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2020.8.16-5

2020年08月15日 (土) 11:19
2020.8.16-

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第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 
特別編「池田先生 戦火の青春」

ビルマ(現ミャンマー)で戦死した長兄と、池田先生が分け合った母の鏡。1961年2月、ビルマを訪れた先生は、「大東亜戦争陣没英霊之碑」の前で、兄を追善した

●終戦75年に不戦を誓う

 きょう8月15日は終戦75年。国内外で多くの命を奪った軍国主義が破滅した日であり、不戦と恒久平和を誓う日である。池田大作先生はこの時、17歳。死の恐怖から解放され、権力者への怒りを胸に秘めながら、人生いかに生きるべきかを模索し始めた。正しき思想を求めた若き先生が、生涯の師・戸田城聖先生と出会うのは、その2年後の8月14日のことである。「師弟凱歌の記憶」特別編として、池田先生の平和行動の原点となった、戦火の青春をたどる。

ゴルバチョフ元ソ連大統領と池田先生は「戦争の子ども」だった体験を語り合い、平和への共闘を誓い合った(2001年11月、都内で)

●“私たちは「戦争の子ども」です”――ゴルバチョフ元大統領と

 1990年(平成2年)7月にクレムリンで会って以来、池田先生と30年来の親交を結ぶ、元ソ連大統領のゴルバチョフ氏。二人が確かめ合ったことがある。
 
 元大統領 私たちが、戦争で生き残った「戦争の子ども」であるという一点を見逃すと、私たちの世代の人生も、行動も、理解することは不可能でしょうね。
 先生 「戦争の子ども」――。まさに、私たちの世代に共通する「体験」と「苦悩」と「辛酸」を、一言にこめた言葉であると思います。(『二十世紀の精神の教訓』)
  
 1931年(昭和6年)生まれの氏に対し、池田先生は3歳上の28年(同3年)生まれ。共に大人たちが始めた第2次世界大戦によって、少年時代の思い出を、暗い灰色に染められた世代である。死の影に付きまとわれ、自由に未来の夢を描くことなど許されない青春だった。次の世代に二度と同じ思いを味わわせてはならない――その思いで二人は、不戦と核兵器廃絶へ戦い続けてきた。
 
●「私は戦争を憎んだ。庶民の味方になると心に決めた」
 
 75年前の「8月15日の記憶」を、先生はつづる。
 
 「ラジオの玉音放送は、ザーザーと雑音が入って何を言っているのか、わからなかった」「『ああ、戦争が終わった……』。ほっとしたというのが、私の正直な実感であった」(寄稿「終戦62年に念う」)
 
 前途ある若者を死地に追い立て、国土が焦土と化してなお、軍部政府は「一億玉砕」等と、命をささげることを強要し続けた。
 終戦を迎えた先生の胸に去来したのは、そうした権力者への沸騰する怒りであった。
 
 「私は、戦争を憎んだ。民衆を戦争へと駆り立てた、指導者を憎んだ。こんな歴史を二度と繰り返さぬために、自分は何をすべきかを問い続けた」(「随筆 新・人間革命」)
 
 「いつも権力者や政治家に利用されている貧しき庶民、多くの正直にして賢明なる庶民の味方になっていくことを心に決めた」(「随筆 人間世紀の光」)

◇◇

 3歳で満州事変、8歳で二・二六事件、9歳で日中戦争勃発――高鳴る軍靴の足音とともに、のどかな田園や漁村の風景が広がっていた大森・蒲田一帯も、一大軍需工場地帯に変貌していった。

◇◇

1981年12月8日に発行された婦人部の反戦出版『雑草のうた』。池田先生は書籍の見返しに揮毫した。「戦争ほど残酷なものはない。昭和十六年十二月八日、大東亜戦争の開始を大本営発表として聞きしは、京浜蒲田駅附近の朝の路上でありしを回顧しながら記す。此の書を作りし学会婦人部に感謝しつつ。大作」

●母の鏡を分け合った尊敬する長兄「大作、戦争は美談なんかじゃないぞ」

  先生が13歳、国民学校高等科の2年生だった1941年(昭和16年)12月8日、ついに日本はアメリカと太平洋戦争に突入。翌42年(同17年)12月に、長兄が再び出征した。相前後して残る三人の兄たちも、次々と兵隊に取られた。
 
 先生は、42年4月から、軍需工場となった蒲田の新潟鉄工所に勤め、働き頭として、懸命に家族を支え続けた。
 
 だが、この頃から先生は、もう一つの「死の影」に付きまとわれるようになる。肺結核である。
 
 「かつての田園地帯は(中略)軍需工場の進出と人口急増によって、結核の病巣と化した」(『大田区史 下巻』)と記されたように、慢性的な栄養不足や劣悪な労働環境によって、大森・蒲田地域には、“戦争に勝って結核に敗れる”といわれるほど、結核が蔓延。先生にも死の刃を向けてきた。
 
 外からは戦争、内からは疫病という「死の影」と必死で戦いながら、先生は、赤く焼けた鉄粉が飛び散る軍需工場で、油にまみれながら働いた。
 
 中国大陸から一時、除隊してきた長兄は、日本軍の中国での非道を憤り、言い残していた。
 
 「大作、戦争は、決して美談なんかじゃないぞ」
 
 先生は長兄と、一枚の鏡の破片を分け合った。
 
 母が父のもとに嫁ぐ時に持参した鏡が、何かの時に割れてしまった。その破片の中から、手のひらの大きさのものを二人で選んだ。長兄は、その鏡の破片を持って出征し、残った先生も鏡を宝物にして、見つめるたびに、尊敬する兄をしのんだ。

●大森・蒲田一帯を焼き尽くした45年4月15日の空襲で被災し、京浜国道を歩く人たち(同年4月16日、石川光陽撮影)。池田先生の一家もこの空襲で被災した


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