6月21日(日)
1467年(応仁元年5月20日) -
応仁の乱:山名持豊(宗全)、畠山義就らが挙兵。
1582年(天正10年6月2日) - 本能寺の変。明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃し、織田は自害。
1900年 - 義和団の乱: 清国が日米英独仏伊墺露の8か国に宣戦布告。
◎応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1478年)までの約11年間にわたって継続した内乱。
室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる[注釈 1]。
十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。このように、戦乱期間の大半は文明年間であったので、応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府16・18・21代管領。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国守護。細川京兆家11代当主。応仁の乱の東軍総大将として知られている。
山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成(よししげ)。
◎本能寺の変(ほんのうじのへん)とは天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。
◎「宣戦布告」への過程 編集
義和団の源流は何かという問題と並んでよく論じられるのが、清朝の列強への「宣戦布告」である。この決定は義和団及び列強連合軍に対しどう対処するかについて、4度御前会議が開かれた末、決定された。この火を見るより明らかな無謀な決定は何故出されたのだろうか[注釈 4]。激昂に駆られた感情的な側面があるのは確かであるが、それのみを重視して「宣戦布告」=狂気の選択といったような不可知論的説明は歴史学では採らない。
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
0186〜0237
開目抄 0196:15〜0197:11
第19章 本門に久遠実成を説くを示す
本文
法華経の正宗・略開三・広開三の御時・唯仏与仏・乃能究尽・諸法実相等・世尊法久後等・正直捨方便等・多宝仏・迹門八品を指して皆是真実と証明せられしに何事をか隠すべきなれども久遠寿量をば秘せさせ給いて我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す等云云、最第一の大不思議なり、
現代語訳
これは不思議だと思うのも、むりはないが、無量義経は法華経の序分であるから、正宗分の法門にはふれていないのであろう。ついで法華経の正宗分たる方便品にいたり、略して三乗(声聞・縁覚・菩薩)を開いて一仏乗を顕し、また広く三乗を開して一仏乗を顕す時において、「唯仏と仏とのみ乃し能く究尽したまえる諸法の実相」と説き、また「世尊の法は久しくして後(要ず当に真実を説くべし)」と、また「正直に方便を捨てて但無上道を説く」等と説いてゆき、多宝仏が見宝塔品に出現して、迹門に説ききたった正宗分の八品をさして、「みなこれ真実である」と証明されているゆえに何一つかくすべきはずはないけれども、久遠寿量を秘し給いて「われ始め道場に坐し、樹を観じてまた経行した」と説いている。これこそ、もっとも第一の大不思議である。