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2019.12.22

2019年12月22日 (日) 03:48
2019.12.22

12月22日(日)??80%

1185年(文治元年11月29日) - 鎌倉幕府による守護・地頭の設置が後白河法皇によって正式に認められる。

改正民法公布記念日
1947(昭和22)年のこの日、「民法」の第4編と第5編を全面改正する改正法が公布された。
家父長制の家族制度が廃止され、戸籍が夫婦単位となった。

労働組合法制定記念日
1945(昭和20)年のこの日、「労働組合法」が公布された。
「労働組合法」は、労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権等の保障について定めた法律で、「労働基準法」「労働関係調整法」とともに「労働3法」と呼ばれている。

1968年 - 文化大革命: 『人民日報』が「知識青年は農民から再教育を受けなければならない」とする毛沢東の指示を報ずる。(上山下郷運動)
         
         
「今日は寒かね」
「うん寒か」
「抱っこしてやろうか」
「おおごつ?心臓麻痺して運ばれんなんごつなる
………お父さんの方が先に心臓発作起こすやろ?
………抱っこするのはどっちかが要介護になった時たい」

午後、事務所で資金繰り表作成

温泉へ??

関与先と妹と私と3人で忘年会。
大牟田で一番の老舗の料亭。
お母さんは98歳でまだまだ元気で、私共夫婦の下仲人??

社長は、亡くなった母が地区婦人部長の時の地区部長で、聖教新聞を“代配なし“で20年間配りました。今76歳。

社長「俺は来世は必ず国会議員になる。間違いなくなる」
           
             
◎寸鉄
「いはずば・慈悲なきに・
にたり」御書。青年よ声を
惜しまず正義を語り抜け
     ◇
より良き社会構築へ会長
の行動に続きたい―市議
我らも人と人結ぶ対話へ

◎名字の言 隈研吾氏の建築思想とは?
 「新国立競技場」のオープニングイベントが、きょう行われる。東京五輪・パラリンピックのメインスタジアムとなる同競技場で、これから数多くのドラマが生まれるに違いない

▼設計を担当したのは隈研吾氏。独創的でありながら、社会に受け入れられる建築を実現するため、氏が提唱する建築観がある。それは「負ける建築」。すなわち、“控えめな建築”という趣旨である

▼「建築家は謙虚であれ」と呼び掛ける氏。人だけでなく建物もまた、目立とうとするより、環境と調和する建物をと訴える。新国立競技場の設計も、緑豊かな明治神宮外苑の景観と、いかに調和させるかという視点から考えられた(『負ける建築』岩波書店)

▼池田先生は25年前、建築に造詣の深い英国のチャールズ皇太子と「建築の思想」について語り合った。先生は「風景を尊重」「子供たちの遊び場など、人間が交流できる空間」「精神を高揚させてくれる建築」など、皇太子が提唱する建築に関する「十の原則」に言及。その根底に「人間を尊重する」精神が脈動していると述べた

▼創価の運動の目的は、「人間の尊重」という哲理を柱として、社会の繁栄と、平和を実現することにある。その出発点は常に自身の“建設”である「私の人間革命」にある。(澪)
         
               
◎守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。

制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。

平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を担保し、土地や百姓を自己の物とした。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。

後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉- 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉)は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。

鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。


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