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2019.2.11

2019年02月11日 (月) 00:16
2019.2.11

家族3人で北九州合流
8:28新大牟田?博多?(快速)10:14戸畑
10:30北九州文化会館
新名九州総合長
「合言葉はーー
『私は薄いけど誰かが濃い?』
それでいいんです」
?

会合が終わったら木下社長夫婦
「あ、来てたんですか??」

戸畑駅にいたら新名九州総合長とバッタリ?
娘に「税理士の旦那を見つけて事務所継がせるといいよ?」
??

「真颯館高校」
ーーなんて読むのかなあ?
ーー「しんそうかんこうこう」

T税理士「わ〜わざわざお休みのところ、家族で回ってあるんですか、大変ですね」
「仏道修行ですから」
?

「門司港レトロ」でぶらり

「博多万葉の湯」でゆらり

妻「幸せを噛み締めた?」


【一年前】
◎ 大栄会
約30年来の税理士受験仲間四人組?
美人の憧れのママさん
鼻の下伸ばした自分の写真見て
「年取ったなあ??」
?

◎羽田空港アクセス線
羽田空港⇔東京駅28分→18分
羽田空港⇔新宿駅48分→28分
2029年頃
    
    
◎応天門の変(おうてんもんのへん)
平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件。応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
『藤原摂関政治』の始まり

藤原 良房(ふじわら の よしふさ)
平安時代初期から前期にかけての公卿。
皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。

皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。

清和天皇(せいわてんのう)
850年5月10日(嘉祥3年3月25日)
- 881年1月7日(元慶4年12月4日))
平安時代前期の第56代天皇。在位は858年10月7日(天安2年8月27日) - 876年12月18日(貞観18年11月29日)。諱は惟仁(これひと)。

後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。

父・文徳天皇が践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいたが、 外祖父・藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。
   
     
◎「馬鹿」の語源になった話
秦の始皇帝の死後、実権を握り、………
恐怖政治に走った趙高(ちょうこう)は馬を引かせて、皇帝の前に出した。そして、
「めずらしい馬が入りました」
皇帝・胡亥(こがい)
「これは鹿ではないのかね」
趙高は周りの廷臣たちに
「これは馬で間違いはあるまい?」
彼を恐れる者は馬と言い、気骨のある者は鹿と答えた。趙高はのちに、鹿と答えた者をすべて殺した。
これによって、鹿だと答えるものはいなくなり、すべての大神が趙高に従って馬だと答えるようになった。
この故事は、
『指鹿為馬(しろくいば)』
(鹿を指して馬となす)と呼ばれ、
「馬鹿」の語源となった。

☆高校の「漢文」であったような………。

鹿を指して馬だと言うことは、だれもが嘘であることを知りながら、絶対権力者に迎合することである。

権力者は絶対に間違えない、間違いがあってもそれを指摘しない。中国社会には、現在もなおそのような風潮がある。

中国共産党の批判、最高権力者の批判は、現在の中国でもタブーである。習近平主席は決して間違えない。指導者のマイナスになるような事実は伝えない。だから神格化ばかりが進む。真実が嘘となり、嘘が逆に真実になる。

………「社会主義強国を目指す」
などと主張する。
独裁政治で言論弾圧を行いながら、
「わが国はどこよりも民主主義だ」
などとうそぶく。嘘がそのまま現実をつくる。欺瞞が世の中に蔓延しているのだ。

もちろん秦は、このような社会制度も皇帝制度もすべて嘘の上につくりあげたことによって、次第に疲弊し、まもなく滅亡することとなる。
(石平)
   
    
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

十一通御書 北条時宗への御状 
第三章諸宗との公場対決を迫る

「桓武」とは、日本の第50代桓武天皇のことで、仏教に理解が深かった。伝教大師は延暦21年(0802)1月19日、高尾寺で南都六宗の碩学14人と対論し、彼らを論破して謝表を提出させた。

このことについては撰時抄には「仏の誡ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う、彼の学者等・始めは慢幢・山のごとし悪心・毒蛇のやうなりしかども終に王の前にしてせめをとされて六宗・七寺・一同に御弟子となりぬ」(0263−17)と記されている。

このように公場対決を求められるのは「敢て日蓮が私曲には非ず」と述べられ、その本意は「只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上」しているのであると述べられて、本書を結ばれている。

宛名は「謹上 宿屋入道殿」となっているが、この御状が執権・北条時宗宛てであることは内用から明確であり、これは近侍である宿屋入道の手を経て北条時宗の御前へ披露を請うという形式を踏まれたためである。


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