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2020.3.4

2020年03月04日 (水) 00:40
2020.3.4

3月4日(水)

円の日
1869(明治2)年のこの日、
明治政府が貨幣を円形として金銀銅の貨幣を鋳造する円貨の制度を定めた。

1167年(仁安2年2月11日) - 平清盛が太政大臣に就任する。

1604年(慶長9年2月4日) -
江戸幕府が東海道・東山道・北陸道に一里塚を設置する。


◎朝出勤したら
チェックがどおっと?しかし本立てで綺麗に整頓。
机の上もメモ等がいっぱい。
質問・問い合わせもいっぱい。
??

◎パート採用決定
44歳、子供二人
3月31日までは荒尾市役所臨時職員
4月1日(水)から9時30分~16:00時給900円

不採用通知を1人、職安大川に不採用fax、職安玉名に採用fax、職安大牟田に求人停止の電話。

◎IDECOとNISA
福岡銀行が社会保険労務士を連れてきた。
福銀OBで、担当の元上司
4月6日(月)10:30から全職員向けセミナー形式の説明会??
「福岡市からわざわざすみませんね」
「いえいえ、福銀からちゃんと報酬を戴いていますから」
?

この際だから二名の女性職員の、社会保険加入すると二年分ほど遡って社会保険料を徴収されるので加入を止めていた分を、きちんと加入してもらうことに。本人たちもそれを希望。
「なら10年以内に辞めたら掛け捨てだから。あと10年は勤めてくれるということね。私にとってもなおいいよ??」
いい方向に行っている。
?

◎福岡市から一万円申告
以前は大牟田市内でカフェをされていましたが、福岡市へ菓子店として移転されてからもずっと来られていて、有難い??
福岡市の税理士は高いですからね?
他にも何人かいらっしゃいます。
?

◎完成品20件、一次チェック13件
今日は仕事がさばけて、17時前には「お先に〜」?
一次チェックは概ね1件15分
1時間で4件
13件は概ね3時間とちょっと
妻「さすが計算早かね」

◎リラクルで足60体60後
スポーツクラブに向かったら閉まっていた。
コロナ対策で早い時間に閉店。
?

◎寸鉄
インド女子大学で卒業式
人間主義の哲理に生きる
池田主義者が使命の空へ
     ◇
仏法は現当二世。未来の
果開く「現在の因」を今。
広布の勇者に智慧は無限
     ◇
自転車保険の加入増加。
運転時は急がず無理せず
―安全第一の意識向上も
     ◇
ハローワークに“氷河期
世代”の専門窓口設置進
む。公明よ支援策さらに



◎3月4日は「円の日」。1869(明治2)年、日本の新貨幣を「円」と決めたことにちなむ。当時通貨政策を担当していた大隈重信は「元」を単位名として提案していたが、公文書では「円」が採用され、以後定着した。1871年には、「新貨条例」を制定し、通貨単位の「両・分・朱・文」の4進法が廃止され、「円・銭・厘」の10進法に変更された。

ちなみに、硬貨の製造原価について造幣局は貨幣信任のために公表していないが、「1円玉」の製造コストは2〜3円と言われている(原料のアルミニウムの時価によって変動する)。

◎一里塚(いちりづか)は、旅行者の目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。

一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、徳川家康が子の徳川秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりである[3]。江戸幕府は江戸の日本橋を起点として全国の各街道の1里(約4 km)ごとに一里塚を設置するよう指令を出し[3]、長安の指揮の元に一里塚の設置が行われ、10年ほどで完了した。一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた[4]。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持つ。

◎平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。

10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが[9]、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

開目抄 0186〜0237

まず主の徳についていえば、さきにも述べたように眷属を守る力、働きを主徳と名づけるのであって、けっして固定したものではない。したがって時代の変遷につれて、主人の形態も変わってくるのである。封建主義の社会では、その主君に生殺与奪権が一任されていた。日本では天皇をもって主人となした時代もあった。しかし、現在の民主主義の世では、社会それ自体が主人である。だが、現在、もっとも強く主人としての働きを有する代表的なものは、国家社会となる。
 元来、社会というものは、個人の自由を制約するのが本位ではない。そもそも人間が集団社会を営み、社会をつくったのは、生きていくための必然的要求であった。したがって、個人の幸福を全体との調和において、守り、増進させていかなければならないのである。それであってこそ、主の徳としての価値を有するといえる。しかしながら、必ずしも、社会、あるいは国家、そこに生きる人々の幸福を守るとは限らず、ある場合には、個人の幸福を犠牲にして成り立っていることにすらある。これ、主徳を失った姿であり、ここ生きる人々くらい不幸なことはない。結局、妙法を根底としない社会では、真に主徳を発揮できえないことを断言するものである。
 また、一面からいえば、いかなる人といえども社会を離れては生存していけない。われわれは社会からどれはどの恩恵をこうむっていることであろうか。したがって個人が、逆に社会に対して美と利の価値を提供するのが当然である。この行為を善という。しかして、大御本尊を不幸な人々に教え、生きる希望と喜びを与える折伏こそ、最高善なることを知るべきである。
 また、社会は、いかに個人の幸福を守るといっても、それは、幸福の一部分を守っているのであって、主徳の一分を持っているに過ぎない。全民衆の幸福を根底より守り切っていくのは、ただ日蓮大聖人のみであり、これ主徳の究極といわねばならない。


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