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2019.5.19

2019年05月19日 (日) 00:06
2019.5.19

◎朝、採血
妻「ご飯も食べんで何処に行っとるとかなと思った」
私「ご飯も食べんで行く所は病院しかない」
「あははは……確かに」
「餓鬼界は満たさんと」
「餓鬼界まだあった」
「あるよ。餓鬼界も修羅界もある」
「修羅界もある?もうないと思った」
?

◎マッサージのポイント
ポイントでマッサージをする時は、少しでも時間が重なっておかないといけないらしい。
私「もう、いっぱい重ならんでも、ほんのちょこっと重なるといいとよ?」
妻「そうたい?」
??

◎バイス(今年19本目)
まさかの実話!アメリカ史上最強で最凶の副大統領

イラクは核兵器も秘密兵器も持っていなかった。………このような“政治映画”は日本のみならず、朝鮮や、ましてや中国ではもってのほか。アメリカの懐の太さを、今更ながらに感じます。

モデルは………
リチャード・ブルース・"ディック"・チェイニー(Richard Bruce "Dick" Cheney、1941年1月30日 - )
アメリカの政治家、実業家。下院議員、国防長官、副大統領を歴任した。ウェールズ系アメリカ人でメソジスト。趣味は狩猟と釣り。(78歳)

【一年前】
●laboremus(ラボレムス)
「さあ、仕事を続けよう」
私たちは、人類と世界の未来を展望し、「二十一世紀への対話」を開始したのである。 談たまたま、私の質問が、博士の「座右の銘」に及んだ時であった。間髪を入れず、博士はおっしゃった。「ラテン語で『ラボレムス』 ー 『さあ、仕事を続けよう』という意味の言葉です」と。
(トインビー・池田対談)

【二年前】
●手荷物で夫婦言い合いっ子!
今月27(土)-28(日)の東京交流は、奥さんと娘は熊本の妹(本部長)と羽田で合流し、私は飛行機もホテルも行動も別々。
私「飛行機に手荷物を預けた方が楽よ」
妻は「着いてから待っとかんなんでしょうが」
私「今はちょっとトイレに行く時間くらいよ」
と言いますが平行線………。
夕食時、お互いどうでもいいことで言い合いっ子しておりました。夫婦共々、境涯がまだ低いです。
?

◎鷹の巣【私本太平記(ニ)】
「こんな山おくに、妙な人がいつか巣を懸けて、毎日、書(ほん)を読んでいる」
 当時、里人(さとびと)の噂をきいて、いつはやく、時親の問をたたいたのは、ここから遠からぬ赤坂の水分(みくまり)に住む楠家の一冠者(かじゃ)だった。つまり正季(まさすえ)の兄、正成(まさしげ)である。

楠木 正季(くすのき まさすえ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
河内国の豪族・楠木正成の弟。
七郎・帯刀と称した。
鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明 伝・嘉元3年(1305年)
死没 延元元年/建武3年5月25日
(1336年7月4日)
主君 後醍醐天皇

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

十一通御書 極楽寺良観への御状 
第一章経文通りの僭聖増上慢と断ず

良観聖人の住処を 法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、 

良観聖人の住処を法華経勧持品第十三には「或は阿練若に有って、法衣を身にまとい、人里離れた所に住む」とある。

阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条 住処と相違せり 併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、 

阿練若とは「無事」という意味である。日蓮を讒訴するなどは、この住処と相違していようか。すべての点からいって、あなたは戒定慧の三学を修行するに似た矯賊の聖人である。

僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、 聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、

まさしく僣聖増上慢であり、今世においては国賊であり、来世は………

☆『阿練若』………まさに『橋下』のことだ??
橋下はまさに良観の眷属??
?

「悪」は必ず裁かれ、滅びる。
創価学会をいじめたり、迫害したり、裏切った人間は全部、仏罰を受けてきた。また、これからも必ず受けていくことであろう。そうでなければ、仏法は嘘になる。
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
――過去現在の末法の法華経の行者を軽蔑し、いやしめる権力者、その臣下、そして民衆は(迫害した)当初は、何も起こらないように見えても、最後は必ず滅びないものはない――。
まったく、この御聖訓の通りである。たとえ「国法」による裁きから逃げられたとしても、「仏法の因果律」による裁きだけは、絶対にごまかせない。逃れることもできない。
「始めは事なきやうにて」
――必ず最後は裁かれる。仏法の因果は厳然たるものである。
牧口先生「正邪の決着をつけるのが慈悲」
仏法は「勝負」である。仏法は「現証」である。これこそが「宗教の生命」であると、牧口先生は喝破された。
牧口先生は、「正邪の決着をつける」ことが、人々に「動執生疑」を起こし、人々を正義に目覚めさせることになると知っておられたのである。そうさせていくことが慈悲であり、勇気なのである。
牧口先生は言われた。
「戦えば戦うほど、こちらが強くなればなるほど、仏法勝負の実証は早く出てくる」と。

☆松井が目論む………
都構想、憲法改正、道州制
いづれも崩れ去る??
?


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