◎1968年の夏、例年通りの大学入試や雇用はついに行われず、多くの青少年が都市において無職のまま紅衛兵運動に没頭した。北京の清華大学では、1967年以降、学生の派閥の分裂や争いが起こり、相互の論戦から100日続く武力闘争へと発展、1968年7月28日には事態収束のため毛沢東が人民大会堂で学生リーダーたちを説得しなければならない状態になった。こうしたことから紅衛兵運動は停止された。1968年12月22日には『人民日報』が「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」として、都市に住む中学生・高校生などは農村に行って働かなければならないという毛の指示を報じた。
下放(かほう)とはかつて中華民国、中華人民共和国で行われた、国民を地方に送り出す政策のこと。下郷運動ともいう。思想的な政策の色が濃い。
【一年前】
◎賞与支給
皆「ありがとうございます??」
妹「よー資金繰りが繋がります」
私「それは澄子のお陰たい」
妹「いえいえ所長の運の強さには負けます」
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◎サンクトペテルブルク
ドストエフスキー『罪と罰』の舞台。
まさに『罪と罰』の舞台。
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◎朝ドラまんぷく
「あんたは大器晩成型なんだよ。晩年に成功するんだよ。今起こっていることはすべてその時のための糧になるんだよ。だからさ、悲観的になんな」
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◎今年最後の地区座談会
「今年を振り返って」ひとこと発言
私
今年は休みが増え、自然とお客さんが増え、給料も11月までで100万円増え、売上も300万円増え、私の利益も160万円増え(わー??)、最後は税務署から300万円追徴課税され(えー?!)、上海の経費が全部否認され(朝ドラと同じやん)?、お客さんには「こんな税理士は見直してください」と言っていますが?、相続税の仕事や今日も新しいお客さんや引き合いもあり、銀行から500万円借りて、やっと借り替えをしなくていい状態になり、やっと奥さんに怒られなくなりましたが、スナックで綺麗な女性と鼻の下伸ばして歌っている顔をスマホで奥さんに見られて怒られしまいました。
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強仁状御返事 0184〜0185
第一章 勘状に対し公場対決を促す 0184.01〜0184.05
さて、本文に入り、強仁から10月25日の勘状が12月26日に到着したと仰せられ、末尾には「十二月二十六日」と日付が記されていることから、その日のうちにしたためられた返事であることが分かる。その強仁の勘状に対して「此の事余も年来鬱訴する所なり」と言われ、公場での対決を提案されているところから、強仁の状が仏法の正邪を決しようとの勘状であったことが分かる。しかし、そのような「田舎」で論争しあっても、ちょうど錦の衣を暗闇のなかで見ていては分からず、立派な松も谷底にあっては、見いだせないようなもので、むだになるのではないかと、やんわりと拒否されている。
「田舎」での問答とあり、強仁の勘状とされる書に「近日、当国来住の由、承り」とあって、これが真書だとすると、大聖人と同じ甲斐に住する僧であったことになる。
だが、同じ甲斐に住んでいたとするなら、強仁の勘状が大聖人の手元に届くまで、2ヶ月もかかっているのは不自然だ。なんらかの理由で遅れたものか、あるいは、強仁が甲斐在住の僧でなかったのかも知れないが、資料不測の為検証の余地がない。
いずれにせよ、このような田舎での問答では、どちらが勝つにせよ、公的な判定者がいないことから、正式に決着がつきにくい。したがって、お互いに勝ちを主張し、「喧嘩」のもととなると仰せられている。そして、もし本意を遂げようと思うならば公家と武家に訴えて、是非を明らかにすれば、皆が納得するであろうと、公場対決を訴えておられるのである。