◎「新プラトン主義に敗れたメディチ家」
フィレンツェは個性的な街である。午後遅く、澄んだ空気の中で日差しを浴びるフィレンツェはこのうえなく美しい。
コジモ・デ・メディチ(一三八九~一四六四)は、したたかな銀行家だった。
コジモの父、ジョヴァンニ・ディ・ビッキ・デ・メディチは巨万の富を築き、ダティーニをうわまわる一一万三〇〇〇フロリンの遺産を残した。
メディチ家の富は「フィレンツェに恐怖をもたらした」
哲学者が王となるべきだと語ったプラトンの思想がフィレンツェの教養の高いエリートの間で重んじられ、文化的業績を徳のみならず社会的権威と結びつけるようになっていく。
ルネサンス期の新プラトン主義によれば、人間の栄光は芸術、文化、政治的業績に基づくとされ、ごく現実的・現世的な職業は必ずしも重視されなかった。
そもそもルネサンスは、中世の教会の教えに真っ向から反するものである。アウグスティヌスははっきりと、キリスト教徒は現世の知識に背を向け自己実現の望みを捨てよ、信仰だけが人間を救うのだと宣言している。しかしコジモは、プラトンやアリストテレスを始め、忘れられたギリシャ思想を人文主義者たちが学ぶことを奨励し、後援した。
ピコ・デラ・ミランドウ(一四六三~九四)
『聖なる数字を商人の算術と混同してはならない』
新プラトン主義の貴族的哲学は、商人の価値観と衝突し始めた。
●サンタ・トリニタ教会サセッティ礼拝堂壁画
サセッティ家の礼拝堂を建立すれば子孫にも感謝される。
今日でもギルランダイオの傑作の一つとされている。
サセッティは厳密な会計と銀行経営に向けるべき注意と情熱を、サセッティ家の礼拝堂建立に注いでいた。ギルランダイオに描かせたこの作品は、新プラトン主義を表現した傑作とされる。
サセッティはもはや会計士としてではなく、信仰心篤く教養の高い貴族であると自負しており、雇い主でありフィレンツェの事実上の支配者であるロレンツォ・イル・マニフィーコの隣に自分を描かせている。
メディチ家と不運な支配人たちの顛末は、フィレンツェの簿記・会計ほど深く根付いた伝統でさえ、あっという間に消滅してしまうことを雄弁に物語っている。当代一流の銀行家だった老コジモは、新プラトン主義への傾倒がその後数百年にわたって会計と責任の文化を損なうことになろうとは、想像もできなかったにちがいない。
(帳簿の世界史)
メディチ家(メディチけ、イタリア語: Casa de' Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。
その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。これらは、メディチ家の直系で最後の女性アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家の栄華を現代にまで伝えている。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。