ーー所詮は商人。これからの天下を動かすのは武将でございますからな。

「呆気ないな」
官兵衛の唇から洩れる。
ーーこれが雑賀衆(さいかしゅう)の最期か。


村重は長政へ伝える。
「本能寺の変を起こしたときの、明智日向守(光秀)の心の中じゃ。あのときの光秀の気持ちがわかったのは、この世にわし一人であったろう、いま生きて人に伝えられるのもわし一人。なれどあの気持ちは言葉では伝えきれぬ。わしから口で伝えられるのは、武家をなめるな、ということだけだ。たとえ抜きんでた才覚の持ち主であったとしても、それだけでは武将は務まらぬ。だから光秀もわしもしくじった。信長公が特別だ、などと思わぬ方がいいぞ。君主とはみな同じだ。いや、君主になればみな同じになるーー」


「有岡城の牢内で最初の歯が抜けました。それから一本、また一本と抜けていきます。まだ四十になったばかりなのに。この官兵衛が筑前殿より長く生きることはございますまい。次にいかなる天下が訪れるかなど、それがしには見当も付きませぬ。また付ける必要もないと思っています」

紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流。河川法上の名称は「紀の川」であるが、国土地理院の25,000分の1地形図では「の」が小さなカタカナで「紀ノ川」と記載されている。

雑賀衆
雑賀衆

「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」
戦国時代、実際に言われていた言葉です。
戦国最強の鉄砲傭兵集団 「雑賀衆」、それは 大名家 とも 寺社勢力 とも異なる特殊な集団でした。
そして伝説の鉄砲使い 「雑賀孫市)」 が率いた集団としても有名ですね。さて、そんな 「雑賀衆」 とはどのような勢力だったのでしょうか・・・?
雑賀衆は、紀伊半島の南西部を支配していた勢力です。
紀伊半島は大きな半島ですが・・・ その大半は険しい山々に覆われ、海岸も絶壁になっている場所が多いため、当時は人が住むのに適した場所は限られていました。
しかし、大阪の南の一帯 (現在の和歌山市の辺り) には 「紀ノ川」 と呼ばれる大河があり、その周辺には肥沃な土地が広がっていたため、ここに多くの人々が住んでいました。
この人々が、「雑賀衆」 と呼ばれる集団となります。紀伊半島の山々からは多くの鉱石や木材を得る事ができたため、この地域では 鍛冶 や 林業 などの工業技術が発達していました。
さらに、雑賀の里は 瀬戸内海 と 太平洋 を結ぶ海運に適した土地でもあったため、古くから 漁業 や 貿易業 などが盛んに行われていました。
こうした土地がらのため、雑賀では山で働く人々、森で働く人々、海で働く人々など、それぞれの職人達の組合のようなものが出来ていきます。
そしてそれらの集まりの代表が相互に協力して運営されていた「共同体」でした。よって、雑賀衆は実際には1つの勢力ではなく、小勢力の総称と言えます。
実際、戦国時代の雑賀衆は大きく分けて5つの、土地ごとの組合のようなものに分かれており、それぞれが独自に行動していました。また、雑賀衆の近くには 「根来衆」 と呼ばれる小勢力も存在しており、これも紀伊半島南部に独自の支配力を持っていました。

織田信長 が 「本能寺の変」 で 明智光秀 に討たれ、豊臣秀吉 の時代が来ると、雑賀衆も滅亡に向かっていく事になります。
織田信長 の死後、豊臣秀吉 がその後を継ぎ、覇権を握りました。
しかしその 豊臣秀吉 は、雑賀衆・根来衆 が持っていた紀伊半島の独自の支配を認めようとしませんでした。
秀吉 は「検地です。
しかし 豊臣秀吉 は統一した制度で日本を統治しようとしていたため、「特例」は認めませんでした。
こうして、秀吉 と 雑賀衆・根来衆 は対立を始めます。そんな頃、豊臣秀吉 と 徳川家康 が対立関係となり、徳川家康が 雑賀衆・根来衆 に傭兵としての援軍を求めました。
こうして、「太田党」 を主導とする 雑賀衆 と 根来衆 は、秀吉 と 家康 が戦っている間に(小牧・長久手の戦い)、紀伊半島の 豊臣家 の城を攻撃し、秀吉軍 の背後を脅かします。
しかしこの戦いは、秀吉 と 家康 が講和をする形で決着。
その後、豊臣秀吉 は敵対行動を取った 雑賀衆 の討伐を決意雑賀・根来討伐の 秀吉軍 は、かつての信長の侵攻の時と同じく約十万の大軍。
一方、雑賀・根来軍 は合わせて2万程度でしたが、鉄砲 を使った篭城戦で迎え撃とうとします。しかし、根来衆 と 秀吉軍 の戦いは、当初は 根来衆 が優勢だったものの、秀吉軍 の放った火矢が根来衆の城の火薬庫に引火して城ごと大爆発!
これを皮切りに各地の根来衆の城も 陥落・降伏 して行き、本拠地の 「根来寺」 も炎上、多勢に無勢で 「根来衆」 は滅亡してしまいます。残った 雑賀衆 も次々と 秀吉軍 に降伏。
そもそも 雑賀衆 は、宗教勢力として強い団結力を持っていた 「根来衆」 と比べると結びつきが弱く、それでなくても分裂状態でしたから、それほど強硬な抵抗は見せませんでした。
しかし、雑賀衆 の 「太田党」 の中心勢力は、秀吉 に徹底抗戦の構えを見せます。
秀吉 はこの 「太田党」 を降伏させるべく、すでに配下となっていた 「雑賀孫市」 を説得に向かわせますが、太田党 は応じません。
彼らは 「太田城」 に篭城し、さらに謎の兵器 「飛んできて火炎と煙を噴出す筒」(手榴弾?)を使って 秀吉軍 の先陣を撃退します。そこで 秀吉 は十数万人という大勢の人夫を使って 太田城 の周りに堤防を作り、水を引き込んで城を 「水攻め」 にします。
堤防が完成したタイミングで大雨も降り、太田城は水上の孤城となって、ついに兵糧もなくなります。
万策尽きた 太田党 の武将達は自害し、城兵は降伏、こうして独自勢力としての雑賀衆は滅亡する事となりました・・・

有岡城
有岡城

伊丹城(いたみじょう)は、有岡城(ありおかじょう)ともいう兵庫県伊丹市にある城。国の史跡に指定されている。

南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築され、文明4年(1472年)には改築され、それまでの伊丹城が日本最古の天守台を持つ平城となった。

しかし、天正2年11月5日(1574年11月18日)、荒木村重によって攻め落とされ、のちに伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。

荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城することになる。

大坂城や江戸城などにもあった惣構えの最古(2005年現在)の遺構が発掘された。城の東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、これらの河川が天然の要害となっていた。

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。

天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城してしまった。織田信長に謀反を起こしたのである。

石田三成
石田三成

第五章 蚊帳の中

だが三人目の御拾(おひろい)は前の二人と違って、大変に元気な赤ん坊だった。
ーーこの子は無事に育つ。
そう確信したときから、秀吉は狂いはじめたのだ。

秀吉はこの年、すでに六十二才。当時としてはすでに老境だ。
しかしーーと、如水は絶句した。
いまは如水よりも老けて見える。すでに大半の歯が抜けてしまった如水よりも、老人の顔になっていた。病のせいで衰えの早い如水を、一足飛びに越えて秀吉は衰えていったのだ。

血の粛清を伴う弾圧はときに必要だ、と如水は考えている。しかし秀吉の弾圧は、天下に何も生もうとはしなかった。額の汗をぬぐった如水の暗鬱な眼差しが、警固兵の囲まれてかりそめの平和を楽しむ父子へ向けられる。

その家康の顔には、如水も覚えがあった。あれは姉川の合戦の時だから、もう三十年近くも前のことだ。
「徳川殿」
「殿下」
「秀頼のことを頼み申す」

「あそこに不忠者がおる」
「うぬ、今朝がた中納言様に供奉したとき、中納言様のからくり人形を持とうとしなかったであろう。他の大名たちがみなその役を乞うて進み出たにもかかわらず、うぬひとり知らぬ顔であった。この秀吉が知らぬまま見過ごしているとでも思ったか、この唐瘡野郎。不忠じゃ。中納言様に不忠じゃ」
「目障りじゃ、去れ」
これが如水の聞いた、秀吉の最後の言葉だった。

「治部殿」
「佐吉、とお呼び捨てくだされ」
「御隠居」
「お気づきにございましょう。徳川の魂胆」
「もうわしにできることは何もない」
「まさか殿下の御恩を忘れたわけではありますまいな、御隠居」
「佐吉」
「家康とは喧嘩をせぬことだ」
「御隠居、お待ちください」
「右の袖をご覧ください、御隠居」
「よろしければそのカブトムシ、お持ち帰りになりませんか。確か御隠居はカブトムシがお好きなはず。むかしそううかがったことを覚えています」


石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。
関が原の戦いにおいて西軍側の総大将として認知されているが、実際は総大将ではなく主導者である。

10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。

辞世の句
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
 ともに消えゆく 我が身なりけり

中津城
中津城

第六章 風雲の軍配


慶長三年(一五九八)八月十八日、豊臣秀吉はこの世を去った。黒田如水は思いもよらず、次の天下を生きてその眼で見ることになった。

秀吉の死から二年後の慶長五年九月に、関ヶ原の合戦が起こった。だが後世に華々しく伝えられたこの合戦の裏で、黒田如水の合戦が行われていたのだ。

如水は上方からの情報を逐一居城の中津へ送らせていたにもかかわらす、己の手の内は決して上方に知らせようとはしなかった。

ーーおれは播州牢人の目薬屋だ。田畑にしがみついてその物なりの分しか食わせられない、商売も交易も知らぬ頼朝の子孫たちとは違う。

「その方、初めての者であろう」
「この若造、井口兵助に似ておらんか」
「兵助の奴、うまくやっているだろうか」
「やはりこの若造、兵助に似ているよ」
ーー兵助ではない。
「名を聞こう」


「牢人衆の頭は何者であった」
「それがし、そのおり雑賀衆とも取引をいたしました。棟梁の孫一殿にお目にかかったこともございます」
「大殿、本物の孫一殿にございました」
「六郎ーーか」

ーー孫一、おまえの願いが叶うことはなさそうだ。

ーーまるで棺桶で運ばれていく老いぼれだ。

ーーおれはどこまで行けるのか。

ーーどうしておれはあのとき安鈴を抱いてしまったのだろう。
あの過ちさえなければ、と思わぬ日もなかった。

ーー人は養生に気を使えば八十まで生きられる。八十まで生きれば、それだけ多くの機会に恵まれる。酒や女に身を持ち崩すほど愚かなことはない。


「おまえ、眼つきが悪いな」
「そりゃ、眼つきの悪くなる暮らしをしてきましたから」
「天を恨むな、半三郎」
「むかし太閤に言われたことがある。誰かにひどい目に遭わされた時は、自分の何が悪かったのか、それを考えろ。ひどい目に遭わせた相手を妬むんじゃない、とな」

「大殿、ひとつうかがってもよろしいですか」
「太閤はその教えを守れたのですか」
「守れなかったさ」
如水はにっこり笑って答えた。
「人はみな自分の教えすら守れないのだ。太閤も、そしてこの如水も」

如水の寿命は、もってあと五年だ。
ーーいや、もっと短いかもしれない。
「やはり、無理か」
破顔した如水が竹筒の冷たい水を、ごくごくとあおる。
「ならば、この辺でくたばるか」
心地よげにそうつぶやいた。


黒田、細川、小笠原、奥平氏とつづく居城跡

中津城は、豊臣秀吉より豊前6郡を拝領した黒田孝高(如水)が山国川(当時高瀬川)河口の地に築城したのが始まりです。城郭の形が扇の形をしていたことから「扇城」とも呼ばれていました。現在の天守閣は、昭和39年に建設されたものです。

天守閣内には、衣装、刀剣、陣道具、古絵図、古文書など奥平家に関する歴史資料が展示されています。

杵築城
杵築城


二十年前のぬかりのない配慮が、いま生きようとしている。
「あの杵築(きづき)城代ならば、おれの期待通りに動けるはずだ」

このたびの合戦の如水の策は「黒田勢が大軍であることを隠して大友軍を石垣原におびき出し、野戦に持ち込んで一気に決着を付ける」

あわよくばーーと如水は密かにたくらんでいる。三成に代わって徳川家康と関ヶ原でまみえることはできぬものか、と。
このたくらみを目の前で輿を担いでいる本田半三郎に聞かせてやったら、どんな顔をするだろう。気が狂ったか、と言うかもしれない。
ふふ、と如水は歯のない口で笑う。いくさを前にして笑えるのは、これが初めてだ。

じつは如水が大軍より先に大友本陣へ送ったものがある。講和を持ちかける直筆の書状だ。如水がいくさを避けたがっている印象を与え、大友方の油断を誘ったのだ。


ーーもしや、その鉄砲、雑賀筒では。

「大殿、石垣の向こうは深い窪地になっております。お味方の者、戻らないのではなく、戻れないのです」
「なんだと」
「誤った軍配を下したのはこの如水だ」

驚いた栗山四郎右衛門が背後から如水を羽交い締めに止めてきた。
「これが黒田如水のいくさであるものか」

ーー何と似てきたことよ、宗円様に

本来不利なはずの下から上への銃撃で、黒田方の鉄砲が圧倒していた。

「勝ったぞ」

「どうして狙いを外したのだ」
「お返しや」
「むかし、英賀(あが)の合戦のとき、わしを見逃してくれたやろ。あんときのお返しや」

「まさか」と如水の唇が刻む。
ーー関ヶ原の決着、もう付いてしまったのではあるまいな。
「徳川殿の勝ちにございます」
「佐吉、だらしないぞ」


杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった城郭。

杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。 当初は台山山城に主郭部が設けられたが、慶長元年(1596年)の震災と、慶長2年(1597年)の暴風雨によって天守などが損壊したため、台山北麓に居館が移され、正保2年(1645年)以降は松平氏により山上の郭群が廃止されている。

戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。城跡は、公園として整備され、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が建てられている。

明徳4年(1393年)に、木付頼直により築かれた。戦国時代、島津氏の大軍に攻められるが、籠城の末これを退けた。しかし、後に主君の大友義統が文禄の役での失態の責めを負って豊臣秀吉により幽閉されると、当主木付統直は自刃し木付氏も滅びた。

その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。その後、正保2年には松平英親(能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、その後明治維新まで居を構えた。

現在、山上は城山公園として整備され、一部石垣が残る。天守は慶長13年(1608年)に落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。山麓居館部は、現在の杵築神社、杵築中学校一帯に位置し、神社北側に石垣が残っている。御殿跡には現在図書館と公民館が建つが、庭園の遺構が残る。また、旧城内城鼻地区に旧船形屋敷が現存し、現在は民家として利用されている。このほかに、藩校学習館の正門が、杵築小学校の裏門として現存している。

黒田長政
黒田長政


ーー今後は勝手なことをしないでくれよ。もう父上の時代は終わったのだ。

長政の黒田家は五十二万石の大大名になった。

「おれの死後も決して兵助を粗末には扱うな」

「もしいくさのない世が来たならば、おまえはどうするつもりだ」
兵助「むかし安土で松寿様にお仕えしていたとき、よく安土様(織田信長)が相撲の興行をなさっていられました。大殿、相撲で食えないものですかね。そう言う世が来たならば、おれもいま少しまともに生きられるんじゃないかと思います」
如水は胸が詰まるようだった。兵助に人殺しをさせてきたのは如水だ。
「そういう世が来ればいいな」

長政にはどうしても如水に訊いておかねばならぬことがあった。しばらく咳払いしたあと「大殿」と意を決して尋ねる。
「石垣原の合戦で大殿が集められた大勢の牢人たちのことにございますが」
千人を越えていたはずだ。
ーーいったいその牢人たちはどこへ行ってしまったのか。
「牢人など、もう一人もおらん」
「おれは隠居だ、長政」
「だから、筑前五十二万石はおまえの好きにせよ。おれは隠居料もいらん」


黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。

豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。九州征伐の功績で中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いで大きな戦功を挙げたことから、筑前名島に52万3,000石を与えられ、福岡藩初代藩主になった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

生涯

織田家の人質時代

永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。幼名は松寿丸。天正5年(1577年)から織田信長への人質として、織田家家臣の羽柴秀吉に預けられ、その居城・近江国長浜城にて過ごした。

天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻す(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させる為に伊丹城(有岡城)へ乗り込むも逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ父を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになってしまった。ところが、父の親友の竹中重治が密かに竹中氏の居城・岩手山城に松寿丸を匿い、信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせた為、からくも一命を助けられている。やがて有岡城の陥落後、救出されて疑念の晴れた父とともに姫路へ帰郷できた。

羽柴(豊臣)家臣時代

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、中国地方の毛利氏と戦った(備中高松城の戦い)。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、河内国に450石を与えられる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆、根来衆、長宗我部水軍と戦った。その功績により、2千石を与えられる。

天正15年(1587年)の九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を与えられた。天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。

慶長5年(1600年)に家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦における黒田隊の活躍は凄まじく、切り込み隊長として西軍に猛攻を加え、東軍をしばしば敗走させた石田三成の家老・島左近を戦闘不能に追い込み、進軍を迷っていた小早川秀秋を一喝して突撃させ、西軍敗走の端緒を作り出している。さらに長政は調略においても西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの功により戦後、家康から一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前名島(福岡)に表高52万3千石、実高では100万石とされる大国を与えられた。


江戸時代

慶長8年(1603年)、従四位下、筑前守に叙任される。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城の留守居を務め、代理として嫡男の黒田忠之が出陣。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では2代将軍・徳川秀忠に属して豊臣方と戦った。

元和9年(1623年)8月4日、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京したが、まもなく発病して京都知恩寺で、56歳で死去。跡を長男・忠之が継いだ。

辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」である。

黒田官兵衛孝高
黒田官兵衛孝高

「山の風流が見たい」

「景気はどうじゃ」
「大殿様のおかげにて」

「参るぞ」

「風流じゃ」

「むかし太閤から言われたものだよ。おまえは平城の縄張りは得意だが、山城の縄張りはできるのか、と」
「どうだ」

静まりかえっていた山城から、永楽通宝を染め抜いた黒田の旗が、一斉に掲げられた。
「いつでもいくさできるぞ」
まだ如水の眼は死んでいなかった。
(完)


黒田官兵衛孝高(よしたか)
天文15(1546)〜慶長9(1604)

播州御着城主小寺氏の家老、黒田(小寺)職隆の長男として播州姫路城で生まれる。

若年から小寺氏の家老として卓越した戦略眼で播州の諸豪族に恐れられた。

羽柴秀吉率いる織田家中国方面軍が播州に入ると自ら進んで居城姫路を秀吉に提供、さらにその先導役を務めて近隣諸勢力の懐柔を行った。

しかし天正6(1578)年、信長に反旗を翻した荒木村重を説得するために摂津有岡城に出向き、そこで捕えられ約1年の間石牢に
閉じ込められてしまう。
陽も射さない劣悪な環境に置かれて唐瘡(梅毒)が発病、有岡城が落城し、1年ぶりに救出された時は頭髪は砂利禿げになり、足は曲がったまま立てなくなって、以降杖を突きびっこを引いて歩くことになる。

秀吉の右腕だった竹中半兵衛が播州三木城攻めの途中で結核により陣没した後は軍師として秀吉の天下取りに貢献する。

だがその謀才が仇となり、秀吉の天下統一後は警戒され、貢献の割には豊前中津12万石というぱっとしない石高しか与えられな
かった。

秀吉から警戒されていることを敏感に察知した官兵衛は隠居を申し出、出家して如水と号す。だが隠居はしたが領国に引っ込む
ことは許されず、秀吉の側に仕え続けた。

関が原の合戦では息子の長政が小早川秀秋を寝返らせるという大殊勲を立て、一躍筑前52万石に封ぜられ、長政の世話になりな
がら如水は穏やかな晩年をすごした。
 

4(103)邪馬台国は瀬高に!

4(103)邪馬台国は瀬高に!

邪馬台国は瀬高に!

誰にも書けなかった「邪馬台国」
村山健治著

◎序章 自転車で探した邪馬台国

詩人北原白秋は、ふるさとの筑後山門をこう歌った。

 


山門はも うまし耶馬台(やまと)
いにしへの 卑弥呼が国
水清く、野の広らを稲豊(ゆた)に 酒を醸(かも)して

菜は多(さわ)に 油しぼりて
幸(さちお)ふや 潟の貢と 珍(うづ)の貝
ま珠。照る鮨(はた)。
見さくるや童(わらべ)が眉に、
霞引く女山(ぞやま)。清水。
朝光(あさかげ)よ雲居立ち立ち
夕光(ゆうかげ)よ潮(しお)満ち満つ
げにここは耶馬台(やまと)の国、
不知火や筑紫潟、

我が郷(さと)は義しや。

「なしけん、そげん邪馬台国にとっ憑かれたかんも」

「産女谷(うぐめだに)に行っちゃでけんばん。あすこに行くと、ウンダカショにとり憑かれるけんのう」

「これはのう、昔の昔の大昔からの言い伝えじゃけん、忘れんごつしとかやんばん」

平野部に限っていうと、微高地からしか遺物は出ないのである。なぜそうなのか。

「郷土史家は偏狭な郷土愛のために、歪んだ目で郷土の過去を見る」
ーーしかし現在では、山門郡だけという狭義なものでなく、八女郡南部から熊本県の菊池郡あたりまでが、三世紀の邪馬台国であり、その王城の地が山門郡瀬高町の大塚だった、というふうに変わってきている。

「どうにも生活できんごとなりましたけん、別れましょう。私は子供ば連れて家を出ます」
「別れてから、どうやって生きていく」
「どうにもならんごつなったら、ボロ買いでもします」
「これだ」
「ボロ買いなら、おれがしてもよか……」

【先土器時代の区分表】
新石器時代

中石器時代 1万年前

旧石器時代
(上部) 4万年前 尖頭器 細石器

(中部) 8万年前 ナイフ形石器 刃器

(下部) 60万年前 敲打器

住居跡には必ず湧水地がある。川水は増水で汚れたりして、飲用に適さないためであろう。旧石器や縄文の頃だと、湧水地に鳥獣が集まるのを取ったりもしたと考えられるから、その近くに居住することは利点が大きかったはずである。

青磁とは磁器、それも高級品である。青磁は宋の時代に中国で作られた。青磁は高価なものである。青磁が出土するというのは、その場所に強大な権力や富があったことを意味する。まして、中国製の古い青磁が出てくれば、古い時代にそれだけの力がその土地にあった、という証拠となる。

洪積世初期(約六十万年前)、樺太、日本、台湾は大陸と地つづきで、東シナ海は陸地で、日本海の中心部は大きな湖だったという。第三氷河期(約二十万年前)には、陸地がだいぶ後退したが、樺太から九州までは長い地つづきで、九州は朝鮮と、樺太は沿海州と、まだつながっていた。有明海などももちろんありは、しなかった。

旧石器時代に阿蘇山が大噴火でできた。そのとき、陸地の一部が陥没して海となったのが、今の有明海だといわれている。

「人間ちゅうものは、真面目に生きとれば、天の助けがある。ちょうどよかときに、よか仕事が転がり込んできたたい。ま、それもこれも遺跡と付き合うたおかげばい」
「付き合わんだったら、もっと楽に生きられたと思いますよ」
私の入院生活は二年間つづくのだが、この期間が、家内にとっては一番安穏な日々であったろうと思う。
 
魏志倭人伝
魏志倭人伝


倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。


始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。


又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。


又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。


東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。


南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。


次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。


その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。


男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。


その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。


倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲にはヘン豆を用い、手もて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。


その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。その木にはダン杼・豫樟・ホウ・櫪・投・僵・烏号・楓香あり。その竹には篠・カン・桃支。薑・橘・椒・ジョウ荷あるも、以て滋味となすを知らず。ジ猿・黒雉あり。


その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。


女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。


その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 


女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。


景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。


汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。


正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。


その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。


その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。


卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。


更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。


壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

邪馬台国への道
邪馬台国への道

第二章 邪馬台国時代の筑後山門

◎『魏書東夷伝倭人ノ条』
弥生時代後期の三世紀頃
陳寿(ちんじゅ)「魏志倭人伝」
倭人は帯方の東南大海の中に在り。
山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。
旧(もと)百余国。漢の時、朝見する者有り。
今、使訳通ずる所三十国。
郡(帯方郡)より倭に至るには、海岸に循って水行す。韓国を経て乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に至る七千里。

(朝鮮)
●帯方(たいほう)郡(京城)

↓七千里

●狗邪(くや)韓国(金治)

↓始めて一海を渡ること千里

●対馬国<千余戸>

↓また南に一海を渡ること千里

●一支国(壱岐)<三千余戸>

↓又一海を渡ること千里

●末廬(まつろ)国(松浦)<四千余戸>

\東南に陸行すること五百里

ーー●伊都(いと)国<千余戸>

ーーー\東南して奴国に至る百里

ーーーー●奴国(なこく)(那珂)<二万余戸>

東行して不弥国に至る百里

ーーーーー→●不弥国 <千余戸>

水行二十日 ↓

ーーーーー●投馬国(久留米)<五万余戸>

水行二十日← →陸路一月

↓ーーーーーーー↓南して邪馬台国に至る

●黒崎→→●邪馬台国(瀬高町)<七万余戸>
ーーーーー[女王の都する所]

ーーーーーーー狗奴国(菊池郡)

藤ノ尾車塚古墳
藤ノ尾車塚古墳

第三章 語りかける遺跡

「村山健治らが盗掘中」

盗掘品などを金で買って持っている人は、必ずいつかは不幸に見舞われる。

弥生土器が自家消費のため消費者が手作りしたのに対し、土師器と須恵器は専業者がロクロによって形を作り、登りガマによって大量生産されたものである。土師器が弥生土器の手法を発展させたものであり、須恵器が朝鮮半島から伝来した製法である。

邪馬台国比定について、学説は大学ごとにまとまっている。不思議でならない。
「たかが郷土史家のくせに生意気な」
そのよう郷土史家と大学教授の違いは、歴史研究によって給与を受けているかいないか、それだけのことである。

長い大規模な溝であった。その幅は五メートルないし6メートル、発掘部分の長さは東西に百メートル、西端から六十メートルくらいから、溝は内角約百六十度で南に向けて曲がりはじめていた。

邪馬台国の人々は、竪穴式住居を造るのに、地表からニ五センチないし三〇センチを掘り下げた。草ぶき屋根の、ちょうどテントを張ったような家だった。部屋中央に炉、南壁に貯蔵用の小穴を設けて、暮らしていたのだ。炊事用の流しがあった住居跡もある。弥生後期になれば、『魏志倭人伝』にいう「大人」は、高床式の家に住んだかもしれないが、一般人「下戸」は竪穴生活だった。竪穴式住居は平安時代までつづいたのだ。

「大人は皆四、五婦、下戸も或いは二、三婦」

土師器
土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代〜奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。
 

須恵器
須恵器

須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器( 器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、重宝された。


 

竪穴式住居
竪穴式住居

竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ、英: pit-house, pit-dwelling)は、地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。なお、「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)と表記することもある。
 

七支刀
七支刀

第四章 「通行証」と「七支刀」の謎

●魏の公用旅行証明書
藤の尾遺跡で
「こりゃあ、なんじゃろうか」
「齊○○○十一月六日」
「そうだ、もしかすると」

魏に齊王という帝王がいた。
二四〇年から二五三年まで在位。
児玉幸多編「日本史年表」に、二四五年に魏の齊王が倭国使に物を下賜したと、載っている。邪馬台国女王卑弥呼は、二四〇〜二四八年に死んだとされている。
私はこれを石製のパスポート、つまり通行証と判断した。

投馬国政府や邪馬台国政府は、あらかじめ魏政府から対照用通行証の下付を受けていたに違いない。

「私は帯方郡から参りました魏の使いでございます。邪馬台国へ行く途中です」
「遠路はるばるご苦労さまでございます。必要なことがございましたら、なんなりとお申し付け下さい」
「倭の人々は礼儀正しく、争いごとも少なく、君子の国だ」

●七支刀は魏王の下賜品か
奈良県天理市に石上神社「イソノカミ」
「七支刀」(ななつさやのたち)

当時の日本は朝鮮半島の百済を支援していた。『百済記』によると、三六七年には日本は百済と共同して新羅を討った。三六九年にはまた軍を送り、北の高句麗軍の侵攻に苦しむ百済を元気づけた。その二年後には高句麗の都平壌に攻め込み、高句麗王を戦死させたのである。
百済の王は日本に感謝し、三六二年に七支刀と七支鏡を日本王に贈った。

瀬高町大字大神字長島(おさじま)
七軒の民家に守られるように
「こうやの宮」がある。
手に鏡を持った乙姫、
服装が中国風と受け取れる武神、
注意深くその刀を見ていただきたい。お解りであろう。まぎれもなく七支刀である。

百済(375年)
百済(375年)

百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余=徐族[1]による国家(346年[2] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

歴史

百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。

建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説まで様々な説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。

通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国

水行十日陸行一月
水行十日陸行一月

第五章 私の「水行十日陸行一月」論

●「邪馬台国」筑後山門説
江戸時代の本居宣長は山門郡説を唱えている。
明治では星野亘氏
すなわち卑弥呼を一女酋とする観点から、
「『日本書記』の神功記において、神功皇后に討伐された田油津媛の先代が卑弥呼である。その田油津媛が居住した山門郡つまり筑後国の山門郡こそ邪馬台国である」

後漢末より(魏・呉・蜀)の三国時代にわたって、九州全島はニ大国に分裂し、北部は女王国の所領、南部は狗奴国の版図として、相対峙して久しく相譲らぬ形成を成していたのである。……魏の正始八年(二四七年)に女王国と狗奴国との間に戦闘が起こり、女王卑弥呼はこの乱中に没し、戦争は女王国の敗北に終わったと察しられる。

しかし狗奴国が邪馬台国を踏みにじることはなかった。『魏志倭人伝』にはその後の邪馬台国が、新女王一与を立てて治まったと書いてある。

倭にしても狗奴にしても、戦いという極限行為の中に残忍さが見られない。

山門郡やその周辺部で、弥生の製鉄所兼鍛冶屋だったタタラ遺跡が出土しているのは、…帰国した生口(留学生)の力が大きく寄与したものだろう。

日本書記(七二〇年)
「(新功皇后が)山門県に転至まして、則ち土蜘蛛田油津媛を誅う」

延喜式(九二七年)
「山門五郷、大江、鷹尾、草壁、大神」

和名抄
山門郷 夜万止(やまと)と訓む

●水行十日陸行一月の解明
「いくら弥生時代末期でも、日数がかかりすぎる」

「弥生のころは山裾道を通ったのですよ」

清少納言『枕草子』
「遠くて近きものは極楽、船旅、男女の仲」

万葉集
「月夜(つくよ)よし 可音(かはと)清(さや)けし いざここに 行くも去(ゆ)かぬも 遊びて行くかむ」
ー大伴四綱ー

筑後川や矢部川沿岸部の地名を見て、現在は内陸部にある土地だのに、と不思議な気がすることが二つある。
一つは、水とはまったく無縁の土地に、船着き場を表す江・津・浦の地名がついた所が多い。
もう一つは、陸地の一部であるのに「島」の地名がついた所が多い。

現在でも平均5・5メートルという、有明海の干満潮差。川を遡行するときは満ち潮に乗り、逆に下るときは干き潮に乗るが、実際に動けるのはやはり一日に二時間だったろう。

渡辺村男氏(大正元年)『邪馬台国探見記』
「天正慶長年間(一五七三年〜一五九六年)筑後国主・田中吉政公が矢部川流域を改修せらるる以前は、三池黒崎の鼻(現・大牟田市黒崎)より海路をさかにぼりて瀬高の上ノ庄に到着するには七潮を要した」
干満は日に二回ある。昼間の満潮だけを使えば、なんと七日も費やしたことのなろう。

『魏志倭人伝』
「倭の地を参問するに、海中州島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり」

現在の筑後は平野部は都市と見渡す限り拓かれた田畑である。国鉄のレールが敷かれ、道路は縦横に走り、九州縦貫自動車道が通っている。しかし、明治の末まで、主要交通路線は海と川をだった。わずか七、八十年前でもそうだ。

日本書記
「水沼県主猿大海奏してもうさく、女神あり八女津媛という。常に山中に居る。故れ八女国名はこれにより起これり」

第六章 邪馬台国はこんな国だった
古墳時代の山門人には、中国の江南地方の血も影響を及ぼしているようだ。旧石器人自体が、地つづきだった中国の江南からやってきたのかもしれない。そうではなく、縄文・弥生のころ、江南人が船で移ってきたのかもしれない。黒潮が有明海に流れ込んでいるのは、長崎海洋気象台の調べでもはっきりしている。

古文書『南筑明覧』
黒崎の鼻とは、矢部川河口に位置する大牟田市黒崎のことだ。日向神社は有明海から直線距離にして二十数キロの内陸部にある。そこから潮を得るために、猿が海まで出てきていたという。猿とは動物ではなく、猿という名の人間であろう。天孫降臨を中村に迎えた男も猿田彦であった。

第七章 古代の天体観測と卑弥呼の墓
「毎日(めいにち)、暗かうちからなんしよりめすか」
「日の出ば、見よるたんも」
「あんたのしよりめすこつあ、私どもには解らんばんも」

猿田彦は山門勢力、つまり海洋民族の一族だったのではなかろうか。

矢部川上流、日向の奥地にいた天孫族は、海洋民族であり先住民だった猿族に潮を運んでもらっていたということにはなるまいか。

第八章 聖域を物語る女山の神籠石
「昔は女王山と呼ばれとったばってん、天子様に憚るちゅういうて、女山になったちゅう」

第九章 神話と古代の神々たち
「寒くなると、つまり秋から冬にかけては、河童は山に入って山童となる。春から夏にかけては、それが川や産みに下って河童、海童になる」

法華経十二番
「すみやか仏法を得る。ありやなしや。文殊師利曰く、あり。娑褐羅竜王の女、年初めて八歳なり」

『あとがき』
大和朝廷にとって、北九州の出身であるのを隠したくなった、理由はなにか。
五二七年に起きた「磐井の反乱」
中国やヨーロッパの皇帝とか国王と、日本の天皇の相違。
日本の天皇は祭り上げられるのである。もうお解りだろう。『魏志倭人伝』には、諸国王に選ばれて卑弥呼が倭王に祭り上げられたとある。
それだけではない。卑弥呼の後、男王を立てたが、国内が乱れたので、卑弥呼の宗女一与を、やはり諸国王が祭り上げている。この邪馬台国連合のやり方が、大和朝廷に引き継がれたのだ。

大和朝廷は朝鮮半島に六万の兵を送ろうとして、九州に行かせた。それを、筑紫の国造磐井が叩いた。
『日本書記』のよると、一年半に及ぶ。
「旗鼓相望み、埃塵相接(つ)げり。機(はかりご)を両陣の間に決めて、万死の地を避けず」
の激戦が始まった。
磐井も天皇同様、山門郡に発した邪馬台国王の血統を引く人間だった。
磐井は継体天皇の即位に怒った。本来ならば、磐井が天皇となるところだったからだ。
磐井は敗れた。大和朝廷にとっても、しかし勝利は喜べなかった。…本家を倒したのだから……。そこで、大和朝廷は北九州とは無縁である。とする事実の歪曲を行った。それでも、真実を百パーセントねじ曲げるのは不可能だった。

磐井の潰滅によって、邪馬台国の勢力が根絶やしになったわけではなかった。
古代の水行コースに大宰府を設けたのは、邪馬台国勢力の台頭監視と鎮圧のためであったろう。

磐井の反乱から百三十四年後、斎明天皇が朝倉宮で死んだのも、『日本書記』を見ると、宮中に鬼火が現れ、近侍がそのために数多く病死したりした後である。どう割り引いても、暗殺としかいえない変死である。

この不穏な状況がつづいたから、大宰府が置かれたに相違ない。
その後、史書には八五五年「筑紫の浪人を検束」。
邪馬台国勢力の一大粛清だったのであろう。十中八九、この弾圧の原動力になったのは、大宰府だったと思われる。
この八五五年、野にあった邪馬台国勢力は完全に力を失った。これをキッカケにして、「邪馬台国」は日本の歴史の中でまぼろしとなってしまったのである。

●クラゲナス タダヨエル国
『古事記』や『日本書記』に、日本の国のはじめをこのように表現。
(潟地で土地が固まらずクラゲのようにふあふあした土地)
満潮になれば島や洲の数が減り、島や洲一つ一つの広さもぐっとせばまる。干潮になると島や洲がぐっとふえ、そして広くなる。

七支刀武神像
七支刀武神像


















クラゲナス タダヨエル国 筑後かな