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◎〈第3代会長就任60周年記念 広布史アルバム〉? 昭和51年7月18日 「人間革命の歌」誕生
逆境の時こそ、使命の道を勇んで進め
誓いを貫きゆく正義の歌を。
師弟の魂あふれる勇気の歌を。
池田先生が「人間革命の歌」の制作を決めたのは、1976年(昭和51年)6月の末のことである。
当時、広布の伸展と共に、一部のマスコミによる、いわれなき中傷があった。また、宗門の悪侶らも、陰湿な悪口を浴びせ始めていた。障魔が蠢動する中、池田先生は、大切な同志が一人も漏れなく地涌の使命を果たし抜くため、歌の制作を開始した。
この歌を作った当時は、すでに第一次の宗門問題の兆しが現れていた時期であった。聖職者であるべき僧が、あろうことか信徒を見下し、かりそめの宗教的権威をかさに、民衆を支配しようとする策動であった。
民衆をいじめ、僧衣の権威で縛りつけようとする悪侶らの陰険な言動――だからこそ私は、いわば新たなる「魂の自由」の歌、「幸福への前進」の歌を、全国の友に贈りたかったのである。
嵐吹きすさぶ時こそ、仏法者としての「人間革命」の好機ではないか。「地涌の同志」が、使命の道を勇んで開いていくべき、旅立ちの時ではないか、と。
さいわいなことに、全国の友は、「人間革命の歌」を愛唱してくださった。私の「心」を受けとめてくださった。
しかし、その後、波浪は、さらに激しく学会に襲いかかってきた。一時期は、とうとう、この「人間革命の歌」をはじめ、いくつかの愛唱歌さえも歌えない、いな、歌ってはならないという状況になったことを、今なお覚えている方もおられるであろう。
だが、いかなる権威も、人間の心までは縛れない。会合の帰り道で、一日の仕事を終えてたどる家路で、友は「人間革命の歌」を口ずさみながら、あの苦しい日々を進んでくださったのである。
「人間革命の歌」は、どんな吹雪にも、胸を張って生きぬいていこうという心を歌ったものである。人生には、暴風雨があり、暗い夜もある。だが、それを越えれば、ふたたび、晴れた青空を仰ぎ見ることができる――。
冬の寒さを知る人こそが、春の暖かさを実感できる。苦しみが深かった分だけ、大きな幸福の朝が光るのである。
どんな「運命」も「価値」に転換していく人――それが、人間としての勝利者であり、王者であろう。
その王者の「前進の歌」となれば、これほどの幸せはない。
「人間革命の歌」の作曲に全精魂を注ぐ池田先生(1976年7月18日、創価文化会館<当時>で)。先生は「後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった」と。曲が完成すると、先生は各方面・県のリーダーらに次々と電話を入れ、電話口の前にカセットデッキを置き、誕生したばかりの歌を伝えていった
?君も立て 我も立つ 広布の天地に 一人立て……。「石川創価学会結成16周年記念勤行会」で、池田先生が参加者と共に、「人間革命の歌」を合唱。この日、先生は「土籠(つちろう)御書」を拝し、一段と強盛な信心に立ち、宿命転換の証しを打ち立てていくことを呼び掛けた(76年11月13日、石川文化会館で)
【寸鉄】
信心を貫けば「善根とし
て動かざる事なし」御書。
唱題第一で勇敢に前進!
◇
家庭や職場で慕われる事
が指導者への道―恩師。
慈愛と信頼光る灯台たれ
◇
忍耐はあらゆる困苦に対
する最上の治療―作家。
共々に負けじ魂燃やして
◎名字の言
映画界の巨匠・黒澤明監督にとって「傑作」とは?
「芸術家にとって、傑作というものはありません。あるとすれば、それは未来の作品です」
▼“次こそ”という心を持つ人は、常に向上していく。福島県のある多宝会の婦人部員は、信心根本に経済苦、大病を克服。悠々と人生の総仕上げをと思った矢先、原発事故の影響で避難生活を強いられた。だが婦人は負けなかった。「まだまだ! 私の人生、ここからが本番よ」。震災後、婦人は2人の友を入会に導いた。今、本紙を携え、生き生きと仏縁を広げる
▼池田先生は「仏法者とは、永遠の求道者であらねばならない。そこに、人間革命の道がある」と。今日より明日へ、前を向く心から“人生の劇”は生まれる。自分らしく挑戦を重ねる“名優”でありたい。(閃)