12月7日(土)
神戸開港記念日
1867(慶応3)年12月7日(新暦1868年1月1日)
神戸港が外国船の停泊地として開港した。
新暦に換算した1月1日も「神戸港記念日」となっている。
2019-1867=152年?
1972年12月7日にアポロ17号の乗組員によって、地球からおよそ4万5千キロメートル(2万8千マイル)の距離から撮影された。
1857年(安政4年10月21日)- ハリス駐日アメリカ総領事が江戸城に登城、江戸幕府13代将軍徳川家定に謁見。
◎今年9件目の相続税申告
「広告かホームページを見て来られました?」
「いえ、Google地図からです」
「Google地図? そうなんですか」
「余所も当たられたと思いますけどうちが一番安かったでしょ」
「そうですね?」
「安いのだけが取り柄ですから」
「期限が過ぎていて、年内には終わりますので、着手金は半分にさせて貰います」
「わ、それは有り難いです?」
◎名字の言 中国の周恩来総理「私は誠実な人を好む」
『わが七爸 周恩来』
権威におもねり、都合の良いことばかりを報告するような人物は好まなかったという
▼国連の会議で中国代表が発言した時のこと。周総理に意見を求められた著者が「時宜にかなっていたと思います」と述べると、総理は「たったのそれだけか」と不満げに。著者は正直に答えた。「この件については知っていましたが、急いでいたので内容の詳細は把握していません」。総理は笑みを浮かべた。「その答えも誠実で良い。誇張したり?をついたりするくらいなら答えないほうがいいからだ。私は誠実な人を好む」
▼45年前の1974年12月5日
「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどうしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが、私にはとてもうれしい」と総理
▼池田先生が開拓した日中友好の「金の道」は今、両国民の心を結ぶ大道と輝く。自らが決めた誠実の一路を歩む――人間の真の道であり、不変の大義である。(川)
◎寸鉄
「法門をもて邪正をただ
すべし」御書。正義の言論
こそ我らの魂。障魔破れ
【一年前】
●研修会終了間際………大坪税理士から電話
私「大坪君から電話ということは、何かまた問題発生?」
大坪「そうたい?ドンピシャ」
消費税の研修会で公明党の軽減税率をぼろくそに批判する熊王先生が、あっちこっちの研修会で、「熱心な信者さんから『仏罸が落ちますよ?』とお叱りを受けるんです」と言って触れ回ってあるらしい。
「え〜ッ」
「猿渡のことだよ」
「そうね、ならそれだけ命に刺さったということたい」
「やっぱり良識を持ってせんといかんていうことよ」
「良識も大事だけど、言われっぱなしはでけんもん?
言われたなら反撃せんなら」
「仏法がわからん人に『仏罰が落ちますよ』とか言っても意味がわからんやろうが」
「警告は言わんと」
「そこに参加したほたる会のメンバーがいやーな思いをする」
「そうねぇ」
「それで、東京からほたる会幹事のKさんが直に猿渡に指導に飛行機でわざわざ来られるということだから、14日は空いてる?」
「ならしっかり指導を受けておきます」
??????
【二年前】
●朝
博多サウナで黒の肌着を着たら、
「あら???」
胸のあたりがビロ〜ンとさがり……お腹部分がビシッとめり込み……袖もまくり上がっている……
「あれ、これ奥さんのやん?」
?
夜、帰宅して奥さんに言ったら、
「あははは( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
想像したらおかしか?ごめん、間違ごうてお父さんのところに入れとった」
?
現物を見せたら、
「ほんなこて!!」
?
◎神戸港開港記念日(12月7日 記念日)
1867年(慶応3年)12月7日(新暦1868年1月1日)、神戸港が外国船の停泊地として開港した。
開港当時は「兵庫港」と呼ばれていたが、1872年(明治4年)に「神戸港」と改称された。神戸港は外国船の停泊地として発展し、横浜港と並んで二大国際貿易港となった。新暦に換算した1月1日も「神戸港記念日」となっている。
神戸港は、開港以来、外国から持ち込まれた食やスポーツ、娯楽など様々な文化の玄関口としての役割を担ってきた。そして、神戸のまちは、それらを受け入れ、神戸独自の生活文化に昇華させ、やがて日本全国に広まることとなった。
神戸港は、2017年(平成29年)1月に開港150年を迎えた。その記念すべき年を市民とともに祝い、市民の海、船、港への関心を深め、また、神戸港の新たなスタートとするため、神戸開港150年記念事業が実施された。
◎ザ・ブルー・マーブル(英語:The Blue Marble)
1972年12月7日にアポロ17号の乗組員によって、地球からおよそ4万5千キロメートル(2万8千マイル)の距離から撮影された、著名な地球の写真である。英語で「青いビー玉」を意味する。宇宙飛行士からは、地球がまるで子供が遊ぶガラスのビー玉のように見えたため、これが写真の題名となった。
「ザ・ブルー・マーブル」は、現存する写真の中で世の中に最も広まった写真の一つである。また、宇宙飛行士が太陽を背に撮影した、完全に輝く地球を捉えた数少ない写真の一つでもある。
◎ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、江戸に入る。江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍徳川家定に謁見して親書を読み上げている。
タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)
アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。タウンゼンド・ハリスと表記されることもある。
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一昨日御書 0183〜0184
立正安国論の予言の的中を指摘する
本抄では、初めに、一昨日の9月10日に平左衛門尉と対面できたことは、喜ばしいことである、とされている。一往は、世間的な挨拶といってよいが、再往は、平左衛門尉と直接、対話することによって、仏法の道理を教え、幕府の衆経政策の誤りを破折し、諌めることができる好機になったということから喜ばれたと拝せられる。
そして、人として生をこの世に受けた者として、後世の大事を思わないことはないはずであり、仏の出世は民衆を救うことが目的である、と仰せである。衆生の願いは成仏することであり、それに応じて出世した仏の目的も、衆生を成仏させることなのである。
大聖人自身も、出家されて以来、いろいろな法門を学び、既に諸仏の本覚を悟り、生死を出離して成仏する道をほぼ得ることができた。その要は妙法蓮華経である。 とされている。