◎ブラボーわが人生こぼれ話〈信仰体験〉
激戦地の記憶 後世に
多田さんは124連隊の会報を大切に保管している
その人は、雨の音を聞くたびに
先の大戦を思い出す。
インパール作戦が失敗に終わり
スコールの泥どろにまみれたジャングルで
あかつきを待たず消えた
おびただしい命。
どうすることもできず
地じ獄ごくの道を
ひたすら歩いた過去を持つ。
終戦75年。
生き永ながらえた者として胸に秘ひめた
想像できないほどの志こころざしは
98歳の今も、しおれてはいない。(天)
あれは何のための戦争だったか。第31師団の124連隊ですたい。コヒマ(インパール北方の要衝)を攻略したとです。
でも補給が無いけ、数百発の砲撃を受けてもですよ、弾を節約して応戦するしかなかでしょうが。制空権が無いから、どうにもならんですよ。
そのうち弾も食糧も尽きてですね、みな栄養失調になったとです。飲むなと言われた沢の水を飲んでアメーバ赤痢になったり、マラリアで動けんことになってしもうて。
師団長が独断で、コヒマ撤退命令を出したとです。
昼はジャングルに隠れて、夜に歩くとです。スコールが激しくて、1メートル先が見えん。全身ずぶぬれ。ひげはぼうぼうで、やせ細ってね。いつ襲撃されるか分からんけど、銃もほったらかして、ふらふら下がってきよったけん。まともな靴を履いとる者おらんですよ。
歩けん者はみな死んだ。「助けてくれ」言われても、肩組んで歩けんかった。むごたらしいこと、腐りかけた人間の傷口にウジが湧いとる。
折り重なるように倒れる遺体を、高い木の上からハゲタカが見とるでしょうが。舞い降りてくるけん、すぐに白骨になったとです。ハエが群がる激しい臭いは、何とも言えん。
かわいそうに、手りゅう弾を腹の上に抱えて自爆する者もおったけん。草むらから2発、3発……こんなことがあっていいんか。隊列の後ろおったから、断腸の思いで全部見てきたとです。
昭和37年(1962年)に信心して、池田先生とお会いしたですよ。
先生が学会歌をさっそうと舞われたのを見てですね、腹が決まったとです。悠然と、自信満々の舞でした。ああ、この人に付いたら間違いない、と確信したわけでしたい。
私の場合、戦争のいろんな体験が全部、学会活動の中に入り込んどる。祈りよったら、戦友の顔が浮かんできますけんね。撤退のひどい顔じゃなくて、和やかに笑った顔がなぜか浮かぶです。遺された家族が平和で栄えていくようにね、毎日祈りの一番先に出てきましょうが。
戦争のむごさを伝えていくんが、自分の使命とつくづく感じたですよ。900人と交わりを結んで、信心の話をしてきたです。ハガキを出したと。池田先生に付ききって、やっと分かったことを書いたです。
「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451ページ)
戦友が自分に胸を張らせてくれたとですよ。
数年前、慰霊の旅に戦友とビルマへ行きました。本当は平和な場所なんですもんね。川がゆっくり流れて、ほとりに小さな家があってですね。風が穏やかで、緑がたくさんある。なんでこういう所で戦争したもんかなあ。
20人ほどで木の船で川を下ったです。私が創価学会に入っとるのを、みんな知っちょりますけんね、「弔ってください」と頼まれたわけ。
船を川岸に寄せて、堂々と勤行しました。みんなも手を合わせちょった。多くの仲間の犠牲があって、自分は生き永らえることができたとです。「一緒に帰ろう」。涙が出たです。
私が代表して、川に花を手向けたです。だんだん小さくなるのを、みんな黙って見ちょった。
私は白い星形の花のことを思い出したとです。亡きがらに供えてあった夜香花という花ですたい。現地の人の温情を、私は戦地で見たとです。
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