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(公明)出久根達郎の世界文学名作者伝=138
大塚楠緒子(くすおこ)
漱石の「意中の女性」
2020/09/06 5面
一九〇四(明治37)年、日露戦争勃発、二十九歳の人妻、大塚楠緒子は、月刊誌「太陽」に「進撃の歌」を発表した。「進めや進め一斉に 一歩も退くな身の恥ぞ/前に名誉の戦死あり 後に故国の義憤あり……」
夏目漱石も「従軍行」を作った。「吾に讐(あだ)あり、艨艟(もうどう)吼(ほ)ゆる、讐はゆるすな、男児の意気。/吾に讐あり、貔貅(ひきゅう)群がる、讐は逃すな、勇士の胆……」
ずいぶんむずかしい詩だが、艨艟は軍船、貔貅は虎や豹などの猛獣のこと、勇猛な兵士のたとえである。この詩を若者に手紙で示し、「太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経の如し」と酷評し、「女のくせによせばいいのに」とののしったあと、ドウダおれの方が上手だろう、といばっている。楠緒子は半年後、今度は打って変わって、「お百度詣」という反戦詩を発表した。
「ひとあし踏みて夫思ひ/ふたあし国を思へども/三足ふたゝび夫おもふ/女心に咎ありや……」
この詩は与謝野晶子の反戦詩「君死に給ふこと勿れ」と並び称された。漱石はどのような感慨を持ったろうか。
大塚楠緒子は、若き日の漱石の、意中の女性といわれた。東京高等裁判所長の一人娘・楠緒子は女子高等師範付属高等女学校を首席卒業した。父はムコを、東京帝大法科卒業生から選ぶつもりだった。文学好きの楠緒子は文科卒を希望した。漱石と大塚保治が候補に選ばれた。二人は寮で同室だった。大塚が先に見合いに呼ばれた。そこで決まってしまった。あとで漱石は大いにくやしがったという。楠緒子は当時、評判の美少女であった。二人の結婚式に漱石は学友らと出席している。
漱石の代表作『こころ』は、下宿の娘を友と張りあう話である。首尾よく友を出しぬくが、友は絶望して自殺する。ムコ候補の一件が、小説の素材になっていないだろうか。
楠緒子は結婚後、作家になった。漱石は彼女の作品を朝日新聞に紹介したり、出版の世話をしている。読後感を手紙につづって激励している。「今迄ノウチデ一番ヨカツタ」と意味ありげに一行だけ片仮名で記している。女のくせに、など毒のある言葉は使っていない。漱石に『虞美人草』という小説があるが、この題は一年前に楠緒子が用いている。
楠緒子は三十五歳の若さで病死した。漱石は病床で訃を聞き、手向けの句を詠んだ。
「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」
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