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2020.9.9-5(4)

2020年09月08日 (火) 12:20
2020.9.9-5

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小説「新・人間革命」に学ぶ 第23巻 名場面編

連載〈世界広布の大道〉

●創立者の思い胸に病を克服

 〈1992年(平成4年)、香港創価幼稚園が開園した。園長の黄瑞玉は、毎日、玄関で子どもたちを、笑顔で迎え、見送ってきた〉

 開園から六年ほどしたころ、その黄園長の姿が消えた。癌が発見されたのである。
 彼女には、深く胸に刻まれた、魂ともいうべき言葉があった。それは、職員室の壁に掲げられた「香港幼稚園は 私の生命也」という、山本伸一が認めた、あの言葉であった。
 黄園長は、癌の摘出手術を受けるために入院した。創立者の生命である幼稚園と園児たちから離れることが、辛くて、悔しくて仕方なかった。病魔に蝕まれた自分が、情けなく、不甲斐なかった。(中略)
 ――彼女は、健康を回復し、微笑みながら、登園してくる子どもたちを迎える、自分の姿を思い浮かべた。すると、それだけで、幸せな気分になれた。
 さらに、創立者の山本伸一と一緒に、幼稚園の玄関に立つ自分を想像した。希望の光が、全身に降り注ぐ思いがした。
 “園児たちが、山本先生が、私を、待っていてくれる。私は、山本先生に代わって、園児たちに生涯を捧げるのだ。絶対に負けるものか! 病を克服して、また、幼稚園の玄関で、子どもたちを出迎え、見送ろう!”(中略)
 やがて、黄園長は病を乗り越え、再び、幼稚園の玄関に立った。
 彼女は、毎日、伸一と一緒に出迎え、見送っているつもりで、園児たちに向かって、笑みの花を贈る。
 二〇〇〇年(平成十二年)十二月、香港を訪問した伸一は、卒園生の第一期から第三期の代表と再会し、記念のカメラに納まった。
 「お会いできて嬉しい。皆さんは、私の誇りです。宝です」
 第一期生は、既に中学二年生になっていた。伸一は、成長した皆の姿に目を見張った。未来へ伸びゆく姿に、深い感慨を覚えた。代表が、伸一に花束を贈った。
 「ありがとう。大きくなったね。立派に成長したね……」
 創立者と卒園生の語らいを見る黄園長の頰に、涙が光っていた。それは、子どもたちへの情愛と、生きる喜びの結晶でもあった。(「未来」の章、82〜84ページ)

●学び抜く人生に勝利の輝き

「他人を教育することは易しい
  自己自身を教育することは難しい
  生涯 確たる軌道に乗りながら
  自己を教育していくところに
  人間革命の道がある」
 (「学光」の章、180〜182ページ)
 

●師弟が紡いだ「創価」の二字

 〈創価学会の創立の日となった、30年(同5年)11月18日は、『創価教育学体系』の発行日である。その不朽の大著は、師と弟子の語らいから生まれた〉

 冬のある夜、牧口と戸田は、戸田の家で火鉢を挟み、深夜まで語らいを続けていた。(中略)
 牧口は、自分の教育学説出版の意向を戸田に語ったあと、すぐに、それを打ち消すように言った。
 「しかし、売れずに損をする本を、出版するところはないだろう……」(中略)
 「先生、私がやります!」
 「しかし、戸田君、金がかかるよ」
 「かまいません。私には、たくさんの財産はありませんが、一万九千円はあります。それを、全部、投げ出しましょう」
 小学校教員の初任給が五十円前後であったころである。師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。(中略)
 牧口は、じっと戸田を見て頷いた。
 「よし、君が、そこまで決心してくれるのなら、ひとつやろうじゃないか!」
 牧口の目は、生き生きと輝いていた。そして、つぶやくように言葉をついだ。
 「さて、私の教育学説に、どんな名前をつけるべきか……」
 すると、戸田が尋ねた。
 「先生の教育学は、何が目的ですか」
 「一言すれば、価値を創造することだ」
 「そうですよね。……でも、価値創造哲学や、価値創造教育学というのも変だな」
 「確かに、それでは、すっきりしない。創造教育学というのも、おかしいしな……」
 戸田は、頰を紅潮させて言った。
 「先生、いっそのこと、創造の『創』と、価値の『価』をとって、『創価教育学』としたらどうでしょうか」
 「うん、いい名前じゃないか!」
 「では、『創価教育学』に決めましょう」
 時計の針は、既に午前零時を回っていた。
 師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。
 (「敢闘」の章、297〜300ページ)


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