◎1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。
家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに吉良の首を取ることができた。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。
この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。
◎霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。
源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。
【一年前】
●月光のように美しいママとツーショット?
久しぶりに大川税務署に準確定申告書を提出に持参する途中、大栄会の皆さんに先んじて、月のママのお店に昼食で立ち寄りました。
18日忘年会二次会会場
ツーショット?奥さんには決して見せられない写真。先日は見られてしまったけど。
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【二年前】
●年賀状
妻「いいのができたね!」?
私「年賀状で初めて褒められた?」
「奥さんの意見を聞いたけんたい」
「六十にしてやっと耳従う…か?」
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【三年前】
●トランプ次期米国大統領
「『一つの中国』に疑義」(読売夕刊)
ーーこれは大賛成!当たり前の事ですけど、誰も言えなかったことを言うトランプ氏はやっぱり凄いのかも。「一つの中国」に“こだわる”程に台湾は離れていく!
かつてある中国人が言ったことがあります。
「中国に二つの政党があれば必ず戦争になります。日本は1億で政党が10位あってなかなかまとまらないでしょ。中国13億をまとめていくには『一つの中国』しかないんです」
ーー「なるほど!」と思いましたけど。
「貿易などで合意できないなら、なぜ『一つの中国』に縛られないといけないのか」
ーー全くその通りです!
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第二章 平左衛門尉に国を安ぜよと諌める
0183.08〜0184終り
講義
平左衛門尉が幕府の実力者として、大聖人の言を用いるよう、強く諌められている。
初めに、未来に起きる出来事を知る者は、儒教で正しい臣下を基準に六種に分類した六正のなかでも、最高の「聖臣」とされている、と指摘されている。
そして、法華経を弘める者は、諸仏の使者なのであるとされ、大聖人自身が、釈尊が霊鷲山で説いた法華経や、入滅の前に鶴林で説いた涅槃経の文を開いて、仏の真意を覚り、それによって未来を勘えたところ、符合したのである、と仰せになっている。
大聖人が、世間的にいえば未来を知って国を救う聖臣にあたり、仏法のうえでは仏の使いであり、立正安国論の予言が、経典を根拠として、仏の本意に依ったものであるゆえに的中したことを明かされ、したがって人々、人々は大聖人の言を信じ、用いるべきことを示されているのである。