◎キエフ大公国(キエフたいこうこく)
9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。
10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。
どこ?
黄金の門(ウクライナ語: Золоті ворота;ゾロチー・ヴォロータ)は、ウクライナの首都キエフの歴史的地区にある史跡、キエフ大公国時代のキエフの中央門である。
『原初年代記』によれば、1037年にヤロスラウ賢公がキエフを開発し、町の境界線に土塁を盛り、その上に城壁を作らせ、西へ向かう入り口に大門を構築した。この門の名称は、当時の欧州にとって文化の源であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスの門にちなんで、「黄金の門」と呼ばれた。
キエフの黄金の門は土塁の間に大きな赤色の煉瓦と石で造られ、塔のように聳え立った。門の入り口の広さは約7.5mで、壁の高さは9.5m以上であった。キエフはキリスト教の町であることを見せるために、門上に受胎告知教会が造られた。門内はモザイクと壁画によって装飾された。
1240年に黄金の門は、モンゴル帝国の軍勢によって破壊され、それ以後再建されることがなかった。17世紀のオランダ人の画家アブラハム・ファン・ヴェスターフェルト(イタリア語版、ポーランド語版、ベラルーシ語版、ウクライナ語版)はキエフを訪れるとき、その廃墟をスケッチした。18世紀に門の跡は完全に土に埋まってしまったが、1832年のK・ロフヴィーツィクィイは発掘調査を行い、史跡として保存した。
1982年に黄金の門は復元された。新しい建物は遺跡をカプセルのように覆い隠した。また復元と同時に、この門の歴史についての博物館が開館された[1]。
◎エジソンの蓄音機
1877年12月6日、音楽を生ではなく録音再生する製品として最初に登場したのがエジソン[1]の蓄音機で、円柱の蝋管に音を深さで刻む蝋管式蓄音機で、音を出すには音の溝を針でなぞってそのまま機械的に振動板へ振動を伝える構造で、振動板の中心点に接着してある紐が引っ張って振動を伝える仕組みになっている。具体的にはとても複雑な仕組みで、角度や長さ等が厳密に設計されていて大変精巧な作りになっている。 この音を出すパーツをサウンドボックス、あるいはレプロデューサーといい、今でいえばスピーカーに相当するパーツで、振動板は現在のスピーカーの振動板が平行往復運動するのと違い、振動板の中央の点で駆動される為、振動板は撓み運動で音を出している。この振動板の中央を点で駆動する仕組みはマグネチックスピーカーも同じで、戦後のダイナミックスピーカーが出るまで続いた。
◎リクルート事件(リクルートじけん)
1988年(昭和63年)6月18日に発覚した日本の贈収賄事件である。
リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。
当時、第二次世界大戦後の日本においての最大の企業犯罪であり、また贈収賄事件とされた。
贈賄
1984年(昭和59年)12月から1985年(昭和60年)4月にかけて、江副浩正リクルート社会長が自社の政治的財界的地位を高める目的で、有力政治家、官僚、通信業界有力者にリクルート社の子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した。未公開株の取引相手は、1984年12月20から31日の期間に39人、1985年(昭和60年)2月15日に金融機関26社に、4月25日に37社および1個人にわけられる。
1986年(昭和61年)6月に藤波孝生元官房長官ら政財界へのコスモス株譲渡がおこなわれた。
1986年(昭和61年)10月30日にリクルート・コスモス株は店頭公開された。譲渡者の売却益は合計約6億円とされている。
発覚
1988年6月18日に川崎駅西口再開発における便宜供与を目的として川崎市助役へコスモス株が譲渡されたことを朝日新聞が『川崎市助役へ一億円利益供与疑惑』としてスクープした。当時再開発が行われていた明治製糖川崎工場跡地の再開発事業であるかわさきテクノピア地区に関して、本来容積率が500%のところを800%に引き上げて高層建築を可能とさせるのが目的であったと報道された。
7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は衆議院税制問題等に関する調査特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。さらに学界関係者では、政府税制調査会特別委員を務めていた公文俊平にも1万株が譲渡されていたことも判明した。
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一昨日御書 0183〜0184
それを聞いた平左衛門尉は「太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911-13)という状態で、平清盛が狂ったように、少しも周りをはばかることなく、怒り狂ったのである。
本抄で「不快の見参に罷り入ること」と仰せになっているのは、当時の平左衛門尉のそうした状態をさしてのことであろう。
大聖人は、一日おいた9月12日に、平左衛門尉の反省を促すために、本抄を書きおくられたのであろう。
本抄が、平左衛門尉の怒りに火に油を注ぐような結果となって、大聖人の処刑を決断されたのであろうか、行き違って読まれなかったのかは、明らかではない。しかし、「御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし」(0911-05)と述べられているように、幕府の内部では、大聖人を処刑することは、既定の方針だったと思われる。
そして、同じ9月12日の夕方、平左衛門尉が自ら数百人の武装兵を指揮して、大聖人を逮捕し、謀反人のように鎌倉市中を引き回して、連行した。幕府は正式な取り調べも、裁判も行わず、一往は佐渡へと流罪としておきながら、12日の深夜に大聖人を引き出して、鎌倉郊外の竜の口で処刑しようと謀り、失敗したのである。