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2020.6.1

2020年06月01日 (月) 00:52
2020.6.1

6月1日(月)

??フランス革命戦争最大の海戦、栄光の6月1日(1794)

??1215年 - チンギス・カン率いるモンゴル帝国軍により金の都城・中都(現在の北京)が陥落。

??元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
江戸幕府を開いた徳川家康(1543-1616)没。
嬉やと再び覚めて一眠り浮世の夢は暁の空――辞世の句

??1812年 - 米英戦争: ジェームズ・マディソン米大統領の演説の後、議会でイギリスへの宣戦布告の可否を問う投票が行われ、上下院ともに可決。18日に開戦。(米英戦争の原因)

☆当時は、英国が覇権国、米国が新興国?
今は、米国が覇権国、中国が新興国。
次は、中国が覇権国、印度が新興国か。


◎ラフィネ イオンモール直方店
もう8年揉んで貰っている29歳の子が、福岡市近郊店から筑豊・直方店に移ったのでまたまた追っかけ?車で一時間半、ドライブがてら、交通の便もよい。奥さんに言うと「好きね〜」とまたいじられるので、新幹線で今までのお店に行ったようにして言わない。
「はいお土産、梅ヶ枝餅?」
「えらい気のきくね」
?


◎麒麟がくる「家康への手紙」
母からの………???
小説で読んだときも感涙した覚え。

お婆ちゃん役は真野響子(まや きょうこ)。
四人の子供と旦那が居るのに奪われて松平家に。
こんな感じで綺麗かったんだろうな………?

お婆ちゃんと娘(家康の母)於大の方との対面シーンも涙涙?

次回はいよいよ『桶狭間』??


◎ブルボン朝最盛期を築いた冷酷な会計顧問
一六六一年三月、太陽王ルイ一四世(在位1643~1715年)

曾祖父フェリペ二世と同じく、ルイ一四世も自分の絶対権力は神から授かったと信じて疑わず、自分が責任を果たすべきは神だけであると心の中で信じていた。それでもルイ一四世には奇妙な矛盾があった。プロテスタントの国オランダの自信や富を憎む一方で、それを支える手段としての会計には魅せられていたのである。もっともルイ一四世は、政権運営における会計の有用性を認めたらものの、のちには責任を問う手段としての脅威にも気づいてしまうのだが。

●ジャン=バティスト・コルベール
(Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日)
17世紀のブルボン朝フランスの政治家。ルイ14世の財務総監(現在の大蔵大臣・財務大臣に相当するが、「省」レベルの規模の官庁を必ずしも指揮下に置かない)を長年務めた。

「国債は厄介者で、金利生活者はパラサイトである」と述べ、1661年と1664年に債務の元利をざっくりカットした[1]。債権者側とおぼしき者に容赦なく罰金を課して、債券や担保を請負人に徴収させた。法定金利の引き下げ(5.56%から5%へ)も行っている。

●ブルボン朝(ブルボンちょう、フランス語: dynastie des Bourbons)
近世フランス王国の王朝である。1589年から1792年まで、一時中断を挟んで1814年から1830年まで続いた。文化史の分野ではルイ王朝と呼ばれることがある。これはこの王朝にルイという名の国王が何代にもわたって続いたからである。カペー朝の支流である。

ヴァロワ朝の末期には王家支流のほとんどが断絶していて、遠縁筋のブルボン家でも分家となる新教徒のアンリ・ド・ナヴァールが王位継承者として定まった。そして新旧両派の宗教戦争であったユグノー戦争の最中にアンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶、そのナヴァール王がアンリ4世としてが本来カトリックのフランス国王として即位したことでブルボン朝が成立した。このときメディチ家の財力を受け継いだ。ルイ14世の時代には絶対王政を築き、ハプスブルク家と政略結婚もし、領土拡大など戦果を上げて最盛期を迎えた。

フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去り、ナポレオン1世の失脚により王政復古で舞い戻ったが、七月革命によって再度王位を追われた。現在のスペイン王室は分家にあたる。
(帳簿の世界史)


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