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2020.2.19-2

2020年02月19日 (水) 00:30
2020.2.19-

【一年前】
◎朝
私「明日は大牟田市役所に朝9時」
妻「最近は朝ちゃんと起きるね」
「うん8時には起きるね」
「やっぱお父さんの方が長生きするばい」
「俺もそんな感じがする」
妻「???」

【二年前】
◎妻「11時から支部座談会だから、
車動かしといたがいいやろ?」

………車移動時、美人の支部婦人部長
「わーこの車すごいですね、一千万円以上すると支部長から聞きました」
私「新車なら1,500万円ですけど、中古で160万円。中身がないから見かけだけ?」(笑)

………それを奥さんに言ったら、
妻「そげん言われると嬉かろが。す〜ぐ天狗になる。?よりも稲穂?…これにならんなんたい」
私「下は?……フニャ」
「あはッ、それはもうよかったい、それはもう使いようがないけん」
………?

◎お風呂から上がったら
妻「お父さんのその背広のベスト、私が買ったとかね」
私「たぶんそうだと思うけど」
「買った覚えはないとばってんね」
「ネクタイなら色々ほかから貰ったかも知れんけど最近は要らんし、ベストは貰わんけんね」
「ネクタイなら私が首絞めてやるけん?」
( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

◎項羽と劉邦
劉邦「こどもは乳をのむ。おとなは酒をのむ。どちらも人間を大きくするものだ」
(なるほど、政治とはそういうものか)

彼女が舞いおさめると項羽は剣を抜き、一刀で斬りさげ、とどめを刺した。

項羽の脱出は、すさまじいものであった。

ーーまさか項王ではあるまい。

「江南へ帰るのだ」

項羽の死は、紀元前二〇二年である。ときに、三十一歳であった。

項羽がすさまじい勢いで城から駆け逃げる姿が、瞼に浮かぶ、感動のクライマックス!!

日本ではまだ歴史も始まってもいない、紀元前の物語が、息づかいまでもが、生き生きと迫り、言葉では言い表せられないほどに、感動。

まさにタイムスリップした感じで、こんな物語に出会えたことに、感謝!!

【三年前】
伝統の二月闘争のブロック座談会ーー
今日は、桑畑貢(公明党)元大牟田市議会議長(副県長)に入って頂きました。
「埼玉の英美ちゃん、頑張ってるね♪大牟田出身の模範! 今の大牟田の市議にいつも彼女のこと話してるよ」

今年10月でもう80歳というのにお若くて元気かくしゃく。
公明党でも大概のOBは心も活動も引退してしまうのに、今でも内外多方面での要職で御活躍されてあり、北九州、大分、そして沖縄へと現役並み!
本当に頭の下がる思いです。

短時間の中でも、 様々な角度からお話をしていただきました。
その中で最も心に残ったのがーー
昭和35年、まだ公明政治連盟の時に、組合の権力が激しくて表立った活動が出来ない中で、全国二位の未曾有の折伏の結果を出して、昭和37年に池田先生が大牟田に来られた頃の事をお話しされました。

「心はどこにあると思います?大概の人は胸に手を当てますが、……実は脳にあるそうです」

「日本の創価学会という宗教団体が、我々の学問に完全に一致すると、アメリカのノーベル賞学者が仏法を証明する時代になったんです」

「昔は『あんたちょっとこんね!』と無理矢理引っ張っていってましたが、今は柔らか〜く選挙を頼んで、友人が『あ〜公明党はいいねえ♪』と言ってくれたら、その人も信心したのと同じことになるんです」
……

他にも普段は中々聞けない草創期の話や、沖縄戦の話など、ブロック座談会ではもったいないほどのお話でした。



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

開目抄 0186〜0237

七、本因妙の教主釈尊は日蓮大聖人

 また、報恩抄の「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328-15)の文によって、釈尊を本尊とすべきではないかと論難する輩がいる。

 これは、釈尊という意味を知らざる妄論である。釈尊にはおよそ六種類の釈尊がある。一に蔵経の釈尊、二に通教の釈尊、三に別教の釈尊、四に法華経迹門の釈尊、五に法華経本門の釈尊、六に本門文底の釈尊である。ここに「教主釈尊」とおおせられるのは、じつにこの文底の釈尊であり、即日蓮大聖人のことを示されているのである。

 釈尊というのは、かならずしもインド応誕の釈尊とは限らない。如来等と同じく仏という意味で使われる場合が多い。教行証御書にいわく「爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」(1282-03)。

 この文に明らかなように、釈尊とは、けっして固定したひとりの人をさすのではなく仏の別名である。


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