12月27日(金)
694年(持統天皇8年12月6日) - 持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都する。
784年(延暦3年11月11日) - 桓武天皇が長岡京に遷都する。
浅草仲見世記念日
1885(明治18)年のこの日、東京・浅草の仲見世が新装開業した。
煉瓦作りの新店舗139店が開店した。1923年の関東大震災で倒壊したが、鉄筋の建物として再建された。
ピーターパンの日
1904(明治37)年のこの日、イギリスの劇作家ジェームス・バリーの童話劇『ピーターパン』がロンドンで初演された。
1945年 - 国際通貨基金 (IMF) と国際復興開発銀行(世界銀行)を設立するためのブレトン・ウッズ協定が発効。
◎朝食??したあと食べた食器に水を流していたら……
ボーン??
妻「あ痛ッ!!」
「バウンドしたね」
「なんね、尻と尻がぶつかってボーンげな………
私の方が勢いのあったばい。お父さんの方が負けとる」
?
◎「一月からパートを入れたら? 一人か二人………
短期アルバイトでなく常用で………職安で」
妹「そうですね」
「時給はいくらにする? 800円? 今はいくらにしてるかね」
「所長、むか〜しは時給800円はえらい高かったけど、今はそれでは最低賃金満たないんですけど」
「そうか」
「??税理士さんではないみたい」
◎「雇用者給与等支給額が増加した場合の税額控除」
妹「それには私は身内だから入れてはいけないこと知っています?」
「そうね? 普通に雇用してるやん」
「もう皆は何件もやってて『特別な関係者』は除くとなっているから、よく調べると『親族』がいることがあるんですよ」
「『特別な関係者』ていうのは『愛人』とかでないとかね』
「あはっ、税理士さんの言うことですかね」
?
◎イデコ
全会社員対象
75歳から受給開始可能
☆イデコも来月から全職員に加入すべく準備しているので、ちょうど時宜を得ているのかも。
◎ジムに行こうかと思いましたが………
今日も残業したため「居酒屋ケイコ」で、先生から戴いた同じお酒で晩酌しておりました。
◎藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城[1]。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。
『日本書紀』には新益京[注釈 1]と著されている。藤原京の名は、宮が同じく『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に近世になって名づけた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地があるが、近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。
『日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」とある。また、朱鳥元年七月の条に「元を改めて朱鳥(あかみどり)元年という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」とある。これを信じれば、「飛鳥浄御原宮」という宮号は天武十五年(朱鳥元、686)に名づけられたことになり、672年12月〜686年7月までは、この宮の名がなかったことになる。
◎長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。
延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。
桓武天皇(かんむてんのう、737年〈天平9年〉- 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。諱は山部(やまのべ)。
◎ブレトン・ウッズ協定(ブレトン・ウッズきょうてい、英語: Bretton Woods Agreements)とは、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。この体制は1971年のニクソンショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。この協定に基づいて確立した体制のことをブレトン・ウッズ体制という。
【一年前】
◎「きょうの発心」
原田副県長
地元の元支部長兼うちの関与先でもある。
原田宅が男子部の時、毎日拠点闘争でした。
「私も拠点を作らなきゃ」
今、拠点3会場!!
うちは「副県長」の関与先が2件もあります。
??
☆今は副県長3人で、かつ同時中継会場!!?
【二年前】
◎3ヶ月で決算料等で100万円アップ?
凄い?いつまでも続くやろうか。
給料もやっと上げることができました?
(40%=40万円÷5人=@8万円!!)
「所長の仕事は給料を上げること?」
今年最大の『功徳』?
?
妹「所長が買った絵の40万円だけ、2月10日の決済、難しそうですよ」
(え〜!!)?
ちょうど福岡銀行より年末の挨拶に。
「もしかしたら2月10日足らないかもです」
(やっぱいざというとき守られている?)
?
「地銀さんもマイナス金利で大変なようですね」
行員「そうなんですよ」
「リストラされないように頑張って下さい」
?
【三年前】
「苦しみの先に 新たな自分がいる」
若きスケーターに教えられます!
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
強仁状御返事 0184〜0185
第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べる
0184.05〜0185.02
講義
本抄は建治元年(1275)12月26日、日蓮大聖人が強仁の問答要求の勘状に対し、身延においてしたためられた返答の書である。御真筆は京都妙顕寺に存する。
強仁がいかなる人物であったかについての詳細はわからない。本抄に「大日本国・亡国と為る可き由来之を勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法・天台山第三の座主慈覚・此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し」と真言を破折されているところから、真言僧である可能性が強い。
御述作年次については、御真筆に「十二月廿六日」とあるだけで、年号の記載がない。一応、本抄は建治元年(1275)説がとられているが、他に弘安2年(1279)とする説もある。
ただし、建治2年(1276)1月11日に御述作の清澄寺大衆中に「十住心論・秘蔵宝鑰二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん、円智房の御弟子に観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ、 それのみならずふみの候由も人人申し候いしなり早早に返すべきのよし申させ給へ、今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(0893-01)とあり、真言師が蜂起していることが述べられ、本抄と時期的に符合することから、ここでは建治元年(1275)御述作とすることにする。