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2020.4.13-2

2020年04月13日 (月) 00:29
2020.4.13-

〈新・生き生き川柳〉
危機管理 油断排して 皆元気
 
励ましは 互いの心に 火を灯す
 
大悪は 大善来るの 知らせなり

花びらが 新聞にのる 桜道
 
苦難にも 師あおぐ桜 希望あり

皆感謝 健康和楽の 金婚式


【寸鉄】
地域に根差す学会員は社
会に愛広げる存在―識者
電話等で孤独防ぐ激励を
     ◇
未来部の日。「子の成仏・
即ち父母の成仏」御聖訓。
家族で座談会など楽しく
     ◇
青年部が医学者と会議。
我らから正しい情報を!
逞しき責任感は時代の光
     ◇
コロナ関連の詐欺相談が
1万件超。高齢者、子ども
狙う事件も増加。要警戒
     ◇
世界宇宙飛行の日。人類
初の偉業も忍耐の連続。
外出自粛の今こそこの心

◎名字の言
本紙3日付「新・生き生き川柳」に「花びらが 新聞にのる 桜道」と。配達中、桜の花びらが新聞の上に舞い落ちてきて、と選者は評した。池田先生撮影の桜の写真が1面に載った新聞を配達する喜び、とも読める。花びらとは無冠の誇り、それを頭上に頂き、師弟の桜道を進む姿、とも読める▼ある女子学生から、配達員の母への感謝を込めた投稿が届いた(3月8日付)。彼女が幼い頃、母は仕事をし、夕方に保育園に迎えに来て、夕食を作り、夜は活動で遅くなることも。多忙な母に少しでも休んでほしかった彼女は、早朝から配達する母の体が心配でならなかった▼やがて創価の学びやに進んだ彼女は、「何のため」との創立の精神を自らに問いつつ、勉学やクラブ活動に打ち込んだ。今、なぜ母は配達を続けてきたのかに気付いたという。友に希望を届けるため、師との誓いを果たすため、子らの未来を開くため、と▼彼女は「私も将来、母のような立派な無冠の友になる」と書いた。彼女を含め、母を支えた4人の子どもたちは皆、朗らかに後継の大道を歩む▼昨年6月の川柳に「配達の 陰に家族の 祈りあり」と。献身の行動を続ける尊き無冠の友の無事安穏を強く祈るとともに、支えるご家族にも心から感謝申し上げます。(進)



◎ナントの勅令(ナントのちょくれい、仏: Édit de Nantes)は、1598年4月13日にフランス王アンリ4世がナントで発布した勅令。ユグノーなどのプロテスタント信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与え、近世のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた。

この勅令によってユグノー戦争は急速に収まりを見せ、フランスの国家統一の出発になった。戦費の縮小や商工業におけるユグノーの活躍もあって政治情勢のみならず国家財政も安定し、17世紀のフランスの大国時代を作り上げた。

しかしプロテスタント信徒はこのとき、自分たちの教会を持つことは許されたが、それとは別にカトリック教会にも十分の一税を納めなければならなかった[1]。

◎多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、建武政権期、延元元年/建武3年3月2日(1336年4月13日)に行われた合戦である。

後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、建武政権から尊氏追討を命じられた新田義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破り、さらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、1336年、楠木正成や北畠顕家らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し、途中播磨国の赤松則村(円心)らに助けられ、再興を賭けて九州に下った。

尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられる。一方、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能など、九州の諸豪族の大半は宮方に味方し、その軍勢は2万騎以上まで膨れ上がる。勢いを増した宮方の軍勢は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、少弐貞経を自害させた。

足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区多々良川付近)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇惟直は戦死した。

多数の裏切りを出した背景には、九州の諸豪族を軒並み味方につけて大軍を組織してはいても、その大半は宮方有利の情勢を見て是非なく菊池武敏に味方した者であったという事実が存在する。確かな宮方と呼べるのは阿蘇惟直ぐらいで、その他のほとんどはもともと日和見、もしくはむしろ尊氏よりの武将達であった。また、圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法を取り、一度宮方に付いた者の寝返りを誘った尊氏の戦略も見逃せない。

この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、尊氏は体勢を整え直した。尊氏は一色範氏や仁木義長などを九州の抑えとして残して再び上洛し、摂津国湊川の戦いで楠木正成を破る。 しかし、この戦いの後も菊池氏は頑強に抵抗を続けた。


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