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2020.10.2-6(2)

2020年10月01日 (木) 10:19
2020.10.2-

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〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞く?部〉

第6回 師弟で開いた「青年育成」の大道?

◆樺澤 私たち学生部は、戸田先生が久しく構想され、ようやく結成された最後の組織です。改めて、「学生部の使命」について、お聞かせいただければと思います。
  
 ◇原田 学生部の結成は、1957年(昭和32年)6月30日です。東京・麻布公会堂(当時)で行われた結成大会には、約500人の男女学生が集いました。しかし、その会場に、当時、青年部の室長だった池田先生の姿はありませんでした。北海道・夕張の炭鉱労働組合が不当に学会員を弾圧した「夕張炭労事件」が勃発し、先生は会員を守るため、北海道で一切の指揮を執られていたのです。
 さらに、事実無根の選挙違反の容疑で、大阪府警への出頭要請があったのも、この日でした。そして、3日後の7月3日に不当逮捕され、「大阪事件」が起こります。
 まさに、新しい民衆勢力として発展していった学会が、権力の魔性と真っ向から対峙する渦中で結成されたのが学生部です。これは、学生部の使命を示す、極めて重要な事実だと思います。

●北海道夕張市内で開催された「夕張大会」の会場。池田先生(当時、青年部の室長)の正義の師子吼が轟いた(1957年7月2日)

 ◆西方 緊迫した状況下にあっても、先生は北海道から「地涌の学徒たち」へ、万感の祝電を送られました。「新しき世紀を担う秀才の集いたる学生部結成大会、おめでとう! 会長先生のもとに勇んで巣立ちゆけ」と。
  
 ◇原田 先生は当時の思いを、次のように語られています。「学生部は学会の生命線であり、学生部が成功するならば創価学会は大きく広宣流布の軌道にのる……もしだめなら、学会のみならず、いじめられっぱなしの無名の民衆は永遠にしいたげられたままであろう。――いわば創価学会がその前途を、また民衆幸福の前途を学生部に託したんだ。だから、僕はなんとしても成功させたい、発展させたい、そう祈るような気持ちで電報を打ったんだ」
 権力の魔性から民衆を守るには、力ある指導者を育てるしかない――これが、戸田先生、池田先生の結論であり、誓願なのです。
  
 ◆林 結成大会の席上、戸田先生は“この中から半分は重役に、半分は博士に。一人も漏れなく次代の指導者に”と期待されました。
  
 ◇原田 つまり戸田先生は、学生部員に向かって、宗教家になれとも、職業的革命家になれとも言われませんでした。学会精神を心に刻んだ“社会の指導者”として、あらゆる分野に羽ばたくことを望まれていたのです。それは、民衆のためのリーダーを育成しようとする「指導者革命」への挑戦であり、そこにこそ、学生部の永遠不変の使命があります。
 また随筆で池田先生は、「迫害のなかの誕生! 弾圧のなかの出現! なんと素晴らしい学生部の原点であったことか」と記された上で、こう結論されています。「『6・30』とは、いわば、恩師の構想の実現へ、弟子が一人立ち上がる日である」
 「夕張炭労事件」「大阪事件」にしても、池田先生ご自身が、全ての矢面に立って同志を守り、不当な権力と戦い、勝ち抜く姿を、身をもって示されました。
 弟子が師と同じ一念に立つ。そして、師の指導を深く思索し、わが誓いとして、新たな社会変革の潮流を起こしていく。これこそ「6・30」の意義にほかなりません。

●師の期待を胸に変革の先駆を!
 ◆大串 学生部への先生のご期待は計り知れません。先生はこれまで、世界に向けた重要な歴史的提言を、学生部総会の場を選んで発表されてきました。67年の「ベトナム停戦」「沖縄の即時返還」、68年の「日中国交正常化提言」などです。
  
 ◇原田 それはまさに、学生部が平和建設の主体者として、時代変革の先駆を切ることを、誰よりも期待し、信じておられたことの証左にほかなりません。

 「日中国交正常化提言」の発表については、小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章に、詳しく明かされています。
 68年当時は東西冷戦の激化と、中国国内で始まっていた文化大革命の影響で、日本国内での対中国感情は冷え切っていました。
 実際、提言発表から3日後の日米の会議でも、外務省の高官が、提言に強い不満を表明したほどです。そうした反発はおろか、命に及ぶ危険さえ考えられる状況でした。
 それでも先生は決断されたのです。「私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である」「私の考えが正しかったかどうかは、後世の歴史が証明するはずだ」と。
 どれほど勇気ある、先見の明に長けた提言であったか。現実に、日中国交正常化が4年後の72年に実現したのは周知の通りです。
  
 ◆志賀 「金の橋」の章に、日中友好の大業は「世紀を超えた、長く遠い道のり」であり、「自分と同じ心で、後を受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない」とつづられています。
  
 ◇原田 だからこそ先生は、後継の人材群の第一陣として、学生部の育成に、総力を挙げてこられたのです。
 63年の月刊誌「第三文明」新年号には、日中友好の道を開いた先達・高碕達之助氏へのインタビュー記事が掲載されています。その取材に当たったのは、2人の現役学生です。中国訪問を重ね、周総理とも会見をしている高碕氏に、ぜひ話を聞いてはどうかとの池田先生の提案によるものでした。
 13ページに及ぶ記事は、高碕氏の人間観がよく表れ、中身の濃い内容でした。そうしたことからも、先生は前々から学生部に対し、日中友好を託そうとされていたのだと思います。


●提言では、「中国政府の承認」「国連における中国の地位回復」「経済・文化交流の推進」の3点を強調。国内外に広く報道され、日中関係の改善と国交正常化に大きな影響を与えた


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