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2020.5.30-2

2020年05月30日 (土) 04:14
2020.5.30-

◎ナイチンゲールR15+【KBCシネマ】

2018|オーストラリア、カナダ、アメリカ|
原題:THE NIGHTINGALE|136分

監督:ジェニファー・ケント

出演:アイスリング・フランシオシ、サム・クラフリン、バイカリ・ガナンバル 他

19世紀、オーストラリアのタスマニア地方。けちな盗みを働き流刑囚となったアイルランド人のクレアは、その美しい容姿と歌声から、一帯を支配する英国軍将校ホーキンスに囲われていた。彼女が刑期を終えた後も拘束されていたため、クレアの夫エイデンはホーキンスに交渉を試みるが、逆上したホーキンスに殺害されてしまう。愛する者達を奪われたクレアは復讐を決意し、先住民アボリジニの黒人男性ビリーに道案内を依頼すると、野心と出世を目論み旅立ったホーキンスを追跡する旅に出る。危険な任務を嫌い、最初は彼女に反発しながらも謝礼金のために嫌々同行していたビリーだったが、彼女の本当の目的を知ると、自分も白人達から家族や仲間を殺されて奴隷となった過去を打ち明ける。共通の敵を持つ2人の間には強い絆が生まれてゆく――。


【寸鉄】
「日蓮が一門は師子の吼
るなり」御書。苦難を吹き
飛ばす大確信で勝ち進め
     ◇
策でなく信心で解決した
時宿命転換できる―恩師
何があっても題目根本で
     ◇
外出制限の解除で第2波
生じる可能性が―WHO
「新しい生活様式」を皆で
     ◇
言葉巧みに銀行カード騙
し取る手口横行と。絶対
他人に渡すな。厳重警戒
     ◇
外出自粛の影響で体重増
加の人多し。適度な運動
を心掛け賢く健康づくり


◎名字の言 「新たな日常」を前向きな心で
「水の千流万派は、一源に始まる」とは、中国・明代の哲人指導者である呂新吾の言葉。たくさんの支流からなる大河も、元はたった一つの源から発している、という意味だ▼さらに呂新吾は続ける。「人の千酬万応は、一心に発す」。すなわち、人は社会の中でさまざまな対応を迫られるが、その全てはたった一つの心から出てくる、との意(守屋洋編訳『呻吟語』徳間書店)。心の在り方によって、その人の行動の全てが変わる、とも言い換えられよう▼緊急事態宣言が解除された今、「新しい生活様式」が求められている。十分な身体的距離を保つとともに、マスクの着用、手洗い・うがいの励行といった、基本的な感染防止対策の「習慣化」が必要だろう▼一方で、“飲食店での望ましい行動など、気を付けなければいけないことが多くて息が詰まりそう”という声もある。先日の学会青年部と医学者による第6回オンライン会議では、一人一人の“心掛け”に注目。“できないこと”を嘆くのではなく、“できること”を見つけ、「新たな日常」を模索することが大切と強調していた▼池田先生は「幸福の源泉は『心』だ。聡明な心は希望を創り、連帯を広げる」と。何があっても前向きな心で。そこから価値創造が始まる。(銘)


◎河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。

◎華陽院(けよういん、明応元年(1492年) - 永禄3年5月6日(1560年5月30日))は、戦国時代の女性。水野忠政の妻、のちに松平清康の後妻など。実名は「於富の方」あるいは「於満の方」などといわれている。

はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方(家康の母)ら3男1女を生む。ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている。

◎プラハ条約とは、三十年戦争の過程で神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が、1635年5月30日にボヘミアのプラハで結んだ和平条約である。内容は皇帝とプロテスタント連合軍(ハイルブロン同盟)を率いてきたベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル及びドイツ諸侯との和解であった。

◎五・三〇事件(ごさんじゅうじけん)とは、1925年5月30日に中国・上海でデモに対して上海共同租界警察(英語版)が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件。中国語では「五卅慘案(拼音: Wǔ-Sà Cǎn'àn)」と呼ぶ。またこの事件に続く一連の反帝国主義運動を、五・三〇運動(中国語: 五卅運動、拼音: WǔSà Yùndòng)という。

1924年、第二次直奉戦争(zh)の余波で、中国国内は辛亥革命以来大規模な混乱を呈していた[1] 。 特に、上海を含めた都心部は深刻なインフレに見舞われ、加えて孫文の死去(3月12日)以降、国民党はそれら各都市での反帝国主義運動をますます活発化させていった[2]。一方共産党も上海大学の学生らを中心として同様の活動を行っていた。

上海に本来から居住していた中国人たちは、他の都市との結束力が強く、知識人たちは工場での劣悪な労働環境[3]や検閲に、一方労働者達は租界の地方議会で可決された12歳未満の児童に対する労働禁止法に、それぞれ不満を抱いていた。 こうして、上海市民達は租界に対する反感をつのらせていった。

5月28日、中国国民党上海執行部は運動の代表者らに対し、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかけた。 だが、その当日の30日朝、抗議活動の中心となっていた学生15人が南京路にて租界の警察機関である上海公共租界巡捕房(en)に連行された。これに反発した民衆が学生らの釈放を求め、数千人規模のデモを組織した。上海租界当局および日本、イギリスなど租界の諸外国は強硬に対処し多数の逮捕者が出た。また警察も、イギリス人警部の命令で、中国人・インド人の警官がデモ隊に発砲し、参加していた学生・労働者ら13人が射殺され、40人余りが負傷した。これをきっかけに、全市規模のゼネストに発展した。


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