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2019.11.28-3

2019年11月28日 (木) 01:05
2019.11.28

◎ 日顕宗による理不尽な「破門通告」から28年。
“衣の権威”の鉄鎖を断ち切り、「魂の独立」を果たした学会は、192カ国・地域へと、仏法史上、未曽有の大発展。
世界宗教に飛翔する重要な分岐点の日となった。

日顕宗が笑止千万の「破門通告書」なるものを学会に送りつけてきたのは、1991年(平成3年)の11月28日だった。
前年末に創価学会切り捨ての策謀をめぐらし、理不尽にも葬儀・登山・本尊などを脅しの道具にして隷属を強要した陰謀だった。しかし、仏意仏勅の学会は、日蓮大聖人直結の信心で一切を粉砕し、堂々たる前進を遂げた。
 逆に“衣の権威”の鉄鎖から解放されたこの日は、学会の「魂の独立記念日」となった。

◎1520(永正17)年11月28日、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランが、後に『マゼラン海峡』と命名される南米大陸南端の海峡を通過して太平洋へ出たことにちなんで記念日を制定。
天候が良く平和な日が続いたため、マゼランはこの海を、
"Mar Pacifico" (平和な海)
と表現したそう。
そこから「太平の海」の意味を持つ
『太平洋』
が名付けられたとされております。
マゼラン自身はフィリピンで原住民に殺されたが、
彼の船は初めて世界を一周して帰国し、
「地球は丸い」
ことを証明しました。

◎ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが遺したピアノ協奏曲の一つ。『皇帝』(こうてい)の通称で知られている。

スケッチそして作曲
1808年12月末頃にスケッチ着手。同月22日にアン・デア・ウィーン劇場に於いて『ピアノ協奏曲第4番ト長調』や『交響曲第5番「運命」』、『同第6番「田園」』などの新作の初演を兼ねた4時間に及ぶ長大な演奏会を開いていることから、当該演奏会の直後に当楽曲のスケッチに取りかかったものとみられている。

11月28日にライプツィヒに於けるゲヴァントハウス演奏会に於いてフリードリヒ・シュナイダーの独奏による初めての公開初演

☆ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第4番, 第5番「皇帝」??
シュテファン・ヴラダー(ピアノ)/カペラ・イストロポリターナ/バリー・ワーズワース(指揮)
6曲 | 1:13:00 | 173.6 MB  2017/04/19 配信
AAC 128/320kbps

◎鹿鳴館(ろくめいかん)
1883年(明治16年)に日本の外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である。国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1941年(昭和16年)に取り壊された。

同館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。
 
しかし当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。


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一昨日御書 0183〜0184
第一章 立正安国の予言の的中を挙げる 0183.01〜0183.08

講義

 本抄は、文永8年(1271)9月12日に、日蓮大聖人が、鎌倉幕府の実力者、平左衛門尉頼綱に送られた書状である。
 「一昨日御書」という題名は「一昨日見参に罷入候悦び入り候」と書き出されているところから名付けられたものである。御真筆は現存しない。
 文永8年(1271)9月12日といえば、竜の口法難の当日である。本抄は、この最大の法難に至った経過を物語る、重要な一書となっている。
 平左衛門尉頼綱は、北条得宗家の家司で、幕府の侍所の所司を兼ねておい、幕府の軍事・警察・政務を統括していた実力者だった。大聖人が本抄をしたためらえた2日前の9月10日に、大聖人と対面している。
 その際に、大聖人は毅然として諌暁されたが、平左衛門尉は受け入れる姿勢が全くみられなかったため、改めて本抄を著され、立正安国論を付して平左衛門尉に送られたのである。


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