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2020.1.14-2

2020年01月14日 (火) 00:26
2020.1.14-

◎寸鉄
広布とは万人の幸福勝ち
取る人権闘争―戸田先生
一人一人が今いる所から
     ◇
幹部は会合に集えない友
のもとへ。全員が使命の
人。耳を傾け、真心の激励

◎名字の言 ナポレオンの“アウステルリッツの太陽”
「梅が香に 初日さして 唱題す」。元旦の初勤行に際し、72歳の壮年の友が詠んだ。初日の出と共に新しい一年を出発したのだろう▼この句を見て思い浮かぶ言葉がある。アウステルリッツの太陽――ナポレオン率いるフランス軍がロシア・オーストリア連合軍に完全勝利した「アウステルリッツの戦い」の時に生まれた言葉である▼215年前の1805年の12月2日。この日はナポレオンの皇帝戴冠式1周年の記念日だった。太陽は朝霧を破って燦然と輝き、フランス軍の前進に呼応するかのように霧を消し去っていった。ナポレオンは兵士たちに呼び掛けた。「いざ諸君と共に太陽にゆこう!」。以来、朝の太陽の光はフランス軍の士気を高め、勝利のシンボルとなった▼信仰とは、わが生命に「希望の太陽」を昇らせる営みにほかならない。「日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし」(御書1393ページ)。太陽が昇れば一切の闇が消えるように、題目を唱えれば、現実の生活で自分の成すべきことが明確に見えてくる。「さあ、やろう!」という熱と力がみなぎってくる▼何があっても、胸中に「希望の太陽」を輝かせて進みたい。寒風の中、凜と咲く梅の花言葉は「忍耐」。厳しい冬にも、不屈の心で挑み続ける人に勝利の春は必ず来る。(川)

☆アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい、仏: Bataille d'Austerlitz、独: Schlacht von Austerlitz、露: Битва под Аустерлицем)
1805年12月2日(露暦11月20日、フランス革命暦フリメール11日)にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。



◎2010年12月17日に尖閣諸島開拓の日を定める条例案が可決されたことにより定められた。沖縄県石垣市の尖閣諸島は、1895年(明治28年)1月14日に日本政府によって日本領への編入を閣議決定されており、これを記念して「尖閣諸島開拓の日」とした[3]。

1920年5月20日中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」で中国人遭難者を救助したとして沖縄県石垣村の漁民へ送られた感謝状


◎イタリア戦争(イタリアせんそう、イタリア語: Guerre d'Italia、フランス語: Guerres d'Italie)、またはイタリア大戦争(イタリアだいせんそう、イタリア語: Grandi Guerre d'Italia)、ハプスブルク・ヴァロワ戦争(英: Habsburg?Valois Wars)、ルネサンス戦争(英: Renaissance Wars)は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である[1]。教皇領、イタリアの都市国家(英語版)、ヴェネツィア共和国、西ヨーロッパのほとんどの国(イングランド、スコットランド、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では1494年から1559年としてはいるが、実際には戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。

マドリード条約(マドリードじょうやく、フランス語: Traité de Madrid; スペイン語: Tratado de Madrid)は、イタリア戦争中に神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世とフランス王フランソワ1世との間で結ばれた条約。

背景
1521年、イタリア支配をめぐってハプスブルク家(オーストリア・スペイン)とフランスは戦争を開始した。1525年にフランス王フランソワ1世はパヴィアの戦いでスペイン軍に敗れて捕虜となり、マドリードへ送られた。スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は、マドリード市民がフランソワ1世に同情的で、また教皇クレメンス7世やイングランド王ヘンリー8世などもカルロスに対立している情勢をみて、1526年にフランソワとの間で条約を結んだ。これがマドリード条約である。

内容
条約内容は、フランスがブルゴーニュ、ミラノ公国、ナポリ王国、フランドル、アルトワなどを放棄することを定めており、幼い仏王子2人と交換にフランソワ1世は釈放された。しかし、帰国したフランソワは翌1527年にこの条約を履行しないことを明らかにし、イングランド・イタリア諸国・教皇と手を組んで反ハプスブルク体制を固め、戦争を継続した。

なお、1526年には神聖ローマに属するサヴォワ家がプロヴァンスでニース伯を受領した。即ちモナコはスペインが支配した。


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