◎初会見の席上
(左から3人目がテレシコワ氏、
右手前から4人目が池田大作先生。
1975年5月26日、モスクワ)
●人類初の女性宇宙飛行士との会見
「カモメさんに、お会いできました!」池田大作先生の第一声に、ぱっと笑顔の花が咲いた。
“カモメさん”と呼ばれた女性初の宇宙飛行士。ワレンチナ・テレシコワ氏は1975年5月、池田先生と会見した。
「なぜ宇宙飛行士に?」との池田先生の問いかけに、テレシコワ氏は静かに語り始めた。「宇宙へ行きたい」と思ったのは、ガガーリン少佐が人類初の宇宙飛行を成功させた時(1961年4月)だったという。「男が飛んだんだから、この次は女の番だね」その日、何気ない母の言葉が心を打った。戦争のため、幼くして父親を失ったテレシコワ氏。厳しい環境の中、女手ひとつで育ててくれた母親の存在が支えだった。
テレシコワ氏は、働きながら工学を学び、地元の航空クラブでスカイダイビングを行っていた。1962年、400人を超える候補の中から女性宇宙飛行士に選抜。想像を絶する厳しい訓練を経て、念願の宇宙へ飛び立った??。
●世界のすべての母の幸福を
「ヤー、チャイカ(私はカモメ)!」
63年6月16日、ソ連の宇宙船ボストーク6号から、弾んだ声が世界に向けて発信された。人類で初めて女性が宇宙に飛び出した瞬間だった。「カモメ」は、テレシコワ氏が交信するときに使うよう決められたコールサイン(呼び名)だった。
氏は宇宙から地球を見てふるさとの母親を思った。祖国の上空に差しかかると、母への感謝を発信した。“わが母と、世界のすべての母親の幸福を希望する”??と。
●平和への願い
1987年5月、池田先生はモスクワを訪問。「核の脅威展」を開催し、ルイシコフ首相や各界の代表と会見した。テレシコワ氏は、ソ連対外友好文化交流団体連合会議長として諸行事を支えた。
「ようこそ。訪ソのたびに友情の果実を残していかれる池田会長の来訪を、心から楽しみにしておりました」(テレシコワ氏)
「私どもへの万般にわたるご厚情とご配慮に、深く感謝したい。細やかな心遣いに、心から感嘆しております」(池田先生)
テレシコワ氏は語った。「宇宙に出ると、地球がいかにも小さくて壊れやすいものに感じられます。小さく青く輝く地球。この青さを核戦争の黒い灰でおおってはいけません」「私たちは皆、『地球号』という大きな宇宙船で一緒に飛んでるのですから」
☆ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(ロシア語: Валенти?на Влади?мировна Терешко?ва, ラテン文字転写: Valentina Vladimirovna Tereshkova, 1937年3月6日 - )は、ソ連・ロシアの宇宙飛行士、空軍軍人、政治家。1963年6月16日にボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行った。
ワレンチナ・テレシコワ
ソ連の宇宙飛行士。1963年6月、女性初の宇宙飛行に成功。70時間50分の飛行で地球を48周した。女性単独では史上、ただ一人。ソ連婦人委員会議長、ソ連対外友好文化交流団体連合会議長、ロシア国際科学文化協力センター議長などを歴任。
◎寛文近江・若狭地震(かんぶんおうみ・わかさじしん)
江戸時代前期の寛文2年5月1日(1662年6月16日)に近畿地方北部を中心に発生した大地震で、2つの地震が連続して発生した地震と考えられている。
発生日 1662年6月16日(寛文2年5月1日)
震央 近畿地方北部
規模 M7.5程度
最大震度 震度7:近畿地方
『殿中日記』には京都において二条城の御番衆小屋などが悉く破損、町屋が千軒余潰れ、死人200人余、伏見城も各所で破損したとある。
◎カトル・ブラの戦い (カトル・ブラのたたかい、仏:Bataille des Quatre Bras、英:Battle of Quatre Bras、蘭:Slag bij Quatre-Bras )は、1815年6月16日にベルギー中部のカトル・ブラ付近で行われた戦い。ウェリントン率いるイギリス・オランダ連合軍が、ミシェル・ネイ率いるフランス軍を撃退した。ナポレオン最後の戦いとなったワーテルローの戦いの前哨戦のひとつである。
◎新潟地震(にいがたじしん)
1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒(JST)、新潟県の粟島南方沖約40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震である。地震の規模はM7.5(Mw7.6)。
最大震度
震度5:新潟県 新潟市、長岡市、宮城県 仙台市など
津波 4m程度1
被害 死傷者数 死者:26人
被害地域 主に新潟県、山形県、秋田県