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2018.1.7

2018年01月07日 (日) 00:06
2018.1.7

◎雷神乱舞

?雷神風神は……
『家康』(社長)と
『光悦』(私)のこと?
?

大坂落城から一ヵ月。
−−本阿弥光悦の眺めた現世は手のつけられないほど堕落と混乱の世界であった。
どこにも「正法−−」は行われず、どこにも爽やかな「美−−」はなかった。

(人間というのは、どうして、こうも愚かなものであろうか?)

「あ、雷神の絵だ?」
光悦は眼を丸くした。デンデン太鼓を打ち鳴らして、空駆ける雷神を描こうとしているらしい。しかもその雷神のとぼけた童顔はどうであろうか。威厳もなければ鬼気(きき)迫る………と、いった感じもない。祭り囃(ばや)しに浮かれて出てきた宗達そのもの………といった臍(へそ)とり物語のカミナリ親爺だ。
(とぼけた男だぞ)

(これは宗達ではない。が、どこかで見た顔だぞ)

「へへ………」

「申し訳ない」

「ははあ、それでわかった? するとあれは、この光悦であり、そして、また二条城の………」


「生命が何じゃ? この世はなあ、日蓮聖人の仰せにそむいて、汚れや歪みに眼をつむり、御無理ごもっともで生きてよい世界ではない。それでは生を盗む盗賊じゃわい」

家康に、最後の意見をしたうえで、俗世間からは隠れよう。北条氏に強意見をつげた後、身延にかくれた日蓮聖人のように………その決心を、ゆくりなくも宗達がさせてくれた。宗達はよい友達だった………

「柿茶碗−−」

掌(てのひら)の中に宇宙をつつむ………

(みじんも言葉など飾るものか。これが日蓮聖人と二人で生きる本阿弥光悦の面目なのだ)

「そうか。よくいうた………」

阿茶の局は、駿府で家康の側に仕えていた。上総介忠輝の生母“茶阿の局”とは別人である。

(これだけ毒ついても、なぜ家康は怒らぬのか?)

「あの千姫さまを江戸へ………まあ?」

「そうではない。あやつをわしは好きなのだ。どんなに悪しざまに罵られても」

光悦もむろん尋常の男ではない。やがて家康の苦心と好意を知って泣くであろう。

………武家諸法度(しょはっと)十三ヵ条とともに、禁中及び公家(こうけ)の憲法を制定することになっていた。
(もうまたほかのことを………)
勝重は改めてきびしい家康の人生を仰ぎ直した。


◎夕飯たべながら
妻「私の今年の漢字一字、決めたよ
………『笑』。
………どんなときでも笑っていくことにした
………お父さんも何か考えたら?」


◎3.11(日)『世界青年部総会』に向けて?
担当幹部はH副県長
「題目は毎日6時間、
5年で2,500万遍超えました
………Hさん、ニコ〜ニコしとるね、
と言われます
………でも入らっしゃれんとですよ」
(笑)

妻「今日のHさんも良か人ね」
「聖教新聞の販売店を定年退職されもう5〜6年。ずっとうちでも月次と申告させて貰ってたとよ、税務調査も一度来たけど、な〜んもなかった」
??

◎会合の帰り
私「………なら俺の今年の漢字一字は
………『円』?
………『円融・具足』の『円』
………もう少し円(まる)くならんといかん
………
そして、恵(娘)は
………『蘇生』の『蘇』
………『よみがえる』
………
恵太(息子)は
………『開く義』の『開』
………『開く』
これを今年は祈っていこうかね」

「そうね、ずっと祈っていったら必ず
叶っていくよ」
「お、久しぶりに気の合うたね」

「私も愚痴を言わんで
女優にならんといかんけど
………やっぱりなれんもん
………裏切られた傷
………心に深い傷の残っとるけん
………この傷は未来永劫消えんね」
?


◎「今からジム月10回」
妻「お、よー頑張るね」
?


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

蓮盛抄 p.153 建長七年 三十四歳御作
第十章 禅宗が大邪見なるを明かす

【本文】
当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり、 就中三惑未断の凡夫の語録(ごろく)を用いて四智円明の如来の言教を軽んずる返す返す過(あやま)てる者か、 

【通解】
今の世の禅宗の者はすべて大邪見の輩である。なかでも末だ三惑を断じていない凡夫の言葉を集めた書物を信用して、四智の円かで明るい如来の教えを軽んずるのは、どう考えても誤っている者である。

【解説】
更にいわんや円満で常住の秘密の妙法などどうして簡単に認識できるであろうか」という文を引用され、これを裏づけとされて「当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり」と結論されている。邪見とは因果の道理を否定する見解のことであるから、当世の禅を行ずる者たちは悟りに到達するための因と果の道理を否定しているゆえに「大邪見」と断じられているのである。

更に禅宗を大邪見と断ずる理由として、見思・塵沙・無明の三惑を末だに談じきっていない単なる凡夫である先輩の禅僧の書いた語録を大切にして、四智が円満に具わった如来の言葉や教えを軽んじている姿を挙げられ、同時に「返す返す過てる者か」となげかれている。


?「当世の禅者皆是れ大邪見の輩なり」

?「返す返す過てる者か」


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