◎キングは池田会長と同じ道を歩んでいた――米公民権運動を闘たたかったハーディング氏との語らい
連載〈扉をひらく 池田先生の対話録?〉第12回
1931年生まれの氏は、キング博士の2歳年下。同世代の二人が出会ったのは、58年秋のことである。
当時、シカゴ大学の大学院生だった氏は、「メノナイト」という教会の一員として、白人のキリスト教徒とも協力し、開かれた共同体を創つくろうと試こころみていた。ある日、こんな話が持ち上がる。“黒人と白人が共に行動することが危き険けんな南部において、私たちは信念を貫つらぬくことができるか”
アメリカ南部では、人種差別撤てっ廃ぱいの運動と抵てい抗こう勢力の対立が激げき化かしていた。55年、ローザ・パークス氏の不当逮たい捕ほを機にアラバマ州でバス・ボイコット運動が始まり、56年に州立大学への黒人の入学が許可されるも、キャンパスや街まち中なかで暴力事件が起きた。
ハーディング氏ら、黒人と白人の5人組は、車でアーカンソーからミシシッピ、そしてアラバマへと南下。そこで、公民権運動を指し揮きするキング博士と劇げき的てきな出会いを結ぶ。
旅の詳しょう細さいを知った博士の喜びは、ことのほか大きかった。博士が目指していたのは、不正と抑よく圧あつを絶たつだけでなく、誰もが信頼し合える「新しいアメリカ」を建設することであり、その“希望の萌ほう芽が”を5人の勇気に見いだしたからであった。博士は語った。
「我われ々われがここで非ひ暴ぼう力りょくという手しゅ段だんをもって何をしようとしているのか、わかるはずだ」「何としてもここにまた戻もどってきて、我々を助けてほしい」
その後、ハーディング氏は南部への移住を決断。博士の「盟めい友ゆう」となる。
氏は後年、「公こう民みん権けん運動」との表現は、その本質を狭せばめていると訴うったえる。それは、未来へと世代を超こえて継けい承しょうされるべき「民主主義を拡大するための運動」である――と。
探たん求きゅうすべきは「人間の精神」
「今日の会見を、キングも喜んでいると思います」
ハーディング氏の笑顔がほころぶ。94年1月17日、新春の都内で池田先生との初会見が実現した。
「人類が前進するための苦く闘とうにおいては、私たちすべてを結びつける根こん源げん的てきな絆きずなが存そん在ざいする」
「不正義に“対して”戦うのでなく、正義の“ために”戦うのです」
「キング博士の夢も、ハーディング博士の夢も、さらに私たちの夢も、世界市民の使命に立ち上がった青年たちによって、必ず実現されていくに違ちがいありません」