◎聖教新聞より
●唱題に 自粛はないと 妻元気
唱題に自粛なし??
●池田先生?とミラノ・スカラ座のバディーニ総裁?(1981年、イタリアで)
●『日蓮門下の人間群像――師弟の絆、広布の旅路』上巻が、発刊された。
これは、「大白蓮華」の2017年4月号から19年6月号までに掲載された連載企画を収録したもの。最新の教学研究の成果を踏まえた内容となっており、南条時光や富木常忍ら、師の励ましを胸に苦難に挑んだ門下の奮闘に光を当てながら、“愛弟子に勝利の人生を歩ませたい”との日蓮大聖人の慈愛に迫る。また、関連する池田大作先生の講義も掲載する。
●感染症との「共存」へ 新たな価値の創造を
社会経済活動が活発になるほど、「経済を優先したい人」と「感染予防を徹底したい人」等の考え方の違いによる、意見の対立が生まれることが懸念されている。会議では、社会が二極化しないよう、どちらか一方の考えに偏るのではなく、多様性を尊重しながら、新しい道を価値創造していく重要性が指摘された。
その上で、公衆衛生学の観点から、「人とのつながり」が多い人ほど病気になりにくく、幸福感を得やすいことなどを紹介。一人一人の「思い」を尊重する“創価の励まし”は、地域・社会の「つながり」や「絆」を強め、自他共の幸福を築いていく要因となることなどが語り合われた。
●寸鉄
「法華経と申す御経は身
心の諸病の良薬」御書。
朝晩の勤行でリズム刻み
◇
信仰は「無限の向上」の異
名―戸田先生。昨日より
今日。挑戦の人は皆、青年
●名字の言
人が見ていようがいまいが、誠実に友のため、社会のために尽くす人生を歩みたい。そして、目立たぬところで奮闘する陰の人を見つけ、たたえる眼を常に持ちたいと思う。
●相手を知ることが渉外の基本
<日中関係に暗雲が垂れこめる中、1966年(昭和41年)7月、青年部の幹部が中国の関係者と会談する。終了後、報告を受けた伸一は語る>
「やはり最初は硬い雰囲気だったんだね。初対面の時は、互いに緊張するだけに、その硬さを解きほぐしていくことが大事なんだ。
それは笑顔だよ。
そして、最初に何を言うかだ。
包み込むような温かさがあり、相手をほっとさせるようなユーモアや、ウイットに富んだ言葉をかけることだよ」(中略)
つまり、全体主義となり、どうしても、個性は抑圧されることになる。
それに対して、大聖人は『一心同体』ではなく、『異体同心』と言われた。
これは“異体”である個人、また、それぞれの個性や特性の尊重が大前提になっています。
その一人ひとりが“同心”すなわち、広宣流布という同じ目的、同じ決意に立つことから生まれる、協力、団結の姿が異体同心です。
つまり、それは、外側からの強制によるものではなく、個人の内発的な意志による団結です。だから強いんです。
◎萬以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。
保元の乱、平治の乱を経て平清盛が台頭し、平氏政権が形成された。仁安2年(1167年)には清盛は太政大臣にまで登りつめる。承安元年(1171年)、清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させた。平氏一門は知行国支配と日宋貿易で財を増し、10数名の公卿、殿上人30数名を占めるに至る。『平家物語』に云う、「平家にあらずんば人に非ず」の全盛期となった。
これには朝廷内部でも不満を持つものが多く、嘉応2年(1170年)には摂政・松殿基房と平重盛との間で暴力沙汰に発展した紛争が起きている(殿下乗合事件)。治承元年(1177年)には鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、平康頼、西光、俊寛ら院近臣多数が処罰され、後白河法皇も事件への関与を疑われた。
治承2年(1178年)11月、中宮徳子は言仁親王を産み、直ちに立太子された。
治承3年(1179年)11月、近衛家の所領継承問題に端を発し、ついに清盛は兵を率いて京へ乱入してクーデターを断行。法皇は鳥羽殿に幽閉され、関白・基房は解任・配流、院近臣39名が解官された(治承三年の政変)。
そして治承4年(1180年)2月、高倉天皇は譲位し、中宮徳子の産んだ言仁親王が即位した(安徳天皇)。