◎山一證券株式会社
(やまいちしょうけん、英: Yamaichi Securities Co., Ltd.)
かつて存在した日本の証券会社。
野村證券、大和證券、日興證券とともに日本の「旧・四大証券会社」の一角にあったが、不正会計(損失隠し)事件後の経営破綻で1997年(平成9年)11月24日に廃業した。
11月24日は月曜日だったが、勤労感謝の日の振替休日で休業日だった。午前6時から臨時取締役会が開かれ、自主廃業に向けた営業停止が正式に決議された。会社創立から100年目という節目の年に、山一證券は廃業という社史で幕を閉じた。午前11時30分に社長の野澤、会長の五月女、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見に臨んだ。記者会見が2時間ほど経過したところで、野澤は『私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから』と立ち上がり号泣しながら述べ、その様子は当時の報道機関によって大々的に報じられた。負債総額約3兆5000億円。
破綻の原因とされるもの
☆法人営業への注力
もともとは、個人顧客を相手にした証券会社だったが、戦後から法人営業に注力し、大口の物件を取る方針をとっていた。不況時に企業の投資枠縮小に遭って業績不振に繋がった。相手が法人であることから、運用利回り保証や損失補償を迫られ、運用上の足枷が大きかった。
一任勘定で発生した損失を引き取らせる事が困難で、それを山一側で引き受けざるを得ない状況に陥った。これが簿外債務となり、破綻の直接の原因となった。つまり不況による法人の弱体化、それによる株の損失が引き金となって自主廃業に追い込まれたのであり、このような経緯から山一の破綻はいわゆる「平成不況」の象徴的事例としてさまざまな場面で引用されることとなる。
1965年の危機
1965年に西日本新聞のせいで取り付け騒ぎが起こり倒産しかけたが、この時は当時の田中角栄蔵相が、証券会社の資金が不足した場合大蔵省(当時)と日銀が救済する、と明言したため騒ぎは収まり、山一は日銀から不足する現金を融資(日銀特融)してもらい破綻を免れた。
しかしこれによって山一證券は1969年まで国に首根っこ掴まれた状態になった。大蔵省の推薦で社長となった興銀出身の日高輝が1972年に退任した後、再び山一社内の主流派である植谷久三が社長に就任すると、一気に経営を拡大させた。
しかし、右肩上がりに経済成長を続ける日本経済にあって山一は、同じ大手証券会社の中で出遅れた感があり、他社は山一以上に成長して、1965年危機の前まで日本2番目の証券会社だった山一は4番目(大手最下位)に落ちぶれてしまった。
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第11章 仏法破壊の史実挙げ量観らの大悪を示す
0182.07〜0182終り 2019.11.14
以上のように仏教破壊の事例を挙げられたうえで、大聖人は、しかしながら仏記にとると、これらは仏法の怨敵ではない。仏法を滅失するのは、三明六通の羅漢のごとき僧侶らである、と述べられている。そしてその「仏記」として守護経と涅槃経が挙げられているのである。経題のみで具体的に文は示されていないので、いかなる内容であるかに触れておきたい。
守護経巻10の阿闍世王受記品第10には訖哩枳王の二つの夢が説かれている。
その一つは10匹の猿がいて、そのうち9匹は城中の一切の人民、男女を擾乱し、飲食を侵奪し、器物を破壊した。ところが一匹だけ心に知足を懐いて、樹上に安坐して人を乱すことはしなかった。10匹の猿は、釈迦牟尼仏の10種の弟子であると説き、10種の沙門を挙げて詳述している。そのなかで、「四には仏法の過失を求めて沙門と作る」など9匹の猿は総じて相似の沙門であり、知足の一猿こそ真実の沙門であると説かれている。この9猿とは、今の僭聖増上慢であり、一猿とは、真の法華経の行者である。