第5次訪中の折、池田先生ご夫妻が、周総理夫人である鄧穎超氏の自宅を訪問。黄氏(左から2人目)が通訳を務めた(1980年4月22日、北京の中南海で)
髪を七三に分け、明るく礼儀正しい人柄。時折、言葉に関西弁が交じる。氏の出身は中国ではなく、華僑が多く暮らす日本の神戸だった。
1945年の神戸大空襲では、焼夷弾の嵐の中を逃げ惑った。当時、11歳だった黄少年は、焼けただれた死体の山を踏み分け、親戚らを捜し回った。
「酷かった……。口にしたくないほどです。戦争は民衆をこれほど苦しめるのかと思いました」
その後、中国に渡り、今度は日本軍による大虐殺の跡を目にした。街にも村にも無数の遺骨が散らばっていた。
戦争に、敵も味方も、正義もない。黄氏は「中国の惨状が、神戸の空襲とだぶって見えた」と述懐する。
ある時、知人から“今後の中日交流のために通訳にならないか”と声を掛けられ、氏は誓いを込めて決断する。「両国民は絶対に戦争をしてはいけない。あくまで友好を進めるべきだ。互いに理解を深め、平和であるべきだ」。そのために生涯をささげよう、と。
●日中国交正常化の舞台裏
東西冷戦下、日中国交正常化に至る激動の10年――黄氏は、その水面下の“真実”を知る一人でもある。
「創価学会とは、どういう団体か」。60年代初頭、中国政府の上層部から中国人民外交学会に突然の問い合わせが入った。
池田先生の会長就任を機に、学会は大きく飛躍し、61年には公明政治連盟(後の公明党)が結成。周総理は、中日友好の鍵を日本の民衆に見いだし、早くから学会に関心を抱いていた。
中国人民外交学会に所属していた黄氏らは、学会についての調査を始め、『創価学会』という冊子をまとめる。
資料を目にした周総理は、「引き続き(学会の)研究を続けていかなくてはならない」と指示したという。
60年代後半、日本はアメリカに追従し、中国を敵視する政策を継続していた。一方、中国では文化大革命の混乱が広がり、中日貿易の流れも風前の灯火に。当時、日本で日中友好を叫ぶことは、世論に逆行するのみならず、命の危険をも意味した。
そうした中、池田先生は68年9月8日、「日中国交正常化提言」を発表。「アジアの繁栄と世界の平和のため」との国際的視野に立ち、「中国との国交正常化」「中国の国連参加」「貿易促進」などを訴えた。提言は大ニュースとして中国に伝わり、周総理もまた、この提言を重視した。
日本滞在中、黄氏は先生と会談し、こう述べている。「池田先生の世界平和への大きな足跡に思いをはせる時、痛感するのは『真の友情ほど尊いものはない』『順調な時にも、困難の時にも、中日を結ぶ私たちの友情は永遠に変わらない』ということです」
語らいのたび、氏は友誼に深謝し、「艱難に真の交わりを知る(苦難の時こそ真実の友が分かる)」「真金は火煉を恐れず(真金は炎に焼かれても変わることはない)」と、中国の箴言を引いて真情を述べるのが常だった。