◎午前中、全パソコンに不具合?
メール、インターネット、所内ランが全く繋がらない?
………
こんな時に限って今日は3人も休み……
所内は私と女性1人
あっちこっち電話
………
………
「あ、ここが外れている?」
結局、ルーターのコンセントが外れてただけだった………掃除機かけたりして外れたかな?
良かった?
「ルーター1本で全部止まるなんて!」
?
◎マッサン
親父「いい嫁さんじゃないか……
大事にしろよ
………
どうだ、久しぶりに相撲をとらんか………
わしに勝ったことがないくせに
………
日本中の人に……
ウィスキーを飲ませるんだろ?
………」
夫婦して涙………?
妻「恵太(息子)と相撲とったら負けるやろ」
私「そらもう負くるよ、最初からせん!」
「腕相撲も高校生の時にクラスで優勝したげなよ、ボウリング?で鍛えとらすけん、今もよく大会に出て200以上出さすげなよ」
「誰の血かね?」
◎「革新市政・革新政党を問う」
(第三文明4月号)
共産党に食い込まれたところは結局、瓦解していく。それは、そもそも共産党に現実の政権を担う能力がないからだ。古くは東京都の財政を破綻した美濃部都政しかりである。
共産党にとっては人びとの苦悩や不安も「党勢拡大」に利用する道具でしかない。だから常に政治への不信や憎悪を煽り、“対決”を演出して社会を分断していく。
この点、同じ少数政党の公明党が、地方でも国でも合意形成の媒介役として手腕を発揮し、庶民の声を政策に結実させ、高い政権運営能力を証明し続けていることとは対照的なのである。
?共産党とは戦わねばならない??
「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳」
◎亡国の野党
「無責任野党と左派メディアは………国防や外交、経済など日本の国益は彼らの眼中にはなく、まるで外国勢力の手先として行動しているかのようだ」
(ケント・ギルバート)
?まさに日本の野党は、韓民族が常に外国勢力を自国に招き入れて自爆してきた亡国の歴史と同じようだ。
◎佐藤×岡本対談(第三文明4月号)より
●左からの国家主義
昨今は、「右からの国家主義」の危険とともに、「左からの国家主義」の危険も高まっています。たとえば、日本共産党が打ち出している「国民連合政府構想」なるものは、「左からの国家主義」の危険な萌芽です。共産党がナショナリズムに軸足を移すことによって勢力拡大を意図しているように思えます。
●公明党には「北朝鮮にも苦しんでいる民衆がいる」という共感力を持って、対処していただきたい。そうすれば、軽々に米朝戦争の方向に舵を切るような真似、それを煽るような発言は、決してできないはずです。
●軽減税率導入は公明党らしい政策
「軽減税率より、現金給付と所得税などの払い戻しを組み合わせた『給付付き税額控除』のほうが、低所得者に的を絞った対策ができる」と主張した政党がありましたが、低所得層の現実を理解していない主張だと思います。低所得層には、毎月の収入をきちんと割り振って使えない「生活習慣弱者」が、かなりの割合で存在します。その人たちは、たとえば三か月にいちど現金給付があったら、いちどに使い果たしてしまうでしょう。だから、毎日の買い物で少しずつ軽減される形のほうがいいし、公明党は「福祉の党」だけあって、低所得層の現実をよく理解していると思います。
●私自身、キリスト教徒でありながら公明党を支持しているのは、創価学会を支持母体とする公明党が持つ価値観に共鳴しているからです。
十四年までの“いきすぎた政教分離”は、公明党が創価学会との関係を「隠している」という印象を与え、世の人々にある種のいかがわしさを感じさせていました。もっと価値観、言い換えれば公明党らしさを前面に出す結果として「公明党ビッグバン」は起きると思います。
●支持率を上げるために、たとえば広告代理店に公明党のイメージアップ戦略を依頼するとか、小手先の対策をやる必要はないと思います。そんなことをしなくても、これから公明党の支持率は少しずつ上がっていくと思います。私の周辺でも、公明党を支持していなかった人が支持するようになったり、公明党に敵愾心(てきがいしん)を持っていた人が敵対しなくなったりするケースが最近多いですから。10年前も今も、公明党の支持率は同じ4%かもしれません。しかし、数字に表れない部分で蓄えられたエネルギーは、10年前より確実に高まっています。
◎夜
妻「よー勉強するね」
私「常に勉強よ」
私「今日もよー胸の出とるね」
妻「いやらしか! スケベ親父が?」
?
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八宗違目抄 p.159
文永九年二月 五十一歳御作 与富木常忍
第十章 一念三千は法華経のみに明かす
【本文】
止の五に云く「此の十重の観法は横竪に収束し微妙精巧なり
【通解】
摩訶止観巻五に「この十重の観法は、次第順序を経て収束した微妙精巧なものである。
【解説】
天台大師自身が、十重観法が仏道修行においてもっている意義について述べ、一代聖教の極意であることを言明している止観の文を挙げられている。