◎寸鉄
会長が示した人間主義の
思想は時代を照らす光―
総長。平和世紀築く指標
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いったん植えた仏の種は
必ず大木に―戸田先生。
友の仏性信じて語り抜け
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『ワールド セイキョウ』
発売。学会の魅力が満載。
友好の拡大へ大いに活用
◎名字の言 “プライスレス”な生き方とは?
人間社会をより良くするにはどうしたらいいか。新渡戸稲造は自著『自警録』で次のように結論している。「価値なき仕事に目をつけねばならぬ」
▼この“価値なき”は、英語の「プライス」(値段)と「レス」(〜が無い)から成る単語「プライスレス」を念頭に置いており、「無価値」という意味ではない。「金銭には換算できないほど貴重で尊いこと」を表している
▼ある婦人部員は、豪雨で自宅が床上浸水の被害に遭った。水が引き、泥だらけの家財を前に、言葉を失った。その時、背後から「こんにちは」と声がする。学会の地区婦人部長が、数人の青年部員と共に訪れた。見る見るうちに片付けが進む。そこへ、さらに地区部長が、「うちで使ってたやつでよければ」と、ちゃぶ台を持ってきた
▼当時、彼女は学会活動に消極的だった。「何とお礼を言ったらよいか」と目を潤ませた。すると地区婦人部長は「なに言ってるの。私たち創価家族よ」。これまで彼女が素っ気ない対応をしても、笑みを絶やさなかった地区婦人部長は、この日も変わらぬ笑顔だった
▼他者の幸せと地域発展に尽くす学会活動は、最極の「プライスレス」の行為。実践によって友が積む心の財は、自他共に幸福長者となる道を開いていく。(城)
◎郵便制度施行記念日(1月24日 記念日)
1871年(明治4年)のこの日、「郵便規則」が制定された。同年3月1日から、東京・京都・大阪間で郵便業務が開始された。
それまでは飛脚便に頼っていたが、近代郵便制度の創設者である政治家・前島密(まえじま ひそか、1835〜1919年)の建議により郵便制度が定められ、まず東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設され、営業が開始された。当時は東京と大阪間を3日と6時間かかって郵便を届けたという。
その後、郵便役所はさらに横浜・神戸・長崎・函館・新潟と全国展開が図られた。また、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所とする旨を要請。1873年(明治6年)に全国約1100ヵ所の名主が郵便取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
前島密はその功績から「郵便制度の父」と呼ばれ、1円切手の肖像でも知られる。また、東京郵便役所が置かれた現在の日本橋郵便局には「郵便発祥の地」の碑と前島密の胸像が設けられている。
◎箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(ユリウス暦)(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。
◎都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。
当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになる[注釈 1]。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い[2]。 ロシア帝国の首都として長く定着していた。
1914年、第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国がドイツ帝国と交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード (Петроград)[注釈 2] と改められた。さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりウラジーミル・レーニンにちなんでレニングラード (Ленинград, リニングラート)[注釈 3] と改称され、この名称が半世紀続いた。
しかし、ソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる[3]。州名は従来どおりレニングラード州となっている。
【一年前】
◎NHK朝ドラ再放送べっぴんさん
「女の子は恋をしながら大人になっていくんです」
………私「恵は大人になってない」
娘「お父さんに言われたくない?」?
??
福岡空港国際線の駐車場に車を停め、空港内無料巡回バスと地下鉄で天神へ。福岡空港から天神までも10分で着く。
『平成31年度税制改正勉強会』
「配偶者居住権」
【二年前】
◎博多サウナ泊まり
明日は福岡研修で明後日そのまま上海
◎新規月次2件!!
妹「上海に行く前に決まって
良かったじゃないですか」
私「うん、ひょくっと?
自然といい感じ」
?ひょくっと (福岡の方言)……突然。
?
◎両替予約
6日で0.10円の元高
(予約:約1/16)114,060÷6,000元=19.01
↓
(両替:1/22)114,660÷6,000元=19.11円
◎小柳ルミ子
19歳の映像見て、本人
「自分じゃないみたい」
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天地真理・小柳ルミ子・南沙織
中学生時のアイドル?
小柳ルミ子は心が綺麗ですね。
西郷どんの側室役もやっぱり
バッチリのようです?
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開目抄 0186〜0237
大聖人に対しても佐渡流罪が決まり、10月10日依智をたって、同28日佐渡着、11月1日、塚原の三昧堂に入れられる。そのありさまについて振舞抄にはつぎのように述べられている。
「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり」(0916-04)。
時あたかも冬である。火の気などもとよりあろうはずはなく、ただ一人、お供をした日興上人をつれての厳寒の佐渡のご生活は、想像申し上げるにあまりある。しかも、佐渡は念仏者の国土で、大聖人を念仏の敵、仏法の異端者と思いこんで、命をつけねらう者も少なくなかった。もと北面の武士で念仏の強信者であった阿仏房が、大聖人を殺そうと企てて「念仏無間のわけをいえ」とつめより、かえって逆に論破されて、念仏を捨てたのもこのころである。