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2019.12.28

2019年12月28日 (土) 03:54
2019.12.28

12月28日(土)

官公庁御用納め,仕事納め
官庁で、年末年始の休みの前のその年の最後の事務をとること。また、多くの民間企業でもこの日が仕事納めとなる。

1873(明治6)年から、官公庁は12月29日から1月3日までを休暇とすることが法律で定められており、28日が仕事納めとなる。

通常は12月28日であるが、土・日曜日の場合は直前の金曜日となる。

1857年 - アロー戦争: 広州の戦いはじまる。

2015年 - 日本の岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相が、日本軍慰安婦問題で「最終的かつ不可逆的に解決」として合意。
           
                
◎朝起きたら
娘「お父さんハグ……昨日はしてなかったけん………
(ハグ)………毎日せんなんね………お母さんとハグせんね」
「お母さん嫌がるよ」
妻「心臓麻痺起こす」
?

◎朝の食卓
奥さん「今日は仕事納めね。一年間ご苦労様でした」
「今年は今までで一番最高だった。来年はさらに」
「もう今からはお客さんと職員さんに尽くして尽くし抜いていかんなん。それでこそ本物………
今までは自分に尽くして尽くし抜いてきたけんね?
自分が一番大切やったろうけん」
???

◎公明新聞広告
掲載予定日2020年2月25日(火)?

◎事務所の忘年会
「ぶっちゃけ、山下君、税理士合格したら独立する?」
「いえ、そんなこと全く考えてないですよ」
妹「山下さんも高口さんも、休みが多いお陰で勉強が出来ると、クー(大牟田弁・とても)感謝しとらすとですよ」

「飲んだ席で言ってもセクハラにはなるけど、美江さん、年と共に益々可愛くなっているね。とくに美江さんの笑い声が可愛いとたい??」
( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

「来年一月から、今の退職金積立、月3万円、一人300万円×5人分1,500万円以上貯まっているけど、さらに医療保険とIDECOとNisaで月3万円ずつ、それにボーナスを一人5万円ずつ、夏と冬それぞれ、それに一月から三月に売上が増えたらその半分を春のボーナスとして、ボーナス年3回??」
( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

妹「それだけ上げて貰うのは嬉しいのですけど、皆が一番希望しているのは事務所の安定なんですけど………」

「それだけさせて貰わんと申し訳なかもん??」

あはははは( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆

☆☆☆盛り上がりました?
              
                  
◎寸鉄
皆が人材との確信が必要
―恩師。一人ももれなく
幸福に!激励を絶やさず
     ◇
「知恩をもて最とし報恩
をもて前とす」御書。師弟
の道こそ人生最極の軌道
     ◇
生命を千倍生きよ―楽聖
無量の「心の財」を積み
ゆく信心だ。勇敢に貫け

◎名字の言 「功徳」とは、どういう意味でしょう?
“対話の名手”と仰がれた釈尊には、一言も発せず、自らの姿だけで相手を説得したという逸話がある

▼釈尊を侮っていた人々がある時、こう示し合わせた。“彼が来ても、あいさつしてはならない。立って迎える必要もない”。だが釈尊の姿を目にした瞬間、皆が思わず立ち上がり、教えを請うたという

▼“超人的な力”と思いがちだが、決してそうではない。仏教学者の中村元氏は、釈尊の教化を「広々としたおちついた態度をもって異端をさえも包容してしまう」と表現した(『釈尊の生涯』平凡社)。釈尊の人格の深みから生まれる表情や振る舞いが、相手の心を動かしたのだろう

▼対話は議論とは違う。互いに心を開き、理解し合うことが目的である。話の中身も大事だが、誰もが話し掛けやすい雰囲気、何かを聞いてみたいと思わせる人柄こそ、豊かな語らいをもたらす力といえよう。仏教で言う「功徳」とは、サンスクリットの「グナ」が音訳された言葉であり、“すばらしい性質”との意味。すなわち「人徳」を指している

▼日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と。信行学を真面目に貫いた人の確信と慈愛は、振る舞いで伝わる。“人格こそ雄弁なり”と心得たい。(之)
          
          
◎仕事納め(しごとおさめ)
年末となる12月の下旬の、最後の仕事のこと。

解説
日本の官公庁では、行政機関の休日に関する法律(昭和63年12月13日法律第91号)により、12月29日から1月3日までを休日とし、原則として執務を行わないものとしており、12月28日を御用納めとして、その年の最後の業務日となっている[1]。12月28日が土曜日、日曜日に当たるときは、それぞれ12月27日、12月26日が御用納めとなる。

◎広州の戦い(こうしゅうのたたかい)は、アロー戦争中の1857年に清の広州で発生した戦いである。当時イギリスは、南京条約や虎門寨追加条約では清の内地へと立ち入れず利益が上がらなかった。このため再び開戦しての条約改正を企図し、アロー号事件を口実にして、同盟を結んでいたフランスと合同で、アロー号事件の清国側の当事者・葉名琛のいた広州を攻撃・占領したのである。葉名琛は捕虜となった。


【一年前】 
◎確定申告の広告
「自書作成コース」
「帳簿作成コース」
「おまかせコース」
の文字を大きめにしてリニューアル。
「最近広告の効果が出て来ましたよ?」
有明海の夕陽、事務所の写真も自分が撮りました。?

◎朝
妻「昨日は遅かったね」
「徳川家康を読んでたから…夏の陣のクライマックス…なかなか進まん」
「徳川家康読んでるならもう少しそれらしく変わらんなら、徳川家康の“と”もなかよ」
?
              
             
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

強仁状御返事 0184〜0185
第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べる 
0184.05〜0185.02

 さて、本文に入り、強仁から10月25日の勘状が12月26日に到着したと仰せられ、末尾には「十二月二十六日」と日付が記されていることから、その日のうちにしたためられた返事であることが分かる。その強仁の勘状に対して「此の事余も年来鬱訴する所なり」と言われ、公場での対決を提案されているところから、強仁の状が仏法の正邪を決しようとの勘状であったことが分かる。しかし、そのような「田舎」で論争しあっても、ちょうど錦の衣を暗闇のなかで見ていては分からず、立派な松も谷底にあっては、見いだせないようなもので、むだになるのではないかと、やんわりと拒否されている。

 「田舎」での問答とあり、強仁の勘状とされる書に「近日、当国来住の由、承り」とあって、これが真書だとすると、大聖人と同じ甲斐に住する僧であったことになる。

 だが、同じ甲斐に住んでいたとするなら、強仁の勘状が大聖人の手元に届くまで、2ヶ月もかかっているのは不自然だ。なんらかの理由で遅れたものか、あるいは、強仁が甲斐在住の僧でなかったのかも知れないが、資料不測の為検証の余地がない。

 いずれにせよ、このような田舎での問答では、どちらが勝つにせよ、公的な判定者がいないことから、正式に決着がつきにくい。したがって、お互いに勝ちを主張し、「喧嘩」のもととなると仰せられている。そして、もし本意を遂げようと思うならば公家と武家に訴えて、是非を明らかにすれば、皆が納得するであろうと、公場対決を訴えておられるのである。


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