◎エウクレスが完全武装のまま戦地から駆け、都市の男達の最初の門に飛び込み、「万歳!我々が勝った!」とだけ言ってそのまま力尽きた。――プルタルコス『アテナイの勝利について』(1世紀)
マラトンの戦い(マラトンのたたかい、希語:Μάχη του Μαραθώνα)は、紀元前490年にギリシアのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦いである。
◎元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当している。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、供奉する阿野廉子、千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には導誉が道中警護などを務める(『太平記』)。
後醍醐配流後も河内の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、後醍醐も隠岐を脱出して伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に立て籠った。元弘3年(1333年)3月、幕府北条氏は下野の足利高氏(後の尊氏)らを船上山討伐に派遣した。しかし高氏は幕府に反旗を翻し、丹波国篠村(京都府亀岡市)で反転して京都の六波羅探題を攻略した。
◎マリー・キュリー像寄贈者ご家族が来学
世界の女性リーダー
1994年4月に短大中庭にマリー・キュリー像を寄贈された、故ブラスナー博士の奥様であるサン・カン・ジュン・リー女史一行が、6月15日(金)の午後、本学を来学。石川学長、佃参与と短大生が出迎え、交流のひと時を持つことができました。
女史は、除幕式当時のことに触れられながら、「キュリー像が、これほどまでに多くの短大生に愛されていることに感動しました」と話されていました。短大生は感謝を込めて、短大歌「誉れの青春」を歌いました。
☆創価女子短期大学 特別文化講座
キュリー夫人を語る1−1 2008-2-8
使命を自覚すれば希望と勇気が生まれる
一、素晴らしき青春の詩を紹介したい。
「私は幸福だ
わが優しき友よ
かくも純粋で
調和に満ちた君の声が
私の夢を
揺りかごのように
揺らしながら歌う時
私は幸福だ
私は幸せだ」
「人生のために
君がより良き人間に
なることを私に約す時
私は幸福だ」
これは、大科学者であり、豊かな詩心をあわせ持っていた女性マリー・キュリー(1867〜1934年)が記し残した詩の一節です。
私と妻の「夢」は、創価教育の創始者・牧口常三郎先生、そして戸田城聖先生の「夢」を実現することであります。
その最大の「夢」の一つが、女性教育の殿堂たる創価女子短期大学の創立でありました。
この短大の麗しきキャンパスで、「正しき人生」「革福の人生」「勝利の人生」へと、「誉れの青春」を乱舞しゆく皆さん方を見守ることが、私と妻にとって、何よりも何よりも幸福なのであります。
☆ノーベル賞を受けた初の女性
一、改めて申し上げるまでもなく、マリー・キュリーは、人類史に輝きわたる屈指の大科学者です。
1903年には、ノーベル物理学賞を受賞しました。〈夫のピエール・キュリー、フランスの物理学者であるアンリ・ベックレルと共同受賞〉
これは、女性として最初の受賞となりました。
さらに初の受賞から8年後の1911年には、ノーベル化学賞を単独で受けています。
二つのノーベル賞を勝ち取ったのも、彼女が初めてです。
しかも、その人格は、そうした"世評の風"によって、いささかたりとも左右されなかった。かのアインシュタイン博士も、「名のある人々のなかで、マリー・キュリーはただひとり、その名声によってそこなわれなかった人物である」(ビバリー・バーチ著、乾侑美子訳『キュリー夫人』偕成社)と感嘆しておりました。
だからこそ、時を超え、国を超えて、民衆から、彼女は深く広く敬愛されてきたのです。