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2020.7.17-5

2020年07月16日 (木) 22:38
2020.7.17-

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◎第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 
特別編「世界が憧れる幸福の宝島」

美しい海を望む恩納村の沖縄研修道場。池田先生の提案で、かつての核ミサイル発射台が「世界平和の碑」に生まれ変わった
きょう池田先生の沖縄初訪問60周年

 「私は 沖縄を詩う/私は 沖縄を愛する/私は 沖縄に涙する/そして 私は 沖縄に/民衆の幸の凱歌の潮騒を聞く」(長編詩「永遠たれ“平和の要塞”」)――きょう7月16日で、池田大作先生が沖縄を初訪問して60年となる。海も大空も大地も、人も美しい沖縄には、「命どぅ宝」(命こそ宝)の心が輝く。先生が「3日間で3年分は働く」との決意で臨んだ沖縄初訪問の歴史を、「師弟凱歌の記憶」特別編としてつづる。
 “池田先生が初めて沖縄へ!”――南国の友が待ちに待った朗報は、1960年(昭和35年)6月10日付の本紙1面で伝えられた。
 
 先生は5月3日の会長就任以来、関西に始まり北海道、九州、東北、中部、中国の幹部会に出席。就任式で亡き恩師・戸田城聖先生の七回忌までの目標として掲げた会員300万世帯の達成へ、怒濤のごとき拡大の波動を起こしていった。
 
 戦後15年。沖縄はまだ、アメリカの施政権下にあった。本土との往来にはパスポートがいる。本紙の記事は「なかでも特筆すべきことは、会長池田先生が初めて海外に出発され、沖縄において指導されること」と強調している。沖縄初訪問は、世界広布への助走ともいうべき意義を含んでいたのである。
 
●沖縄の友は沸き立った。
 
 沖縄広布の一粒種として折伏の火ぶたを切った故・安見福寿さんの喜びは、とりわけ大きかった。長男の宏志さん(副圏長)が述懐する。「この時、私は14歳です。父は買ったばかりの車を毎日のように走らせ、島中を折伏や個人指導に回っていました。道があまり整備されていない時代で、よく山の中で立ち往生したことを語ってくれました」
 
 仏法の話をすると、たいてい「ヤマトゥ(本土)から来た宗教」と揶揄された。それでも同志は、「必ず幸せになれる信心です」と歯を食いしばった。
 
 先生の訪問を拡大の実証で飾ろうと、折伏の勢いは加速。約7000世帯の陣容を整え、先生の初来島を迎えたのである。

●「立正安国論」上呈700年の佳節に

「太陽が東から昇り、西を照らしていくように、この沖縄に始まり、やがて、台湾、香港、インドなど東洋の各地に、支部が誕生していくことでしょう。その先駆けの使命を、沖縄の皆さんに担っていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 
 万雷の拍手が起こった。
 沖縄に第一歩をしるした7月16日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈して700年。一番苦しんだ人が一番幸せに――この“世界広布即世界平和”の新たな一歩を、沖縄から踏み出したのである。

●「前進」の決意で船出

「沖縄の同志よ団結せよ」

●沖縄戦の激戦地で厳粛に題目三唱を

 沖縄戦で看護要員として動員された女子学生らを合祀する「ひめゆりの塔」の慰霊碑。その前には、ガス弾攻撃で乙女たちが命を落とした自然壕が口をあけている
 初訪問の最終日となった18日午前。池田先生一行は沖縄戦の激戦地である南部戦跡を訪れた。

池田先生の一行は最初に、看護要員として動員され亡くなった学徒隊らを慰霊する「ひめゆりの塔」へ向かった。塔のそばには、ガス弾によって乙女たちが命を落とした自然壕が口をあけている。関係者の説明を聞き終えた先生は、つぶやくように「残酷だな……あまりにも残酷だ」と。厳粛に題目を三唱した。

●「皆さんの犠牲は無駄にしません。必ず仏国土に変えてみせます」

先生は後に、南部戦跡を訪れた真情をうたった。
 
 「世界不戦への誓いを固めつつ思った/いつの日か書かねばならぬ/小説『人間革命』の筆を/もっとも戦争の辛酸をなめた/この沖縄の地で起こそうと」
 敗戦間近の焼け野原から広布の戦いを開始した戸田先生の生涯を通して、世界平和を開く指導原理と、それを実践する学会の使命を、ここ沖縄から書きつづる――この池田先生の決意を知る人は、この時、まだいなかった。

●「人間革命」執筆 そして平和の天地に

 沖縄で小説『人間革命』を起稿したことを記念して、池田先生が後年、?風に揮毫した。「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」――小説『人間革命』の冒頭の一節に続き、「昭和三十九年 十二月二日 沖縄本部二階 第一和室にて 留め記す也」と
 池田先生は61年(同36年)の沖縄総支部結成大会、62年(同37年)の沖縄本部落成式に出席。
 
 4度目の訪問となった64年(同39年)12月2日、沖縄本部で小説『人間革命』のペンを執った。
 
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」――。

以後も池田先生は、沖縄訪問を重ね、その歴史は17回を数える。
 
 沖縄支部の初代婦人部長を務めた仲間玉枝さん(総県婦人部総主事)は「先生は沖縄にいらっしゃるたびに、私たちに『三変土田』の法理を教えてくださったと思います」と振り返る。
 
 その象徴が、恩納村の沖縄研修道場にある「世界平和の碑」。
 
 碑はかつて米軍の核ミサイル・メースBの発射台だった。
 
 「永遠に残そう! 『人類は、かつて戦争という愚かなことをした』との一つの証しとして」。この先生の提案によって、84年(同59年)、平和への誓いのシンボルに生まれ変わった。
 
 本部町の沖縄平和記念墓地公園には、「永遠平和の碑」がある。99年(平成11年)2月、同墓園を初訪問した折、先生は沖縄の代表と共に、碑の前で厳粛に祈りを捧げた。
 
 「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」
 深い決意を込めた鋭い声を、沖縄の同志は忘れない。

池田先生が本部町の沖縄平和記念墓地公園を初訪問。「永遠平和の碑」の前で題目を唱え、語った。「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」(1999年2月)

 沖縄戦終結から75年。
 
 先生の初訪問から60年。
 
 沖縄の父母たちは、師の限りない励ましを抱き締めて、世界が憧れる幸福の宝島を築いた。「命どぅ宝」の精神を語り継ぐ青年たちの躍動も頼もしい。
 
 限りない先生の励ましを胸に、「世界最初の広宣流布の地帯」を目指す沖縄健児の意気は高い。


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