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2019.12.11-2

2019年12月11日 (水) 02:01
2019.12.11

【一年前】
●アンナ・カレーニナ(トルストイ)
「またロシアの彼女に会って来ようかな?!
………ロマンティック・ロシア」
妻「行かんちゃよか」
娘「貢いだ人やろ」
??

Bunkamura ザ・ミュージアム
11.23 - 01.27
EXHIBITIONS
Bunkamura 30周年記念 
国立トレチャコフ美術館所蔵
東京・渋谷、ロマンティック・ロシア

☆1月14(月)に行くことにしました?
(13-14東京)

☆大誓堂も同日急遽申請?
5回目!!

【二年前】
●汗の悪霊
(戦の恐ろしさを知らぬものほど手に負えぬものはない………)

(おかしな善根を積ませられゆくものじゃ)

(太閤は、あまり善根は積まなんだが………)

「またまた女子衆は、もののみごとに欺(だま)されました」

「何といわるる。名古屋の婚儀が、大坂攻めの用意じゃと!」

………治長の予言どおり、織田有楽斎父子の姿が、かき消すように城から消えていたのである。

その場の不利に引きずられ、つまらぬ意地に謀略を交じえて、長びかせておくうちには家康が死ぬであろう………などという隙(すき)だらけの和議であった。そのようなご都合主義の和議を、戦好きの武神の悪霊が見のがしておくものではない。
「−−ここにこそ戦わせる隙があったぞ?」

好戦の悪霊どもは、この巨大な城の空間にみちみちて、おそらく手をふり、足を振って哄笑(こうしょう)乱舞(らんぶ)しているに違いない。
が、そのいまわしい悪霊の乱舞を、ハッキリとその眼で見得る人が幾人あったか………?
???
【徳川家康24巻】

◎島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆[1]とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。従来、信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出ている。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。

◎1953(昭和28)年に改組され、現在の名称・国連児童基金になったが、UNICEF(ユニセフ)という略称は一般に普及しているということで、そのままになった。

◎1953年のストライキ以降、経営合理化が進まない三井鉱山の経営はますます悪化していった。このため、三井鉱山は三池炭鉱からの活動家の一掃を決意し、1959年(昭和34年)1月19日、6000人の希望退職を含む会社再建案を提示した。同年8月29日には4580人の人員削減案を発表。続いて12月2日・3日には1492人に退職を勧告し、これに応じない1278人に対し12月11日に指名解雇を通告した。

労組側はこの措置に反発し、無期限ストに突入した。一方、会社側も経営再建の決意は固く、三池鉱山のロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止でこれに対抗した。財界が三井鉱山を全面的に支援した一方、日本労働組合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支援したため、三井三池労組は「総資本対総労働の対決」などと呼ばれた。

だが、実際には三池労組は孤立していた………。

◎世界貿易機関(せかいぼうえききかん、英: World Trade Organization、略称:WTO)は、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関である。常設事務局がスイスのジュネーブに置かれている。

GATT(ガット)ウルグアイ・ラウンドにおける合意によって、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(WTO設立協定)に基づいて1995年1月1日にGATTを発展解消させて成立した。

中華人民共和国(中国)の世界貿易機関加入は、2001年11月9日から13日まで中東・カタールのドーハで開かれたWTO第4回閣僚会議において、11月10日満場一致で可決された。中国は翌11月11日に受諾書を寄託したことから、加入議定書の規定により、30日後の2001年12月11日に加入資格が正式に発効し、中国は143番目の加盟国になった。同時に台湾の中華民国(台澎金馬個別関税領域)の加入も11月11日に可決され、2002年1月1日に加入資格が発効している。これにより、東アジアの国際的な経済関係にWTOという共通の基盤が整うこととなった。


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一昨日御書 0183〜0184
立正安国論の予言の的中を指摘する

大聖人は文永5年(1268)10月の極楽寺良観の御状に、「日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り」(0174-08)と仰せであり、また「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え」(0174-01)と述べられている。
 こうした御文の意から、蒙古の襲来に必ず勝利する法は、邪法への帰依を止めて、正法を立て、大聖人に帰することであるが、そのためには、西伯が太公望を、劉邦が張良を厚く遇したように、鎌倉幕府は大聖人を遇すべきであると言われているのである。


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