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2020.8.16-5(2)

2020年08月15日 (土) 11:20
2020.8.16-

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長崎原爆、朝鮮人強制連行の歴史を背負って 上〈信仰体験〉

〈連載〉いま想う戦後75年?

●私は世界市民。次世代のため種をまく。
 【横浜市神奈川区】2004年(平成16年)8月――。大塚和江さん(66)=区副婦人部長=は初めて韓国の地を踏んだ。飛行機のタラップを下りた瞬間、空を見上げると涙が頰を伝った。

 “やっと来られたよ。お父さん、お母さん……”。現地の友人に車で案内され、慶尚北道の盈徳郡へ向かった。着いた場所は、のどかで桃の木が印象的だった。家の表札を見ると「安」の名字が多い。思いをはせたのは、亡き父・安命岩さんのこと。

 ここは、太平洋戦争が勃発後、日本に強制連行された父の古里である。大塚さんのかばんの中には、前年に亡くなった母・千鶴子さんの遺影が。母もまた、長崎に投下された原爆で被爆し、長年、苦しんできた。

 韓国人の父、被爆者の母のもとに生まれ育った大塚さんは、「私自身は戦争を直接、経験していません。けれど、その影響を色濃く受けた人生でした」と。信心に励むまで、韓国は近いようで遠い国だった。

●被爆2世韓国人の子
 それは大塚さんが7歳の時だった。「おまえの本当の父親は朝鮮人だ。血が違う!」。実の父と思っていた人から突然、強い口調で打ち明けられた。理解できず、母親に聞こうとしたが、困らせるのも嫌で切り出せなかった。
 
 やがて、母はぽつぽつと話してくれた。福岡県田川市の炭労で働いた実の父親がいたこと。重労働の影響で片足を膝から切断。大塚さんが3歳だった時の豪雨で、増水した川に足を取られ溺死したこと。
 
 そして父は、日本に強制連行された韓国人だったこと――。この父には、韓国に妻や娘がいた。連行される時、祖母は父の名前を何度も叫んで泣き崩れた。父は空を見上げては、韓国の思い出を話してくれたという。

母は涙ながらに言った。「お父さんと過ごしたのは3年間だったけど、何十年分の愛情をくれたんだよ」。養父からは冷たい仕打ちを受け続けた。中学生になると、差別は家の中だけではなく、社会でも同じだということを知った。

 つらくて、自分の存在に自信が持てなくなった。“私は、どうして二人の間に生まれたの……”。運命を恨んだ。心がすさんでいたある時、母から小さな手帳を見せられた。「被爆者」の文字が目に入った。

 長崎に原爆が落とされたあの日、21歳の母は爆心地から3キロの軍需工場にいた。腕にやけどを負いながらも、焼死体を運ぶ作業を手伝った。泣き叫ぶ子どもたち、黒焦げの遺体。それらが目に焼き付いて離れないという。

●心を変えた青春の出会い
 高校生の時だった。「お題目あげな! 命の底から元気になるから、やりな!」。親友の言葉を信じ、題目を唱えるようになった。心に活力がみなぎることを感じて自ら入会。その翌年、人生が変わる出会いがあった。
 
 1971年8月、高等部の夏季講習会へ。その折、世界ジャンボリーに参加していた世界87カ国・地域のボーイスカウトたちが、台風による豪雨のため避難してきた。池田先生が救援の陣頭指揮を執っていた。
 
 大塚さんは振り返る。「翌日、池田先生がボーイスカウトの方々と懇談されているところを偶然、目にしたんです。世界中の子どもたちからのお礼に、先生は応えられて。“私には、国や文化が違う人にも真心で振る舞われる師匠がいる”と思うと、涙があふれ、一瞬にして心が変わりました。韓国のことで差別を受けようが、被爆2世のことで苦しもうが、ちっぽけに思え、悩みが吹き飛んだんです」

2004年、大塚さんが初めて訪問した韓国で

●自己変革のドラマが始まる

 被爆2世であることはあえて自分から話してこなかったが、婦人部の先輩が後押ししてくれた。「自分の体験を平和のために話していくべきよ」。以来、書き、語り、平和を訴える毎日となった。
 
 96年、平和学の父といわれるヨハン・ガルトゥング博士が神奈川で創価学会の会館を訪れた際には、大塚さんが体験を発表した。「あの時の私の話を、博士が称賛してくださいました。草の根の運動が最も世界平和につながることを確信して歩んできました。何の取りえもない私ですけど、ただただ学会活動が大好きなんです」
 
 大切に保管する本紙の切り抜きがある。池田先生ご夫妻が韓国を訪問した折、韓国の民族衣装に身を包んだ写真だ。

●韓国SGIの会館前で

 「先生は、韓国を兄の国、文化大恩の国と尊敬されます。“平和”“友好”と口ではなんとでもいえます。実際に行動されるのが、本当の真心なんだと教わりました」
 
 かつては複雑な思いを抱いた国。その見方が変わった。長女・智栄さん(43)=婦人部員=が韓国出身の女子部メンバーと親しくなると、親子で交流をするように。
 
 長年、経済苦に悩んだが、2004年に初めて韓国へ。その女子部員の実家で平和への願いを込め、題目を唱えた。その後、長女は韓国へ留学。以来、身近で大切な国になった。

●大塚さんが体験原稿で引用する池田先生の指導がある。
 
 「この哲学を、そのまま実践に移すならば、そこから、無気力と苦悶の人生を、充実と喜びの人生へ転換しゆく、自己変革のドラマが始まる。また、そこから、人類が強くなり、豊かになり、賢明になるための、あらゆる次元の革命の歯車がまわり始めます」
 
 最近、楽しみな時間は、韓国の友人とのオンライン通話。「オモニ(お母さん)」と呼ばれ、「日本のおばあちゃんだよ」と友人の子どもにも紹介されると、「サランヘ(愛してる)」とほほ笑み返す。
 
 「池田先生のおかげで、日本や韓国という国の枠を超え、私は世界市民になれたんです。私が花を咲かせるのではなくて、次の世代のために平和の種をまくような生き方をしていきます」
 (日韓友好の道を歩む長女・智栄さんの様子は、あす16日付で掲載します)


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