【一年前】
◎事務所の忘年会
「あまり給料上げられなかったけど、お客さんがだいぶ増えたので乾杯?」
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「増えたじゃないですか」
「増えたうちには入らん」
二人の女性職員(二人とも16年目40代)は来年から年金に加入して欲しいとのこと。
「ならあと10年は勤めてくれるということね??」
山下君(4科目合格)は相続税あと4点、高口君(1科目合格)は財表あと6点だったそうです?いずれも今は60点が合格ラインとのこと??来年は二人合格を目指す??
山下「独立を目指すということは全く考えていません」
私「なら合格したらすぐに税理士登録して税理士法人設立ね?」
高口「来年は絶対に財諸合格して、再来年は相続税を目指します」
妹「いい方向になっているじゃないですか」
………思わず目頭が………?
年末年始は
明日12月28日〜1月6日まで10連休?
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◎一年前の朝
妻「昨日は遅かったね」
私「徳川家康を読んでたから…
夏の陣のクライマックス…なかなか進まん」
「徳川家康を読んでるなら、
も少〜しそれらしく変わらんなら………
徳川家康の“と”もなかよ!!」
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【二年前】
◎芦田曲輪(あしだくるわ)
「上様はな、芦田曲輪の籾蔵(もみぐら)にかくれておわすに違いない」
「芦田曲輪………そのかくれ場所から、いったいいずれへ落ちてゆくので」
「………それにご城内にある切支丹の信徒どもは、いまだイスパニア国から助けの軍艦がやって来ると夢見ている。それゆえ、まず上様を薩摩にお落とし申して、その援軍の到着を待つ………と、考えてゆくに違いない」
「――隠れてあるは芦田曲輪」
「わらわは、これで三度、わが住まう城の焼ける焔(ほのお)を見まいた」
「最初は、父浅井長政の自害した小谷(おだに)の城、次は、母を焼いた越前北の庄の城………そしてこんどは………こんどは………ただひとりの、わが子の住まうこの大坂城にござりまする」
「最初に父を失い、次には母を焼き、そしてこんどは子を殺す………これ以上に呪われたおそろしい宿業がまたとあろうや………わらわのあるところ、必ず不幸がつきまとう………」
「道喜、ご苦労ながらそなたには母上と女中どもの介錯(かいしゃく)を頼みたい」
瞬間一座はギョッとなった。
「お許(こと)に、このわしの介錯を頼もう。よう戦ってくれた………忘れはおかぬぞ」
【徳川家康25巻】
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強仁状御返事 0184〜0185
第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べる
0184.05〜0185.02
同様の御文は行敏の御返事においても「私の問答は事行き難く候か、 然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か」(0179-01)とあって、私的な問答を拒否されている。行敏の場合は、背後に良観らが付いていた。強仁の場合は、そうした背後はないようだが、それでも問答はあくまでも公場で行うべきであるとの大聖人のお立場に変わりはない。
もちろんこのように言われるのは、これを機に、一国謗法を排し、立正安国論を目指されてのことであることはいうまでもない。
もとより、大聖人からすれば一真言僧の強仁との問答の決着はたやすいに違いない。それは、文永9年(1272)の佐渡・塚原での諸宗の僧俗との問答で明らかである。この時も「真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる」(0918-05)と、真言・台密の僧もきていた。しかし、「鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば」(0918-09)であったから、「ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず」(0918-08)の状態であった。強仁とて佐渡での真言師らと大した違いはないとおもわれるから、勝敗はおのずと明らかである。