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2019.12.10

2019年12月10日 (火) 00:45
2019.12.10


12月10日(火)

世界人権デー(Human Rights Day)
1950(昭和25)年の国連総会で制定。国際デーの一つ。

1336年(建武3年/延元元年11月7日) - 建武式目が制定される。

1520年 - マルティン・ルターが、自説を撤回しなければ破門するとの教皇レオ10世による警告文書を焼く。

1901年 - 田中正造が足尾銅山の鉱毒事件について明治天皇に直訴。


◎今年9件目の相続税申告
「あのー、金庫に現金が5,300万円あったんですけど」
「5,300万??………
この前の申告では金の延べ棒6,000万円が出てきましたけど」
――あるところにはあります???

◎住宅ハウジング会社より
お客さんからの税務相談の顧問になって欲しいとの依頼。
お昼に電話があり、夕方来所。
最近は思いもよらないところから仕事が広がる。
「今の税理士さんは?」
「職員が来ているけど先生とは全く会ったことがない」
ネットで調べたら地場の中堅どころ。
「これ、先生のホームページを印刷したんですけど」
………???今はほとんど頭になかったホームページ?
「猿渡税理士事務所」で検索したら確かにまだあった?
自分でもほとんど忘れていた。
??

ホームページに新たに………
毎年『福岡国税局電話相談員』受任中
(1月21日〜3月15日) 
<令和2年は11日間予定>
………を追加して更新。

久しぶりに残業………

◎夜
妻「明日も拠点は10時から3時まで五時間唱題会だから朝は早く出てね。明日も私、五時間に挑戦したいから」
「奥さんのその題目のお陰でお客さんも増えているとばい」

◎支部長
「19日の支部座談会には梅村九州総合長が入られます」
「この前博多で一緒に飲んだばかりですよ。最後は5人で木庭さんも一緒でしたよ」
「すごいのひとことですね」
??


◎1948(昭和23)年のこの日、パリで行われた第3回国連総会で「世界人権宣言」が採択された。
「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」で始る全30条と前文からなっている。
日本では、この日までの一週間を「人権週間」としている。

世界人権デー(せかいじんけんデー)は毎年の12月10日に行われる。世界人権の日(せかいじんけんのひ)、または単に人権の日(じんけんのひ)とも。

世界人権宣言が、1948年(昭和23年)12月10日の第3回国際連合総会で採択されたことを記念して、1950年(昭和25年)の第5回国際連合総会において、毎年12月10日に記念行事を行うことが決議された[1]。

1968年(昭和43年)以降、5年ごとに、世界人権デーである12月10日に、国連人権賞が授与されている。

日本では、この日を含む形で直前の1週間(4日から10日まで)が「人権週間」に、直後の1週間(10日から16日まで)が「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」に指定されている。


◎建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)は、建武3年11月7日(1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目である。御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。

◎レオ10世は回勅『エクスルゲ・ドミネ』(主よ、立ってください)を発布して自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1520年12月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。これを受けて1521年の回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』(ローマ教皇として)によってルターの破門が正式に通告された。

◎12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う[7]。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ


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一昨日御書 0183〜0184
立正安国論の予言の的中を指摘する

蒙古からは、その後も、文永6年(1269)、文永8年(1271)と相次いで使者がきたが、幕府は明確な回答を与えなかった。その一方で、西国の御家人に対して、外敵への防備を指令し、特に九州地方の地頭や御家人を異国警固番役に当てて、筑前や肥前の海岸へ要衝を輪番で警固させる体制をとった。いうまでもなく、この蒙古襲来の危機は、日本の国始まって以来の最大の国難であり、幕府が対策に苦慮していた問題だったのである。
 大聖人は、中国の故事を引かれて、蒙古襲来に勝利する道を示唆されている。
 周の文王の師となった太公望呂尚は、文王なきあと、文王の子・武王をその智謀で助けて、暴虐な殷の紂王を倒している。それは、西伯が呂尚を師として礼を尽くした徳によるのである、と仰せられている。
 また、漢の高祖・劉邦の軍師となった張良は、秦王朝を滅ぼして、漢の建国に貢献している。それは、劉邦の誠実に感じたからである、とされている。
 大聖人はこの二人を「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」と、史記の高祖紀の意をとって称賛されている。呂尚も張良も、その智謀によって作戦の段階で必勝の策を立て、戦わないうちから千里の外の勝利を決した。といわれているのである。


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