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2020.7.11-6

2020年07月10日 (金) 17:54
2020.7.11-

◎7月の広布史 男子部・女子部結成記念日
”広布の全責任を担う”青年部の結成
同年5月3日に「75万世帯の弘教」という誓願を掲げて就任した第二代会長戸田先生は、広宣流布の遠大な未来を展望し、「広布の全責任を担う組織」として、青年部を結成したのです。
「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長があらわれるであろう」と、男子部結成式で語った戸田先生の胸中には、会長就任に至るまでの苦闘を共に乗り越え、渾身の薫陶を続けていた池田大作青年の姿がありました。池田先生はつづっています。「師の声を、私は会場の一角で、若き生命に刻みつけていた。それは大難を勝ち越えた師と弟子の二人の儀式であったからだ」

◎金拍車の戦い(きんはくしゃのたたかい、フランス語: Bataille des éperons d'or)は、1302年7月11日にコルトレイクにおいてフランドル(蘭:フランデレン、英:フランダース)の都市連合軍がフランス軍を破った戦い。フランス王フィリップ4世がフランドルを併合しようとした1297年から1314年まで続いたフランス・フランドル戦争(英語版)の中で起きた。戦場に騎士の象徴とされた金拍車が多く残されたため、この名がついた。地名を取ってコルトレイクの戦い(フランス語:クールトレの戦い:Bataille de Courtrai)ともいう。

◎鄭 和(てい わ、拼音: Zhèng Hé, 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。12歳の時に永楽帝に宦官として仕えた。軍功をあげて重用され、1405年から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インド、セイロン島からアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。

唐代の貨幣が東アジアアフリカで出土していることから、この時期には既にアフリカまでルートがあったらしい。宋代から元代にかけて、中国商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていたが、明を建国した洪武帝は1371年に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による外国との通商を禁じた[5]。この法は明王朝一代を通じて守られ、これは永楽帝の代においても例外ではなかった。一方で永楽帝は洪武帝時代の消極的な対外政策を改め、周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上した。こうして1405年6月、鄭和は南海船団の指揮をとることを命じられた[6]。


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0186〜0237 開目抄 0198:04〜0198:08 
第21章 難信の相を示す

講義

われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んで、またつぎの世で生命の活動がなければならぬ。他の宗教では、つぎの世の生命活動を、西方の浄土世界とか天上界とかいうような、架空の世界観をつくって、そこで生きているという。これは法身論の生命観であって、事実の生命観ではない。つぎの世に生まれてくる世界は、われらが今日生活していると同様の娑婆世界である。しからば、世間にいう生まれ変わってくるという、あのことかと思うであろう。事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。しかしぜんぜん別個ではあり得ないのである。では同じ人かというに、同じ人でもないのである。あたかも七歳のAなる人と四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等はぜんぜん別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。今世のAと来世のAとは、生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
 七歳のAが四十歳にいたるまで、生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も、変化の連続をなしたごとく、今世の生命が来世の生命にいたるとしても、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことは、当然なことである。


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