◎西晋(せいしん、拼音: Xījìn)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして三国時代を終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに再統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。
完全な滅亡
懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた懐帝の甥の司馬鄴(愍帝)は313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗した[29]。しかし長安も漢の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、316年に長安が陥落して洛陽と同じく略奪殺戮の巷となり、愍帝は漢に降伏し、平陽に拉致された。こうして西晋は完全に滅亡した。
愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の317年12月に漢の劉聡により殺された。ここに司馬昭・司馬炎系の西晋の皇統は断絶した。
これより先、司馬越の命令で江南の方面軍司令官として安東将軍・都督揚州諸軍事として統治に当たっていた琅邪王・司馬睿(元帝。司馬懿の四男司馬伷の孫)は、愍帝が降伏すると317年3月に晋王を称して建武と改元した[28]。そして殺されたことを受けると、318年3月に即位して建康に都して東晋を建国した。
◎西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。
◎閣議決定
12月12日には東条内閣の閣議において、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」が閣議決定された[10]。この閣議決定の第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、支那事変(日中戦争)と「対米英戦争」を合わせた戦争呼称として「大東亜戦争」が公式に決定した[10]。また「平時、戰時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」ともされた。
「大東亜」という呼称
初出
1938年の第1次近衛内閣が発表した支那事変(日中戦争)の戦争目的を発表した「東亜新秩序」声明では「大東亜」は使用されておらず、1940年(昭和15年)7月26日の第2次近衛内閣で閣議決定された基本国策要綱において「大東亜」の名称が初めて用いられたとされる[8]。この中では「日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」という文言がある[8]。また8月1日には松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」という用語を初めて用いた談話を発表した[8]。
対象地域
松岡は大東亜共栄圏を「従来東亜新秩序圏乃至は東亜安定圏と称せられてゐたものと同一」であるとし、日本・満州・中国に加え、フランス領インドシナ、オランダ領東インドをも含めた範囲であると説明した[8]。
1942年(昭和17年)2月28日の大本営政府連絡会議では「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、大東亜の地域を「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸地域、其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した[8]。
大本営参謀を務めた瀬島龍三は「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している[14]。
◎国際連合安全保障理事会決議121(こくさいれんごうあんぜんほしょうりじかいけつぎ121、英: United Nations Security Council Resolution 121,UNSCR121)は、1956年12月12日に国際連合安全保障理事会で採択された決議。日本の国際連合加盟承認を勧告したものである。決議は全会一致で採択された。
【一年前】
●自宅の航空写真
私と娘のマイカーは止まっているけど、奥さんの軽が止まってなくて、合併症浄化槽がくっきりと見える。緑の屋根が我が家ながらなかなかいい。
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【二年前】
●名古屋城
10日聖教に先生の中部池田記念会館から見た名古屋城が。私は10月6日名古屋城から中部池田記念会館を撮っていました。ちょうど今読んでいる徳川家康は、夏の陣に臨み名古屋城に滞在しているところ。
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山岡荘八『徳川家康』のあとがきの「人間革命」、魯迅、名古屋城………
先生と幾重にも呼吸が合っている感じ?
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【三年前】
●今日の夫婦の会話ーー
私「明日『海賊とよばれた男』を観て来る」
妻「あーそれは私も行くことにしていた」
私「そうね!!久しぶりに趣味の合うたね♪」
妻「趣味の全く違うのが、よー31年も続いてるよ!?…でも今日は合うたね♪」
ーーということで、
夫婦久しぶりに趣味が合い、
明日『海賊とよばれた男』を
一緒に鑑賞して来ます。?
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第二章 平左衛門尉に国を安ぜよと諌める 0183.08〜0184終り
本文
夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり法華を弘むる者は諸仏の使者なり、而るに日蓮忝くも鷲嶺・鶴林の文を開いて鵝王・烏瑟の志を覚り剰え将来を勘えたるに粗符合することを得たり先哲に及ばずと雖も定んで後人には希なる可き者なり、法を知り国を思うの志尤も賞せらる可きの処・邪法邪教の輩・讒奏讒言するの間久しく大忠を懐いて而も未だ微望を達せず、剰え不快の見参に罷り入ること偏に難治の次第を愁うる者なり、伏して惟みれば泰山に昇らずんば天の高きを知らず深谷に入らずんば地の厚きを知らず、仍て御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す、勘え載する所の文は九牛の一毛なり 未だ微志を尽さざるのみ、抑貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。
文永八年九月十二日 日蓮花 押
謹上 平左衛門殿