〈日蓮大聖人の慈愛の眼差し〉北条弥源太
「師弟」は試練を越えゆく力
幕府と深い関わりがあったとされる鎌倉の門下 大聖人の励ましを受け苦難から立ち上がる
「十一通御書」の一つを頂く
北条弥源太の名前が、御書に初めて登場するのは、文永5年(1268年)10月に大聖人が送られた「北条弥源太への御状」である。
これは「十一通御書」の一つとしても知られる。十一通御書とは、「立正安国論」で予言された「他国侵逼難」が、蒙古(モンゴル帝国)からの国書の到来で的中したことを受けて、執権・北条時宗をはじめとする幕府の要人や各宗の高僧に、正法に帰依するよう警告されるとともに、諸宗との公場対決を求められた、11通の書状を指す。
その中に「殊に貴殿は相模の守殿(=北条時宗)の同姓なり」(御書172ページ)とあることから、北条氏の一族で、鎌倉在住の武士と考えられてきた。しかし、北条氏の姓は「平」であり、弥源太の「源太」は「源」氏の人物であることを示す通称のため、他姓で養子となったか、あるいは他姓の人物の猶子(仮に結ぶ親子関係の子)となった人物とも推測される。
この重要な書状を送られたことから、弥源太の地位は相応に高く、幕府中枢と深い関わりがあったと考えられる。また「北条弥源太への御状」には、弥源太が大聖人の元を訪れていることが記されており、この頃、すでに大聖人と何らかの関係があったと思われる。
時は過ぎ、弘安元年(1278年)8月ごろ、弥源太は身延の大聖人の元を訪れ、下山の後に書状を送っている。その書状では、北条時宗らの帰依を受けて権勢を誇っていた禅僧の道隆の死去などを知らせている。