◎喰違の変(くいちがいのへん)は、明治7年(1874年)1月14日に東京の赤坂喰違坂で起きた、右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などとも。
事件の背景
明治6年(1873年)10月に政府内で起きたいわゆる征韓論争に敗れた征韓派参議の西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野したことは、征韓論に期するところのあった不平士族らにとって、いっそうの不満を高めることとなった。とりわけ、急病により一線を退いた太政大臣三条実美に代わって、論争を主導した右大臣岩倉具視や内務卿大久保利通に対する恨みは次第に増幅されていった。
暗殺未遂事件
明治7年(1874年)1月14日夜、公務を終え、赤坂の仮皇居(前年の火災により赤坂離宮を皇居としていた)から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者たちがいっせいに岩倉を襲った[1]。襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉ほか、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人。いずれも西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人であった。岩倉は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取り留めた。ただし、精神的な動揺は大きく、公務復帰は一ヶ月後の2月23日となった(この療養中に佐賀の乱が発生している)。
なお4年後の明治11年(1878年)、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族島田一良らに襲撃されて、暗殺されている(→紀尾井坂の変)。
【一年前】
◎妻「東京は何しに行くと?」
「あ、ちょうど今日(1/12)の聖教に載っとる。ロシアの彼女『忘れえぬ女』」
「追及はもうせんばってん」
「トルストイのアンナ・カレーニナの主人公たい」
「知らん」
「『またお会いできますわね』に誘われ……」
「それだけでわざわざ東京まで」
「大誓堂も行くよ、5回目」
「あらそう!!それは良かったね」
「奥さんが頑健になります様に!!
を特に今回は祈って来るよ」
?
【二年前】
◎確定申告の案内に
「3月10日以降の持ち込みは期限後申告?
(延滞税、加算税はお客様負担)
どうしても3月15日申告は20%加算
これを前提にお受けします」
私「昨年はだいぶお客さんが増え、
職員も所長ももうアップアップ状態。
直前に二人インフルエンザにもなったし。
今年増えたら何件かは3月15日に間に合わん」
妻「嬉しい悲鳴やんね」
?
【三年前】
◎「海外取引・海外進出とリスク回避について」
上海福岡県人会前会長
今日は安川電機(北九州)の上海現地法人の総経理を、20年以上されていた方の話を、福岡市で聞いて来ました。
私は何度か上海でお会いしていましたので、セミナーの前にご挨拶。
セミナーの途中でも「そちらにもずっと行き来している方がいらっしゃいますけど」と紹介して頂きました。
生の声をメモにまとめました。
1)日本は国際化には物凄く遅れている。
2)世界は三極化が続いている
3)日本は企業も「世界長寿国」
4)これからは「貿易」という概念がなくなる。
5)中国に出てない国はない!
6)質疑1:今の中国の軍事化について
当の中国人がこれまでとは違う緊張感を感じているようだ。共産党の幹部の動向を見ていても、上層部は全部、家族を海外にやっている。とにかく外で偶発を期待していて、そこから国内を引き締めようとしている。
また『ガス抜き』もあるかも!
7)質疑2:ワイロ社会について
まだ相当に有効だ!
「郷に入れば……」
「絶対だめだ」ということはない
諦めない!
人脈が大事
8)ただ基本的に中国人も韓国人も日本が好き。いろいろあっても昨年は2,400万人海外から来ている。逆に日本から韓国へは減った。日本人が嫌いになったから。
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第四章 死身弘法の心情をのべる 0185.11〜0185終り
いずれにせよ、人々の無理解のために大聖人の諌暁は用いられることなく、大聖人は「空しく年月を送」ってこられたのであるが、そこへ「今幸に強仁上人・御勘状を以て日蓮を暁諭」してきた。まさしく、よい機会である。さっそくこのついでに「天聴を驚かし」天皇の耳を惑わせて、邪正を決しようではないかと、強仁を促されている。
そしてその強仁の大聖人への「勘状」は「非を以て先と為し」た内容で、もし、公場で対決して強仁が自らの誤りを正すことをしないままで「黙止して空しく一生を過ごせば」「定めて師壇共に泥梨の大苦を招かん」と仰せられている。この「師壇」の「師」とは強仁自身であり、「壇」はその門下を意味し、ともに堕地獄間違いないといわれている。すなわち自らの「大慢」によって未来永劫に迷う因をつくるのは、自分だけでなく、門下も巻き添えにすると仰せられているのである。仏法の指導に当たる者の罪の大きさは、その誤りが自分一人にとどまらないところにあるのである。
このように、大聖人は公場対決を早く実現して対面を遂げることを促され、本抄を結ばれている。ただ、残念なことに、強仁は結局、怖じ気づいたためであろうか。公場対決は実現しないままになってしまったのである。