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2018.2.16

2018年02月16日 (金) 00:18
2018.2.16

◎「家督は竹千代――」
同じ兄弟でも生まれる子に器量の差があるのは当然のこと。

「――泰平の世の人間は腕力よりも理性と知恵で組み立てられた秩序によって支えられねばならぬものだ」

………家康はこれを、「長幼(ちょうよう)の序」と言った。

生まれて来る子は何人あろうと、その両親の子である前に、まずこの世を支える神仏の恵み………すなわち天地の子であるのだ。

したがって、真理の前に敬虔ならば、これに私情をくわえて、その序をみだるべきではない。

そこに家康の「嫡出子相続――」 の信仰的な根拠がある。いや、これこそたくさんの子を持って知った家康の、最後に辿りついた結論であり知恵であろうと宗矩(むねのり)は思っている。

家康
「――人間はの、その気になって教育すれば、知・徳ともに、ある程度までは磨き出してやれるもの。その努力をせず、同じ子供に好悪・賢愚の差をつけては神仏におそれがあろう」

しかも、いちばんすぐれた子に家を渡す………となると、たとえそれが両親であっても、その眼に大きな迷いがでる。親が迷うほどなのだから、重臣たちの中にも派閥ができるのは否みがたい。古来からのお家騒動と言われるものは、みなこの家督相続をめぐって起こる人間愛憎の迷いなのだ。

「――この序を立てておかぬと、そこから無限に騒動が芽生(めば)えての、泰平の世は保てぬと見てとったぞ」

そこで家康は、かくべつ愚鈍な生まれつきでない限り、まず嫡出子相続と決めておくのが、天意にかなうと言っていた。

「――ここは国(国松)どのの坐るところではない。よいかの、国どのは竹千代どのの家来なのだ」

【徳川家康26巻】

☆「長幼の序」
孟子の言葉です。 孟子は、儒教の教えで特に「四端;仁・義・礼・智」の得を説いています。「 長幼の序」は、この内の「礼」にあたります。 これからも分かるように「長幼の序」は「年少者は年長者に(敬意を持って)礼を尽くしなさい」の意になります。

?これは「後継者問題」で迷う
経営者がいたら、
いいアドバイスが出来そう?
??

◎インフルエンザが流行っている
妻「皆さん免疫がないとよね」
私「奥さんは俺の浮気で免疫がついとる」
「よー言うよ、正々堂々と…」
?

◎中の下
私「先日、ある関与先に
まともな顔をしていませんので、
まともな顔の写真は一枚もありません。
とりあえず4枚送ります」

妻「お父さん
もう少し自分の顔に自信持っていいよ…
もっとひどい人いっぱいいるから…
まあ中の下(げ)かな?」
「下(げ)ね?」
?

◎ブロック座談会
30年前うちの支部長だったS副圏長
「私は毎晩10時になったら寝るんですけど、もう80になるうちの女房、
それからずっと聖教、大百などを
線引っ張ってずっと読んでいるんです。
わが女房のことですけど、
こういう婦人部が創価学会を
支えているんだなと思います。
それに比べ報告するときは壮年部、
スッタクなんですよ。
まさに先生の言われる
『創価婦人学会』ですよ」(笑)

「誓願の祈りが大事?」

私も先駆長として御書講義をさせて貰い、
新大牟田駅22:11の新幹線?で
博多?サウナへ。


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

八宗違目抄 p.156
文永九年二月  五十一歳御作 与富木常忍
第三章 八宗所立の本尊を破す

【本文】
例せば三皇已前の人・禽獣に同ずるが如し鳥の中に鷦鷯鳥も鳳凰鳥も 父を知らず獣の中には兎も師子も父を知らず、三皇以前は大王も小民も共に其の父を知らず 

【通解】
鳥のなかに鷦鷯鳥のように劣ったもの、鳳凰鳥のように勝れたものもあるが、とも父を知らず、獣の中にも劣った兎も勝れた師子もあるが、ともに父を知らない。人も三皇以前は大王も小民もともにその父を知らなかった。

【解説】
「禽獣」にも鷦鷯鳥と鳳凰、兎と師子のように、大小・勝劣の違いはあっても、父を知らないということは同様であり、人間にくらべればはるかに劣るのである。

これを諸宗にあてはめれば、真言・華厳などの大乗宗は師子と鳳凰のごとくであり、?舎・律などの小乗宗は鷦鷯鳥と兎のごとくであるが、真の主師親を知っている法華宗にくらべると、はるかに劣ることになると喝破されている。

諸宗が一様に真の父たる寿量品の釈尊を忘失して、本尊に迷っている現状を厳しく指摘されたものである。

このことは、開目抄でも「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し」(0215−01)と、本尊迷乱を指弾されている。


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